mistletoe #3



 指先に熱い涙の感触。

 冷え切った赤い髪に鼻先を触れさせると、馴染みのないヒトの匂いがした。
 胸の内の鍛えられない部分を、キリキリと締め上げられるような甘い匂い。回した腕に知れず力がこもってしまう。
「…マツシタ、みっけ」
 和泉の白く冷たい指先が、松下の手に重なった。
 その上にフワリと雪が舞い落ちる。
「なに泣いてんだよ」
「べっ…別に、泣いてねーし!」
 この期に及んでまだ嘘をつくか、コイツ。
 じゃあなんでこんなに睫毛が濡れてんだよ? 濡れた小指の先でワザと唇をなぞってやる。寒さに震える小鳥のようにソレが震えた。
 マフラーの隙間からのぞいてる素肌に唇を寄せる。
 狂えるような匂いがより強烈になった。
 ピクン、和泉の体が揺れる。
 触れさせた唇で滑らかな肌を辿り、そっと舌先をあて滑らせる。
 甘い感触。蕩けるような恍惚。深い陶酔の内へと墜とし込まれそうな。
 逆らえない誘惑。
「…ン…っ」
 腕の中から堪えきれないかのように、甘い声が漏れた。
 押し殺した小さな声。一歩間違えれば、理性をも焼き切り兼ねないソレを聞いて…。

 つーか、何やってんだよ自分!

 瞬間、松下は我に返った。
 無意識にとはいえ、自分のした所業に我ながら呆れる。和泉を窺うと耳まで真っ赤にして呆然としているようだ。
「アー……冗談だ」
 松下は溜め息混じりに呟くと、腕の中からを和泉を解放した。
「…当たり前だろ」
 松下に負けないくらい憮然とした口調で吐き捨てながら和泉が下を向く。だが、その耳元は未だに赤く染まったままだ。
 場を保ち切れず、決まりの悪い沈黙が二人の間を流れる。
 が、それを打ち破るかのように。
 クシャン…、クシャンっ!
 懸命にマフラーを掻き合わせていた和泉が、ネコのようにクシャミを連発した。
 その鼻先をかすめていく白い羽。
「あっ」
 ようやくそれに気がついたのか、和泉は息を呑むと大きく目を見開いた。
「雪じゃんっ!」
 感嘆の声をあげるなり、いきなりその場をダッシュしはじめる。
 オイオイ、おまえは犬か、幼稚園児か?
 もしくはそれ以下のレベルに違いない。思わずそう頷きたくなる場面だ。
 ……とはいえ松下の耳も真っ赤に染まっていたので、甘い雰囲気を払拭する和泉の行動にいまは感謝の念すら抱きかねない心境だった。
 何はともあれ、だ。
 いくら寒さに強い松下といえども雪国で育ったわけではない。雪までチラつきはじめてはこんな所に長居をするわけにもいかなかった。
 時計に目を走らせると0時を少し回ったくらいだ。気は進まないがこの公園に留まるぐらいなら、イヴのメンテという貧乏クジを引き当てたマネージャー二人と、下らない雑談でも交わしてた方がまだマシというものだ。
 背後でズシャっ、と変な音がする。イヤな予感がして振り向くと、和泉がちょうど顔面から芝生の上に着地したところだった。真性のアホだこいつは…。しばらくしても起き上がる気配のない和泉に、松下は仕方なく片手を差し出すことにした。
「早く起きろ」
「…足、ヒネったかも」
 ったく。有り難いぐらい次々と問題をつくってくれるヤツだな。
「とりあえずこっちこい」
 和泉を引き起こしてコートの芝を払う。いちばん近いベンチに座らせると、松下は捻ったらしいという右の足首を手に取った。傍から見るとまるで松下が和泉に傅いてるかのような光景だ。自分でもそう思いはしたが、あえて口には出さないでおいた。和泉の方もなぜか大人しく足を差し出している。
「痛いか?」
「ソコは別に…」
 正直、互いにまだ顔を見合わせられないのだ。
 和泉の視線は恐らく広場の向こうに。そして、松下の視線はブーツの上から一センチだって動かせなかった。
 たぶん目を合わせたが最後、言葉を失ってしまうだろう。
 その先をどうしたらいいのか。
 互いに解らないでいる。
「ここは?」
「あ、ちょっと痛い…かも」
 和泉が小さくうめく。だが分厚いブーツ越しではよく解らない。
「コレ脱がすぞ」
 和泉の了承を得て、松下がブーツの金具に手をかけたところで。
「あ」
 チャリーン、という硬質な音がコンクリから響いてきた。
 二人同時にその音の正体に視線を据える。
 それから同時に目を合わせて…。
 思わず吹き出さずにはいられなかった。


「ったく、人騒がせなヤツ」
 和泉の足首は、それほどひどく捻っているわけではないようだ。歩く分には支障はない。だが念の為、明日は病院に行った方がいいだろう。
「だってあんなトコに引っかかってるなんて思わないじゃんよっ」
「ハイハイ、なんともおまえらしいオチだよな」
「だから、そこでそういう笑い方すんなッつの!」
 覚束ない足取りでフラフラしながら、和泉の掌が松下の背中を思い切り引っ叩いた。派手な音がする。
「イテーな、オイ」
 だが口ではそう云いながらも、松下が応えた様子は微塵もない。悔しそうにかきあげた和泉の前髪からハラハラと雪の破片が舞い落ちた。
 街灯の明かりを受けてそれが煌々と乱反射する。
 目が合うと照れのためか。それとも堪え切れない悔しさのせいか、真っ白い頬にすっと赤味がさした。
 丸い目がいまも濡れて輝いて見えるのは…いや、たぶん気の所為だろう。
 それにしても、人の涙があんなに温かいモノだとは知らなかった。まだこの指先に熱い感触が残っている。そして恍惚に包まれるようなあの…。
 目の前に落ちてきた白い羽を掌に着地させる。
 昔から体温は高い方だ。平熱でも37度を割ることはごく稀だった。当然それは数秒ともたず、ただの水へと変化してしまう。和泉の肌に触れた雪はいまだその結晶を保っているというのに。
 ヒョコヒョコと片足を庇いながら歩く和泉の手から、ケーキの箱を奪い取ると松下は冷え切った手をつかみそのまま自分のポケットに突っ込んだ。
 凍った指に、熱く火照った五本の指をからめる。
「なんか、火傷しそ…」
 聞き取れないほど小さな声で呟いてから、和泉が決まり悪そうにそっぽを向いた。絡んだ和泉の指に力がこめられる。


 降りしきる雪の中、手を繋いでたどる家路は甘く。
 そして、どこかくすぐったかった。


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