mistletoe #4



 シュン、シュン…シュン…。


 ヤカンが湯気を吹き出しはじめる。
 松下は無言で火を止めると、自分にはブラックコーヒーを、そして和泉には甘いミルクティーを入れた。
 熱いカップをテーブルの上に置いてやる。
 伏せられていた視線が一瞬だけあげられたが、松下の姿を捉えるとまたすぐにそれはテーブルの上へと戻されてしまった。
「サンキュ…」
 小声の礼をはさんで、和泉の白い指がマグカップを包み込む。
 松下はその向かいに腰を下ろすと、何も云わずにコーヒーを啜った。
 コンロの上ではまだシュンシュン…とヤカンが名残のような音を立てている。
 ほかに聞こえてくるのは秒針の音ぐらいだろうか。耳を澄ませば相手の鼓動さえもが聞こえてきてしまいそうな気がする。
 冴えて青みがかった静寂。それが余すところなくこの部屋の中を満たしていた。
 いや、ひょっとすると世界中をだろうか? 音というすべての音を、降り続くこの雪は吸収してしまう。
 世界中でただ一つ、声が響くのはこの部屋だけなのかもしれない。
 どこまでも静穏な世界。
「食わないのか、ケーキ」
「…食べる」
 和泉がたどたどしい手つきで包装紙を引き剥がし、ケーキの箱を開ける。
 いつものペースをつかみ切れなくて、ギクシャクしてるのは何も和泉だけではない。それは松下も同様だった。
 雪の帰り道、ヤバイ予感はずっとしていたのだ…。

 玄関の扉を閉めるなり。
 どちらからともなく腕を引き寄せ、唇を重ね合わせていた。
 言葉を交わすように舌を絡め、愉悦を味わう。
 氷と炎ほども違った体温が、やがてどこからが自分だったかも解らなくなるほどに長い間、互いの熱を貪り合っていた。
 長いキスを終えふと我に返ると、そこにもはや日常のペースは残されていなかった。後に残るのは、しっとりと甘く、どこか淫靡で醒めた雰囲気。
 あれからまともな会話は一度も交わしていなかった。
 互いを探り合うような、潜めた息とそばだてる耳。視線が交差することはない。
 ともすると雰囲気に押し流されそうになるギリギリのライン上で。
 張り詰めた神経をキリキリと引き絞る。
「あ…」
 その緊張をわずかに弛ませるように、和泉が小さく声をあげた。
「これ、ってゼリー…?」
 物色していた箱の中から円筒形の細いガラスの器を持ち上げる。透明なジェルの底には小さな薔薇の蕾が沈んでいた。そういえばキャンドルも入ってるから、と珠枝が云っていたのを思い出す。どうりで箱が重かったわけだ。
「ゼリーキャンドルだな。食いモンじゃねーよ」
「なんだ…ロウソクなんだ」
 ガッカリしたような声で呟いてから、和泉がそれをテーブルの上に置く。そのあからさまに落胆してる様子が妙に可愛らしく見えて松下は密かに眉をひそめた。
「ライター取ってくる」
「あ、うん」
 その様に目を奪われる前に、松下は立ち上がると和泉に背を向けキッチンに向かった。確かこないだ氷室が忘れていったものがあるはずだ。松下自身は喫煙者ではないのでライターを所持する習慣はない。
「だ、誰のこれ?」
「俺のじゃないことだけは確かだな」
 逆さにするとパツキン美女の水着が消えていくという下世話なライターしか見つからず、松下は仕方なくそれを手に戻るとキャンドルに火をつけた。ライターを手に和泉が目を丸くする。
 だがほんの一瞬、和みかけた空気もまた音もなくテーブルの下へと沈んでいった。
 鼻先をかすめていく空気の流れ。
 ケーキ屋なのにアロマコーナーを担当することになったという珠枝が、いつだったかゼリーキャンドルのキレイさについて熱弁を奮っていたことを思い出す。確かに目の前のキャンドルはキレイだったが、松下は同時に自分がしくじったことを思い知った。
 ゆらゆらと揺らめく炎の光が、まるで太陽のようにガラスの底に明かりを差し込む。その揺れに合わせて、眩く、淡く照らし出される薔薇の蕾。
 ……ムードを盛り上げてどうするんだよ。
 暖房のおかげか、すっかりピンク色に染まった頬を両手で包み込み、和泉がガラスの器を覗き込む。ちょうどその時。
 バチンッ。
 不吉な音とともに、かすかにうなっていたエアコンの稼働音が消えた。落ちてきた静寂が綿のようにギュウギュウと耳奥に詰め込まれる。
 ブラックアウトした視界の中で、唯一キャンドルの炎だけがチラチラと闇の中で尾を引いていた。
「…おまえ、もしかしてヒーター三つともスイッチ入れた?」
「ウン、だって寒かったから」
 そりゃブレーカーも落ちるだろうよ…。溜め息混じりに立ち上がった松下の服を、すかさず和泉の手がつかみキュッと引っ張った。
「いいよ、このまんまで。その方がロウソクきれいだし」
 純粋に景観を推しているのか。
 それともこの場に満ちる雰囲気を支持しているのか。
「なら、別にいーけど」
 どちらとも窺えず、松下は元のように座り直すと手持ち無沙汰に片膝を抱えた。黙ったままキャンドルの炎を見つめる。ジジジ…と音を立てて炎が揺れた。
「アレ、ってさ」
 かすれた声が思ったよりも身近で聞こえて、松下は闇の中にじっと目を凝らした。だが和泉の位置は変わっていない。むろん、松下もその場を動いてはいなかった。闇が五感を研ぎ澄ませるのだろうか。
「あの窓枠の上にある枝みたいの何?」
 窓ガラスに半分かかるようにして吊り下げられたソレを和泉が指差す。本来ならば扉口に飾るべきものなのだろうが、さっき外を見た拍子にちょうど思い出したのでそのまま窓枠の所に吊るしてみたのだ。
「宿り木だよ」
「ヤドリギ…、って何それ?」
「人に聞く前に少しは自分で調べたらどうだ」
「む、ケチっ」
 目に見えてムクれた和泉が頬を膨らませる。ぷくりと膨らんだそれはまだピンク色に染まったままだ。触ったらさぞかし柔らかいんだろうな。…などと考えている自分はすでに雰囲気に流されかけているのだろう。だが、反撃もせずに口を噤んだ和泉もまたこの空気に流されはじめているのかもしれない。
 二人の間にまた深い沈黙が降りてくる。
 カチカチ…と部屋中に響いて聞こえる秒針の音。
 戻りそうで、戻らない雰囲気。
 黙っているとせっかくつかみかけた糸口がまた静寂の下へと潜り込んでいくのが目に見えるようだった。
「…食えよ、ケーキ」
「ウ、ん」
 思い出したように勧めると、和泉はプラスチックのフォークを手に取った。
 フランボワーズの乗った白いケーキを透明なプラスチックが切り崩していく。すると割れ目から赤いソースが流れ出てきた。妙に扇情的なその図から、松下は意識的に目を逸らした。
 ガラスに四角く切り取られた空の中をチラチラと白い雪片が舞い踊る。
 雪は降り止む気配がなかった。それどころか先ほどと比べるとかなりの量が濃紺の空を舞っていた。宿り木の白い実が、雪の色とともに夜空によく映える。
 この分なら明日は積もるかもしれない。願わくば雪かきをせねばならないほどには積もらないで欲しいものだが。
 ふいに冷えた空気が松下の頬を撫ぜていった。和泉の頬もいくぶん赤味を失ってきている。暖房が止まっているのだから、部屋が冷えてくるのは当たり前だ。持っていたカップもいつのまにか冷え切っていた。
 ブレーカーが落ちてどれくらい経つのだろう。暗闇に目も慣れてきた頃だが、ここで風邪をひいては元も子もない。
「なあ、松下ってばっ」
 今度は本当に耳元で名前を呼ばれて、松下はゆっくり首を巡らせた。いつのまにこんな傍まできていたんだろう。まるで気がつかなかった。
「ヤドリギ、落っこちた」
 見ると床に木の束が落ちている。
「じゃ吊り直せば?」
「俺じゃ届かねーんだよっ」
 憮然とした顔で和泉がまたぞろ頬を膨らませる。仕方がないので宿り木を拾い窓際に立つと、その隣りに和泉の細身が並んだ。
 近くなる息遣い。
 細い指が窓ガラスにピタリとあてられた。
「なんかさ…」
「あァ」
 どこまでも続く闇の中を、フワフワと白いものが漂い落ちてくる。
「なんか、水槽の中にいるみたいな景色だと思わねー?」
「スイソウねェ」
 云われて見ればそう見えないこともないが。
 どちらかというとこれは水没した街だ。
 廃墟と化した風景に空しく降り注ぐ白い塵。
 取り残されて、ただ二人きり。

 それは不思議な感覚だった。
 いつから目を合わせていたのか。まるで覚えていない。
 思考のどこかが麻痺しているのだうか。
 気がつくと和泉がこちらを見ていて、松下もまた和泉の目を見つめていた。
 互いの瞳に映った自身の姿が次第に近づいてくる。
 唇に熱感。
 指先でたどる素肌の感触。
 今日二度目のキスは、甘いクリームとストロベリーの風味に溢れていた。


 しかし、ウッカリしていた。
 別にジンクスを信じているわけでもないが…。
「あ、そのフロマージュは俺んでしょ!」
 キッチンからマグカップを手に戻ってきた和泉が、ギャンギャンと耳元でうるさく吠えたてる。
「ンだよ、どれも同じようなもんだろ」
「んなわけあるか!」
 ドンッと叩きつけられるように置かれたカップの中でブラックコーヒーがざわざわと波立つ。おかしなことに窓際でのキスを終えると、すっかりいつもの空気が戻っていた。
 なんだか長い夢でも見ていたような感じがする。
「じゃあどれなら食っていーわけ?」
 珠枝の好意を踏み躙るわけにはいかない。放っておくと十分以内にはすべてのケーキが和泉の腹に収まってしまいそうなので、松下は遅ればせながらもフォークを握るとテーブルに並んだケーキを物色しはじめた。
「待てよ! コレとコレとコレは俺んだから…」
 和泉にかかると、けっきょくはすべてのケーキが和泉のものになり兼ねない勢いである。その勢い余ってか、このプラリネのすごいところは…などと講釈しはじめた和泉を無視して、松下はいちばん向こう端にあったケーキを手に取るとフォークを突き立てた。
「あ…っ、ソレはちょっと!」
「もう食っちったよ」
 ツヤのあるチョコレートを切り崩すと、中からとろりとしたホワイトクリームが溢れ出てくる。チョコレートのコクとほとんど甘さのないクリームとが口の中で絡み合う。松下の中でケーキの認識が少しだけ変わりつつあった。
「…つーか、よりによってなんでソレかな」
 気が抜けたようにボソリと呟いてから、和泉はガクリと肩を落とした。心なしか、その耳元が赤くなって見えるのは気の所為だろうか? そういえば色は違うが、和泉がさっき食べていたケーキによく似ている気がする。
「なんか不都合でもあったのか」
「別に何でもねーよっ」
 ヤケクソ混じりといった風情で、和泉がざくざくとミルフィーユにフォークを入れる。キッチンではヤカンがまだシュンシュン…と音をたてていた。
 宿り木の下でキスをすると永遠の愛を授けられる。そんなジンクスがあることを和泉はきっと知らないだろう。
 いや、できることなら一生知らなくていいとさえ思ってしまうのだが…。
「ところでコレ、なんていうケーキだ?」
 ふいに思いついた疑問を口にすると、なぜかみるみる和泉の頬が鮮やかな薔薇色に染まってしまった。
「…"souvenir"だよ」
「へーえ」


 そしてこの期間限定ケーキ「souvenir」の甘いジンクスを松下が知るのは、だいぶ後になってからのことだった。


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