hard rain #2



 ああ、学校に行かなくちゃ…。
 頭ではそう思うのに体が云うことを聞かない。今日は木曜だからいつもなら四限が終わるまでの間、化学準備室で加賀に抱かれてるはずなのに。気付いた時にはもう昼近くだった。高くなった太陽が薄いカーテンの隙間からちらちらと白いシーツの上に日溜りを作っている。ああ、寝過ごしたんだ…。そうと気付くまで数分を要する自分の頭がオカシしくて思わず笑いそうになる。ああだんだん壊れてきてるのかな? ちょっとした、簡単なことすらできなくなってる自分を発見するたび、そんな淡い期待を抱く日々がずっと続いてる。あの日からずっと。何もかもが終わったあの日から。
 重い体をベッドから落として寝室を出る。リビングのテーブルに乗せられた冷え切った朝食。父親の所有するマンションに一人暮らしを始めてから今日までの間、俺は食事を自分で作った覚えがない。
「ピーマン、好きじゃないんだけどな…」
 炊事も掃除も滞りなく終えたらしいハウスキーパーの姿はもうどこにも見当たらない。遅刻や欠席で家に留まった際、何度か顔を合わせたことのある中年女性。いまでもあの人がきてくれているんだろうか。ここ数年は会ってないからもう解らないけど。話しかけても答えない相手に無駄と知りつつ何度か要望を伝えたことがある。けっきょく何一つ叶えられてやしないけど。
 掃除の後に撒かれたらしい芳香剤がツンと鼻につく。テラスの窓を開けて部屋の換気を済ませるのに十分かかる。その間にシャワーを浴びて制服に着替えて、それから冷えた食事を温めて無理やり胃の中に詰め込む。変わらない日常。
 学費や生活費、交友費。いままで金で不自由な思いをしたことはない。認知もされたし「桜沢」という新しい姓ももらったし。不満なんて一つもない。云ったら罰が当たるぐらい、父にはよくしてもらってると思う。そりゃ血が繋がってるのだから取るべき責任を感じたんだろう。けど、血の繋がってない母にしてみれば俺なんか厄介者以外の何者でもなくて。灰皿を投げられて避け損なった時の傷はまだ額の隅に残ってる。下賎の者と利くクチはないと引き取られた当初云われたとおり、母が俺に向けて言葉を投げることはなかった。ふいに思い出したようにぶつけられる憤りは、火のついた煙草だったり花瓶の水だったりした。見かねた父が俺をこのマンションに隔離したのが中学に上がった年。あれから母には一度も会っていない。厳格な母に倣い従い、俺を無視し続けた二人の弟たちともそれきりだった。
 高校までは面倒を見る。そんな手紙が郵便受けに入ってたのが数ヶ月前のこと。父の責任と忍耐の限度がそこで切れるということだろう。それまでの猶予があと二年半。俺にしてみれば気の遠くなるような時間だけどね。
 部屋の隅で携帯が鳴った。枕元にあるはずのそれが移動してるのもいつものことだったから気にもせず手に取り、着信相手を見る。設楽だった。
「もしもし」
 昼休みの喧騒をバックに設楽の声が真摯に鼓膜を打つ。中学の時と違っていまはクラスも違うのに何かと気にかけてくれる設楽の存在は俺をこの世に引き止めてくれてる幾つかの画鋲の一つだった。
「まだ家。いま出ようかと思ってたトコ」
 雨沢が死んでからは特に、設楽は週に何度もこうして電話やメールをくれる。そういうの委員長体質っていうのかな。俺の家の事情を知ってる数少ない人間の一人だったから、設楽が下手を打つことはなくて。そういう点でもすごく助かってる。ハウスキーパーを通して母に流れても当たり障りのないような会話、メール。俺がどんなに優等生でも、どうしようもない劣等生でも、母の敵視から逃れることはないのだ。
「マジで? つーかいまから行っても六限、間に合わなくね?」
 気付いたら所属させられていた設楽率いる部活動の会合が今日の放課後あるんだという。そんなふうにして俺が学校に行く正当な理由をくれる設楽が俺にはどうしようもなくありがたかった。「だからこいよ」その一言が俺の胸の何グラムかの分銅をひょいと選り分けてくれる。
「じゃ、行くワ」
 待ってる、設楽の声を最後に通話を切ると、俺は汚れた食器類を全て洗い終えてからマンションを後にした。夕方にはあのハウスキーパーがきて、また俺の嫌いな夕食をリビングに並べて帰るんだろう。



 放課後、クロッキー部が活動してるはずの美術室Cを覗くと中にいたのは顧問の池沢と設楽、それから野宮の三人だけだった。そのうち野宮と池沢がチェス盤を挟んでることを考慮すれば、純粋に部活動に励んでいるのはクロッキー帳を広げている設楽一人だけという現状だった。手ぶらの俺のやる気なんて云わずもがな。同好会にも満たないという人数で運営されている部活動が成り立っているのは、ひとえに顧問の池沢の気紛れによるところが大きかった。
「よう」
 片手を上げた設楽にヒラリと手を振ると野宮が「なー」と俺のブレザーの端を引っ張ってきた。
「なに?」
「コレ、次の手どう出るよ」
 指差された盤面に落とした視線を追うように池沢と野宮の視線も白黒のチェス盤に次々落とされた。野宮とはここで何回か対戦したことがある。どうやら野宮よりは池沢の方が何枚か上手らしい。
「メイト近いね」
「満腹堂のスタミナラーメン賭けてるんで非常に負けたくないんですけど」
「リザイン」
「げっ」
 野宮の代わりに告げた投了を池沢がニッコリと満面の笑顔で迎え入れた。
「野宮、ゴッソさーん」
「…桜沢、オマエ覚えとけー」
「アハハハ」
 野宮の恨めしそうな台詞を背中で聞きながら自分の定位置につく。出窓に腰かけてウォークマンの再生ボタンを押す。ああ選曲間違ったなってしみじみ思った。こんなに日にこんな声を聞かされてたら、どこまでロウになるか知れたもんじゃない。
「設楽、ビョークと何か交換して」
「二者択一。スリップノットかエアロスミス」
「スリップノットで」
「ほらよ」
 飛んできたMDを飲み込ませて所在のなくなったビョークを設楽のカバンの上に放る。再生ボタンを押した途端、支配された鼓膜に設楽の声は届かなくて。俺はそのままソレを聞こえなかったことにした。目を瞑って騒音に身を委ねる。
 体力が落ちてるなって思った。スリップノットに耐えられないぐらい疲れてる脳があやふやな指令を体に下す。自分が起きてるのか、眠ってるのかすら解らない境界線をどこまでもたゆたう。
 昨日は学校で二回、犯された。二回で解放されたのはそれだけ俺の体力が目に見えて落ちてるからだ。


 イイカゲンニシトケヨ


 誰かが云って続いて人が殴られるような音。端の方に積み上げてあった椅子が崩れたんだろう。痛そうな重い音がいくつも折り重なって床に叩きつけられるのが聞こえた。漫然とした意識の向こう側で、ただその雰囲気だけを感じながら俺はまだ意識と無意識との淵を歩いていた。
「桜沢?」
 そういえばさっきの声は設楽の声だった気がする。そんな不確かな記憶を最後に、俺は掴んでいた意識をゆっくり手放した。



 目を開けるとすぐに池沢の顔が見えて、ああまだ学校にいるんだってボンヤリ思った。客用のティーカップに入れたホットミルクを設楽がベッド脇まで持ってきてくれる。客用なんてあったってこの家で活用されることなんてないのに。ようやくそこでココが学校ではなく自分のマンションの寝室なんだってことに気がついた。
「俺、倒れた?」
「出窓からハデに落ちてたぜ。ケツに痣でもできてんじゃねーの?」
 池沢の軽口がありがたくて思わず笑うと「とりあえずコレ飲んどけ」設楽に熱いティーカップを渡された。少しバツの悪そうな設楽の表情が事の次第の一端を明かしてくれる。設楽の右手に巻かれた絆創膏。殴られた加賀はたぶんもう少し重傷だろう。俺が望まないことを知っていても気遣わずにはいられないのが設楽の因果な性質なんだろう。
「サンキュ」
「礼なら車出した池沢に云っとけよ」
「そうだぞ、オマエの所為でスタミナラーメン食いそびれたんだぞ…」
 池沢が心底残念そうに片手で額を覆い隠す。「心痛極まれリ」などと陰鬱な表情で口走り、設楽に「安い心痛だな」と突っ込まれるやいなや「安い云うな!」今度は憤慨極まれりといった表情で即座に反撃に打って出る。
「アハハハっ」
 試しに声に出して笑ってみたら案外うまくいったからもう何回か笑って見せて。それから俺は設楽と池沢とにもう一度礼を云ってから二人を玄関口まで見送った。それから痛む胃に温め直した夕食を詰め込んで風呂入って布団入って。俺はけっきょく月曜まで無断で学校を休み続けた。



 火曜の二限はいつも体育倉庫か準備室に連れ込まれてたから。先回りして待ってた体育館に、けれど加賀は三限終了のチャイムが鳴っても現れなかった。三バスで登校してくる加賀の姿は教室の窓から確認してたから学校にいるのは間違いないはず。目立つような外傷がなくて少しホッとしたんだ。HR前に会った設楽もいつもと変わりがなくて、今日もまた同じようなサイクルで日が回るんだろうと思っていた。
 食堂と廊下で二度すれ違った。加賀は俺には目もくれず、意識を向ける気配すら感じさせなかった。
 ああ、そういうことか…。
 許されたとかそういうことじゃなくて、俺という人間が加賀の中で完全に見限られたんだということが解った。その瞬間、俺の中の何もかもが抜け落ちてしまったような気がした。加賀に罰されないということは俺は生きる価値の全てを失ったということだ。
 いつかそんな日が来ることは解ってたけど、それがまさか今日だなんて思ってもなかったから。



 どうやって家に帰ったのかなんてもう覚えてない。気付いたら塵一つ落ちてないリビングの床に俺は死んだように横たわっていた。長いこと眺めてたソレが灯のついてない蛍光灯だということに気付くのにたぶん何時間もかかってたと思う。
 ガチャガチャっと外から鍵を開ける音。ハウスキーパーだろうか。起き上がる気にもならず足音が近づいてくるのを放置してるとリビングに入ってすぐその気配が立ち止まった。
「何だ、いんじゃん」
「いるならいるって云えよなぁ」
 聞き覚えのない声が二つ、くぐもった笑いを忍ばせながらずかずかとリビングを横切って近づいてくる。投げ出したままの腕を軽く蹴られて、意識がようやくそちらへと上向く。
 覗き込んできた二つの顔が無様な俺の姿をしげしげと眺め下ろしていた。それから今度は互いの顔を見合わせて忍び笑いを漏らす。床へと落ちてきた視線と口元がニヤリとした笑みにぞろぞろと覆われた。
「オニーチャン、ねぇ、まさか忘れてないよね?」
「可愛い弟がわざわざ遊びにきてやったんだぜ?」
 そこまで云われてようやく三年前で止まったきりだった弟たちの面影が目の前の二人に重なって見えた。一卵性ではないから数えるほどの相似点しか持たない面立ち。けれど浮かべる笑みはどちらも同じ性質を奥に秘めてて、ドンヨリと暗く、底が見えなかった。潜めた眉を目聡く見咎めた右側の茶髪が俺の二の腕を靴下で踏みつけた。
「うーわ、マジで忘れてたくさいよ? ムカつくねー」
「したらやっぱお仕置きっしょ」
 左側にいた黒髪のメガネが反対側の俺の腕を踏みにじる。肉の内側で筋がゴリっとイヤな音を立てた。
「弟の顔忘れるなんてサイアクだもんね」
「兄としてあっちゃならないザイアクだよなァ」
 ゲラゲラと笑い合いながら俺の反応を見下ろしてる四つの目。ギラギラとしたその輝きが全身に纏わりつくようで不快だった。唇が動いてから鼓膜に声が届くまで数秒のタイムラグがあって、そこからさらに脳が言葉を理解するまで数秒かかる。まるで船の錨のように、自分の意識がどこか深い所に沈んでしまっているような気がした。いま目に見えてる風景がどこか遠い国の出来事のようにしか見えない。
「ウワ、人の話ぜんぜん聞いてなさげだし。まじムカつく」
「とりあえず剥いちまおうぜ?」
「あは、オッケー」
 軽いやり取りに挟まれたまま強引にシャツの前を左右に開かれた。フローリングにカチンカチン…と硬い音を立てて弾け飛んだボタンが転がる。人形の服を思うさま剥ぐように、千切れた布を辺りに撒き散らしながら楽しそうに弟たちが笑う。
「つーか、あんま無抵抗ってのもつまんなくね?」
「だなぁ、どうせなら泣き叫んでヤメテーっとか哀願とかして欲しいよな」
「そうそう、それ殴って黙らせんでしょ? いーね、サイっコウ」
「もしもーし? 薬ヤッてんのー、オニーチャン?」
「あーアリウル。なんたってケツでオトコ誑し込むアバズレだからねェ」
「しかも用済みんなったオトコ殺しちまうんだから、コエーコエー」
 半裸にされてフローリングの上をずるずると引き摺られた。俺の意識も少し遅れてズルズルと床の上を這いずり回る。
「あーも、重い。ウザ」
「起きろよ、人殺し」
 ガツンと思い切りよく脇腹に靴下の蹴りが入った。間髪入れず今度は逆サイドから腹を蹴られる。
「立てよ、人殺し」
 鼓膜に引っ掛かったフレーズ。がらがらと錨が巻き上がってくのが解った。
「アンタが人間やめんのは勝手だけどさ、その前に俺ら楽しませてくんねーと」
「じゃないとー、雨沢さん家の郵便受けに告発文とか届いちゃうよー?」
「お宅の息子さん、誑し込んで殺したのコイツですよーって」
「バラしてもOK?」
 蹴られた所為で息ができないことに気づいたのがそれから一秒後。思いきり咳き込んだ俺を左右で弟たちがゲラゲラと笑い飛ばすのをリアルタイムで聞きながら急激にクリアになってく意識が目の前の風景を極彩色にした。
「オニーチャンが公衆便所だって知ってればもっと早く構ってあげたのにね」
「ま、いまからでも遅くないっしょ」
「だから遊ぼうぜ、オニーチャン」
「楽しませてよ、オトコ咥えるしか能のないそのカラダでさ」

「……ッ」

 引き攣った喉から声が漏れるよりも速く、噛まされた猿轡が一切の悲鳴を俺から奪った。
「防音じゃないとこういう時困るよねー」
「アンアン云い始めたら外せばいんじゃん? せっかくビデオ撮るんだしさ」
「だな、つーことでオニーチャン張り切って喘いじゃって?」
 ギャハハハっと耳障りな笑い声がステレオ放送で俺の鼓膜をビリビリと破りかける。巡らせた視界には言葉どおりのカメラが仕掛けられていて無期質なレンズがひたすら俺の醜態を見つめていた。
「…ッ、ぅう…っ」
「なになに、もう感じちゃった?」
「しょうがねえスケベだな、アンタほんと」
 中学生であるはずの二人にはおよそ似つかわしくない道具が次から次へとカバンから出てきては俺をイヤらしく拘束していく。
「俺らさー、わりと強姦手馴れてっから安心していいよ?」
 見返した瞳の奥で淀んだ闇がニヤリと笑った。
「つーことでしばらくは俺らの共同便所ってことでヨロシクー」
「飽きたらアンタで金儲けすっからそっちもヨロシクねー」
「あ、いい。テキトウに引っ掛けたオトコ、ここで取らせりゃいいんだもんな」
「ナイスアイディアっしょ?」
「よかったねえ、オニイチャン。こんなアンタでも世の中の役に立つんだぜ?」


 日没ともに始まった饗宴は日付が変わっても終わる気配を見せず、時間の感覚と意識とを完全に失って俺は闇の底へと堕ちた。


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