hard rain #1



 もしも、どこかに神さまがいるんなら
 神さまは俺が嫌いなんだろう
 じゃなけりゃ、どうしてこんなにツライ思いをするのか
 その理由が見当たらないじゃないか…


 雨沢が死んだ。
 車にチャリごと撥ねられて。即死だったらしいと誰かから聞いた。
 雨の日だった。目に見えないほどの細かい雨、いやな小糠雨の日だった。
 急に炭酸が飲みたいと云いはじめた俺のために雨沢が買ってきてくれたコーラが机に乗っていた。
「やっぱサイダーがいいや」
 赤い缶を見るなりそう云いだした俺を、雨沢は駄々っ子を相手するみいに軽く窘めた。それでも俺が強固に食い下がると、雨沢はしょうがないなと云っていつもの笑顔を浮かべた。
 傘を片手にもう一度、教室を出て行く背中を見送る。雨沢はなんだかんだ云いながらも、最後には俺の云うことを必ずきいてくれる。それを俺はよく知っていた。
 雨沢が戻ってくるまでの間、俺は湿気で濡れたようになっている机に足を乗せて、ぼんやり雨の音を聞いていた。どうも気の滅入る日だ。雨にはいい思い出がない。
 雨沢が帰ってきたら速攻帰ろう。今日は雨沢の家に泊まって、こないだの生物の課題を写させてもらうことになっていた。夕飯は宅配ピザでいいよな。昨日バイト代が入ったから今日はワリカンでもいける。そうだ、こないだ録画してもらった衛星の映画、あれも観てかねーとな。こないだ置いてった角瓶、まだ残ってるだろうか。



 教室で待っていた俺を、急に現れた加賀が拳で殴り飛ばした。
 いくつもの机が大きな音をたてて床に倒れた。
 何が起きたのか一瞬、解らなかった。
 いきなり転換した視界いっぱいに広がった天井、そして加賀が泣いてるのとを呆然と見ていた。打ちつけた腰が痛い。冷たい床の感触。
 え? なんだって?
 加賀の言葉がよく聞こえない。
「てめーの所為で雨沢は死んだんだよ…」
 手つかずのコーラのかいた汗が机の上に水溜りをつくっていた。



 変わりかけた信号。
 間に合わせようと走らせたチャリ。
 無理に道路を横切ろうとした体は、大きく二回バウンドして人形のように地面に転がったという。加賀の台詞通り、脳裏のフィルムにそんな光景が浮かんだ。
 濡れた地面に雨沢の体が音もなく落ちてきた。
 開いたまま遠くを見つめる目。
 投げ出された腕。
「なんでお前なんかのために、雨沢が死ななきゃなんねーんだよ…っ」



 雨沢が死んだ。
 雨沢が死んだ。
 雨沢が死んだ…。



 いつも困ったように、でもちょっと嬉しそうに笑うあのはにかんだ笑顔が好きだった。
 俺が何を云っても他愛ない癇癪を窘めるように、静かな物腰で接してくれる雨沢が好きだった。もう二度と見られない雨沢の笑顔。
 サイダーじゃなきゃダメな理由なんてどこにもなかった。雨沢だってそんなこと解ってたはずだ。ただなんとなくそんな気がしたから口にしただけの、いつものワガママ。どうでもいい戯言。そんなのきかなくたってよかったんだ、雨沢。
 俺があんなことさえ云わなければ、雨沢はいまもここで笑っていただろう。
 『桜沢は…』そう云いかけてから、いつも少し照れくさそうに『倫理は…』と云いなおす伏せ目がちな視線。
 まるで大事なものを扱うように触れ、羽のように優しくしてくれた雨沢。
 誰かのワガママを叶えるってけっこう嬉しいもんなんだよ。
 雨沢の言葉を思い出す。
 好きだよ。何度も云ってくれたその言葉。
 もう二度と俺に、そんなことを云ってくれる人は現れないだろう…。






 雨の日にはろくな思い出がない。

 ガスも電気も止められたアパートの中。
 俺はタオルケットにくるまって、くる日もくる日も窓の外を眺めていた。降り止まない雨。雷鳴に怯えても差し伸べられる手はなかった。もうすこし、もうほんの少し待てばきっと帰ってくる。出ていった時と同じ赤い傘があわててあの階段を昇ってくるはず。
 けれどいくら待っても、赤い傘は戻ってこない。長い雨も降り止まない。
 涙だけは必死に堪えた。
 泣いたらそこで終わりだと思ったから。捨てられたことを認めることになる。
 暗闇の中で聞く雨音は、まるで誰かの囁きのようだった。幾人もの密やかな囁き。
 こっちにおいでと呼ばれているような気がして、俺はタオルケットの中で震える指を握り締めた。
 六日目の朝。黒い傘が階段を昇ってきて、自分は「父親」だと名乗った。その日のうちに俺には新しい母親と二人の弟ができた。

 学校帰りに土手で見つけた二匹の子猫。
 白地に黒い斑点が二つずつある、目が開いたばかりのガリガリの子猫だった。家に連れ帰るわけにもいかず、俺は子猫を抱えてウロウロしたまま夜を迎えた。コンビニで買ったミルクを温めて飲ませ、寒さに震える二匹を制服の中で暖めた。雲一つない夜空なのに、なぜか冷たい雨が降っていた。陸橋の下で雨をしのぎながら、妙に冴えて見える星空を眺めていた。
 胸の中の二つの暖かみが初冬の寒さを忘れさせてくれた。
 ちょうど日付が変わったあたりだろうか、1匹が引き攣れたような声をあげはじめた。悲痛で物悲しい声は明け方近くまで続いた。うつらうつらと少しだけ眠り、そして目を覚ますと胸の中の体は冷たくなっていた。駆け込んだ先の獣医師から、肉食動物に草食動物のミルクは適さないことを教わった。
 まあ、それ以前に衰弱しきってた所為だと思うけどね。母親に捨てられた時点で運命はすでに決まっていたようなものだよ。
 まるで自分に云われているような気がした。


 これ以上つらい日がこなければいい。
 何度そう思ったことか。
 けれど願いは聞き届けられることなく、明日という日は明るくない日と書くのだと知った。期待や希望は抱くだけ無駄。
 テキトウが俺の処世術になった。テキトウならば挫折しても痛くない。悔しくもない。傷つくこともない。その場の快楽だけを享受していればいい。明日なんて知らない。今日さえよければいい。


「好きなんだ」
 オトコにもオンナにもわりとしょっちゅう告白された。
 その中の適当なやつと付き合っては日々を紛らわした。深入りしようとするヤツは適当にあしらって遠ざけた。いまさら何にも期待したくなかった。
 三ヶ月前、学校で雨沢に告白された。
 その時はじめて俺は、三組に雨沢誠二という人間がいることを知った。深く考えることもなく雨沢と付き合いはじめた。俺にしてみればいつものことだった。
 雨沢の親友である加賀がイイ顔してなかったのは最初から知っていた。でもそんなことはどうでもよかった。盲目的に日々を消化すること、それだけが俺のすべてだった。
 いつ死んでもいいや、そう云うと雨沢は本気で怒った。少なくとも俺がそばにいる間は絶対にそんなことさせない。真顔で云われてちょっとだけ嬉しい気がした。
 その雨沢が死んでしまった。






























 神さまはよほど俺のことが嫌いらしい。


































 加賀が罰してくれなかったら、俺は自ら命を断っていただろう。
 罪から逃れようなんて思わない。
 それを償う術を与えてほしかったのだ。
 加賀の一方的な暴力に耐えている間は、何かを許されているような気がした。
 少しは贖えているような気がしていた。
 けれどそれも思い違い。
「雨沢…」
 行為の最中に呟かれる名前は俺の耳にこびりついて離れなかった。
 憤りと悔しさで震える声。
 痛々しい涙。 
 自分が加賀から何を奪ったのか、自覚するには充分過ぎるほどだった。









 これ以上ツライ日がきませんように。
 どれだけ祈ればこの願いは叶えられるのだろう。
 どれだけ耐えれば神さまは俺を赦してくれるのだろう。
 雨が降るたびに胸に蒔かれる憂鬱の種は、俺の中に深く根を張り、蔓を巻きつけ心を締めつける。









 せめてこの降り止まぬ雨が
 俺の涙を隠すための、あなたの思いやりであればいいのに…


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