恋という字は下心と書く。#3



 別に誕生日がくるからって、特別何かを期待してたわけじゃない。ただ、少しは自分にも興味持ってくれてるのかなって、それを確認したかっただけだ。
 それは見事、裏切られたけど。
(恋なんてホント、クソ食らえだぜ…)
 渡り廊下を抜けていくつかの音楽室を過ぎると、正面に大音楽ホールの扉が見えてくる。
 レバーを引くと案の定、鍵は開けられたままだ。
 匡平は素早く内側に滑り込むと、入口で上履きを脱ぎ捨てた。他に靴は見あたらないが、だからと云っていないとは限らない。
 防音用のもうひとつの扉を抜けると、中には絨毯の敷き詰められた階段状のホールが広がっている。その右側の壁沿いに並んでいる幾つかの練習室の中で、一番窓際に近い扉を匡平はノックした。応答はない。ノブを回す。やはりここにも鍵はかかっていなかった。
「蓮科?」
 ガランとした六畳ほどの室内に人影はない。
(ココにいなけりゃお手上げだな…)
 高校に上がってちょっとした辺りから、この第一練習室はすっかり英嗣の私室と化していた。仮眠室というのが正しいのかもしれない。匡平も何度かここで、英嗣と共に授業をやり過ごしたことがある。――もちろん、ピアノがそこそこ弾けて、なおかつ音楽科の教師に気に入られている英嗣だからこそできる芸当でもあるのだが。
 ソファーの陰に英嗣のカバンが置いてあるのを見つけ、匡平は自身のカバンをその隣りに放った。
 ほころびた元・応接室のソファーに、アップライトピアノが一台。それから何組かのパイプイスが放置してあるだけの部屋だ。ピアノを弾く以外にできることと云えば、昼寝くらいしかない。とりあえずソファーに寝転がり、早乙女から借りた読めもしないペーパーバックを広げてみたりする。だが五分でそれにも飽き、今度は英嗣のカバンから目ぼしいものを探すことにした。
 中から出てきたボンデージ写真集で、しばらくは時間を潰していたがすぐにそれにも飽きてしまう。
(つまんねーの…)
 開け放された窓から、風に乗って黒人霊歌が聞こえてくる。合唱部が練習しているのだろう。
「あーもう、ヤメヤメ」
 元来、待つのは性に合わないのだ。
 ソファーに茶封筒を投げつけ、匡平はカバンをつかむと練習室をあとにした。
(次のスクールバス、何分だっけか?)
 半日時間のバスダイヤを思い出しながら、一階に続く外階段を下りようとした、その時――。
「好きだよ」
 ふいに聞き覚えのある声が下から聞こえてきた。
 あの適度に甘い、耳元で囁かれると一発で腰が抜けそうになってしまう、反則技低音。
(……なにやってんだ、アイツ)
 聞き捨てならないセリフに匡平が立ち止まると、続いてひそめた笑い声が聞こえてきた。
「また。どうせ、口先だけなんでしょ」
「イヤだな先輩、俺を疑うの?」
 三階の手摺からグッと身を乗り出すと、踊り場に二つの人影が重なっているのが見えた。英嗣が二年の黒木優子の手を取り、それを自分の胸へと押しあてている。
「ホラ。こんなに、ドキドキしてるのに」
「信じられないわ」
 クスクス笑いながら黒木の手が英嗣の背中へと回される。それを受けて英嗣もまた、黒木の背に片腕を回した。
 ふいに上を見上げた英嗣とまともに目が合う。
「……ッ」
 まるで他人のように冷たく目を逸らすと、英嗣は黒木の顎に手をかけた。軽く持ち上げて。
 ご丁寧に見せつけるような、ディープキス。
(あんにゃろう…)
 匡平の中で何かが音を立ててブチ切れた。

 

「関っ」
 グラウンドで柔軟中だったユニフォームをつかむと、匡平は無理やりそれを引き摺り上げた。
「って、春日…?」
 関の一重瞼が驚いたように見開かれる。
 その場にいたサッカー部員、ならびグラウンド上にいた大多数の視線がそこに集中する中、匡平はつかんだ胸座をグッと自分に引き寄せた。
 目を細め、関の瞳を正面から見つめる。
「どうかしたのか、春日?」
 ザワザワとした周囲の騒音も、ユニフォームをつかまれたまま、困惑気味の関の疑問をもかき消すように――。
 匡平の口から静かに爆弾が飛び出した。
「俺とセックスしようぜ、関?」

 体育館の二階にある、元は演劇部の小道具室として使われていた空き部屋――。そこに関を連れ込むと匡平はすぐさま上着を脱ぎ捨てた。
「春日、自分の云ってること、ちゃんとわかってる?」
「全然わかってるから心配すんな?」
「……そー云われると余計、不安なんだけどさ」
 シャツのボタンを外しながら近付いてくる匡平に、関は心底戸惑ったように眉を寄せながらゆっくりと後退した。
「何をムキになってんのか知んねーけどさ」
「なってねーよ」
「いや、だから。一時の感情でこういうことしちゃうと、あとで後悔すんじゃねーの?」
「後悔なんかしないね。俺はいま、関とシたいんだからさ」
「あのなァ」
「それとも関は、俺としたくないワケ?」
「……う」
 言葉に詰まった関によりかかり、匡平は隅にあったマットに関を押し倒した。馬乗りになったまま、両脇についた腕をゆっくり折り曲げ、顔を近づける。耳元に触れるか触れないか、そのギリギリのラインまで唇を寄せて。
「なあ、関の好きにしていーんだぜ?」
 その一言で、関のはかない理性は弾け飛んだ。

 

「遅いヨ、若菜ァー」
「うわ、スイマセンっ」
 弓道場には部長の水城をはじめ、すでにほとんどの部員が顔を揃えていた。
「えーと、病欠の日向と山梨を除けばこれで全員ね。はい、ミーティングはじめるよ!」
 水城のテキパキとした声が響き、ホワイトボードに張られた日程表と同じものが全員に配られる。
 全員、といっても部員数は水城を含め十人以下にしかならない弱小部である。それに合わせてか、普段からやる気のある部員というのもほとんどいないのが現状だった。
 これだけの部員が揃うのも、試合前の数日だけだ。もちろん若菜にしても、弓道に情熱をそそぐ青春を送ろうとは夢にも思っていない。
「というコトでよろしく。ハイ、解ったところで質問のある人! いなけりゃ解散ね」
 一通りの説明を終え、質問がないのを確認すると水城はさっさとミーティングを打ち切り、踵を返した。
「ミズシロ先輩、練習はー?」
「自主練。やりたいヤツがやってきゃいーんじゃない?」
「本人の自主性に任せるって?」
 副部長の嘉納八重子の声が響いた。途端に、ざわざわとしていた場内に凛とした空気が張りつめる。
 すっと伸びた背筋に、道着のよく似合う、細身の身体。キュっとひとつにまとめた黒髪の、ほつれ毛が首筋になまめかしく映える。
「私はやってくけど」
 薄い唇が紡ぎ出す声は、水を湛えた静かな湖面のようにひんやりとした清浄な空気を作り出す。
「若菜は?」
 切れ長の目が急にこちらに向けられて、若菜はとっさに言葉に詰まった。
 視線を意識した途端、痺れたように舌が動かなくなる。
 こちらを見ている黒曜石のような、黒い瞳。
 心臓が、痛い…。
「……先輩がやってくんなら、私もやってきます」
「そう」
 他の部員達が退き、ちょっと前までの賑やかさが嘘のように急に静まり返った場内で――。
 道着に身を包み弓を手に取ると、ふと日常から隔絶された世界にいるような気になる。残ったのは結局、若菜と八重子の二人だけだった。
 元々、弓道部でも大会に通用するような腕の持ち主といえば、八重子と三年の日向くらいしかいない。中三からはじめた若菜などは、それこそ足元にも及ばない。
「先輩、コレ」
 水城から受け取った鍵を、八重子に差し出す。
「アリガトウ」
 八重子の指が一瞬、若菜の手に触れる。
(あ……)
 その暖かな感触を、何度も指先にリピートしてしまう。
「先輩の手って、暖かいんですね」
「心が冷たいから?」
 真顔でそう云い、八重子が弓を構えた。
 タン、という的を射る音。聞きなれた八重子の的の音だ。
 放課後も毎日のように道場に立つのは、部員の中でも八重子と日向の二人だけだった。若菜はいつもあとからやってきて、二人の横顔を後ろで眺めていた。
 まるで舞を舞うような、立ち居振舞いの二人。
 ――最初は日向のコトを好きなのだと思っていた。
 この心臓の痛み。
 でも違った。人づてに、八重子が日向と付き合いはじめたのを知って、若菜は激しい嫉妬に苦しんだ。
「恋っていう字はどう書くか、知ってる?」
 唐突な八重子のセリフに、若菜は思わず唇を引き締めた。
「下に心って書くの、下心って」
 続いて放った矢が的の中央を打つ。空は秋晴れのまま、遠く山際にはヒツジ雲が引っかかっている。
 長閑な日。いつもと同じ、何も変わらない日。
「だから下心のない恋なんてないのよ」
「先輩…」
 日向と別れたという話は本当だろうか。訊きたい。いますぐにでも問い質したい。
(私と日向先輩、どっちが大事なんですか?)
 でも――訊けない。
「まだ、蓮科くんが好きなの?」
「……見てたんですか、先輩」
「たまたま通りかかっただけよ。なにも甘やかすばかりが愛じゃないわ。それとも、春日くんの方が好き?」
「先輩…っ」
「胸のカタチがいいなんて知らなかったわ。彼が誉めるぐらいなら相当、キレイなんでしょうね」
「………」
 無言で肩から袖を落とすと、若菜は両胸を露わにした。
 八重子の無表情な視線が注がれる。
 こんな時、いつも泣きたくなる。カナシイのか、ウレシイのか自分でも解らなくて……。
 近付いてきた八重子の手が左の膨らみに触れた。心臓を、握り潰されるような錯覚。喉の奥に何かがつかえて、満足に呼吸もできなくなってしまう。
 恋ってこんなもの?
 苦しくて、切なくて。ツラくて、もどかしくて。
 なりふり構わず、泣き出してしまいたくなる。それにも増して尽きない欲望。
 見ないでほしい。もっと見てほしい。構わないで。もっと構って。優しくして。優しくしないで。
 好きだと云って。冷たく突き放して――。こんなにも下心でいっぱいの自分。
「先輩……」
 カラン、と弓が床に転げ落ちた。

 

「こーゆう機につけ込むのって、フェアじゃねーけど」
 下から肩をつかまれて、あっと思った時にはもう形勢は逆転されていた。
「あいにく俺はそこまで善良な人間じゃないんでね。ヤるからには本気でいくぜ?」
 マットに組み伏され、匡平は脱ぎかけのしどけない姿のまま、関の視線にさらされていた。
「望むところだヨ」
 舐るような視線を真っ向から受け、自ら関の首に腕を回す。下りてきた唇を迎え入れ、与えられる熱を夢中でむさぼった。歯列の裏をなぞられて、慣れないキスに心がざわつく。
(ヤっベ、コイツまじ上手い…)
 長いキスを終え、唇が外された時にはすっかり身体中の力が抜けていた。さすがに場数をこなしてるだけはある。久しぶりに本気で腰が抜けた。しかしそれならば、である。
 こちらも本腰を入れるまでだ。
 外しかけだったボタンに手をやり、匡平がもどかしくボタンを弄っていると焦れたように関の手が重ねられた。強引にシャツの前を開かれる。
 視線の駆け引き――。目は合わせたまま匡平はつかんだ手を口元に持っていくと、指の間に丹念に舌を這わせた。クっと関の眉が顰められる。それに気をよくし、匡平はさらに親指をアレに見立てて唇で舐った。ときおり歯を立てくるりと舌で包むようにして、音を立てて吸う。根元から指先まで何度も行き来して。
「……あんまイタズラしてっと、あとがコワいぜ?」
「いいよ。思い知らせてよ」
 関の唇が凶悪に歪められる。
(ああ、関のこーゆう顔スキかも……)
 見惚れていると、関の手がTシャツの隙間に潜り込んできた。右の突起をしばし楽しむようにグリグリと弄り、気紛れに爪を立てて刺激してくる。
「ん…、っン…」
 思わず声が出た。前は全然感じなかったトコなのに、蓮科がそこを弄るのが好きなおかげ、でかなり開発されてしまっている。続けて両胸の突起を攻められ、匡平は唇を噛みしめ声を堪えた。グっと目を瞑る。
「ダメだよ春日。ホラ、目ェ開けて」
 云われてしぶしぶ目を開ける。Tシャツの下でうごめいている両手が視界に飛び込んできた。
 視覚的になんともイヤラしいその構図に、思考がだんだん麻痺してくる。指の刺激が、視覚と触覚と両方からダイレクトに匡平を責め苛む。
「春日のそのカオ、すげークる…」
 溜息混じりの呟きが、被さるように耳元に落ちてきた。
(あ…、同じコト考えてる…?)
 一瞬の一体感が匡平の身を包んだ。同調してる。自分といま同じコトを考えている。
 カラダだけじゃない、心の充足。
「…春日」
「あ、……れ?」
 不意打ちのソレに一番驚いたのは、関ではなく他ならぬ匡平自身だった。


prev / next



back #