恋という字は下心と書く。#4



「下心のない恋なんてないの」
 はだけた胸元を正しながら、八重子はスノコ縁に下りた。十月も半ばを過ぎると、半裸でいるにはかなり肌寒い。若菜もあわてて服装を正した。
「片思いから両思いになれたとしても、なかなかウマクはいかないものでしょう?」
 半歩ほど進んだところで、八重子が若菜を振り返った。
 カラダの奥でまだチロチロと、残り火が疼いてる。
 まだ足りない。もっと欲しい。身体だけじゃなくて。心だけじゃなくて。すべてが欲しい――キリのない欲望。
「醜い恋の下心をね、みんな愛にしたくて一生懸命なのよ」
「先輩も…?」
「当たり前じゃない。まあ、下心は一つとは限らないけど」
 そう云って八重子が笑った。めったに笑うことのない八重子の笑顔。
「…………」
(恋なんてクソだ)
 こんな笑顔一つでごまかされちゃう自分が情けなくて…ホント、ばか。思わず若菜は苦笑した。
 まったく、天国も地獄もこの人次第なのだ。
 いつか自分もこの人を困らせてやる。悩んで悩んで眠れない夜だって、あなたに死ぬほど経験して欲しい。
(いつでも、アタシのことを考えてて)
 そんな下心――。愛という字で「心を抱く」いつか確実に恋を愛にする、そのために。

 

 溢れる涙を拭うのも忘れ、匡平は呆然と目の端から伝い落ちるそのモノの「熱さ」を感じていた。
(うわ、かなりサイテーな状況じゃねェ…?)
 泣いてるのが自分だという認識がようやく脳まで到達したところで、匡平は両腕で顔を覆い隠した。
「見ない方がイイよな、やっぱ」
 バサっと匡平の上に、部活ジャージが被せられた。
「……セキ」
「謝ンなよ? ンなの、俺が悪いコトしたみてーじゃん」
 その通りだ。悪いのは関に甘えた自分なのだ。
「サイテー、俺」
「そーゆトコも含めて好きだぜ。俺は」
「バカ…」
(ここでそんな優しい言葉、かけんなよ…)
 おまえの気持ち、踏みにじったうえ、出た結論が。
 ――蓮科じゃなきゃヤダ。
(信じらンねェ…)
 涙はすぐにやんだが、あまりの気まずさに匡平は顔が上げられなかった。
「まだ顔、上げんなよ」
「……?」
「春日の泣き顔、ヤバかったから。このままもっと、泣かせてみたくなる」
 関流の優しさなのか、それとも本音なのか。匡平がその言葉にありがたく甘えていると、しばらくして急に体重が圧し掛かってきた。
「……ゴメン。すげー往生際悪いんだけど、もっかいだけキスしてもい?」
 掠れた声がポツリと落ちてきた。考えてみると関とはあれが初めてのキスだった。
「バーカ」
 思わず苦笑すると、関の手がジャージを横に押しやった。目を瞑って降りてくる唇を待つ――と。
 バンッ、と鍵をかけたはずの扉が勢いよく開いた。驚いて見ると英嗣が扉口に凭れ、こちらを見ている。
(な……)
 目が合った瞬間、英嗣は匡平の方へと踏み出してきた。二の腕をつかまれ、無理やり上へと引きずり上げられる。
「悪いけどコイツ、返してもらうぜ?」
 そう一言、関に投げつけると英嗣は手早く匡平を腕の中に引き寄せた。
「……返すだのなんだのって、俺をモノ扱いすんなッ」
「いいからこいよ」
 面と向かって匡平の顔を見た蓮科が、急にまた関の方に向き直る。
(ヤバイ…!)
「関の所為じゃないッ、俺が勝手に一人で泣いたんだよッ」
 利き腕を取り拳も押さえ込むと、英嗣が諦めたように腕から力を抜いた。
「悪かったな、関。もう迷惑はかけさせねーからさ」
「こんな迷惑なら、俺はいつでも歓迎するぜ」
「いや、二度とナイ」
「そ?」
 その後、関には一切関知せず、英嗣はいきなり匡平の身体をくの字にして抱え上げた。
「テメ、なに考えてやがる…ッ」
「うるせーな、黙ってろって」
 軽がると匡平を抱え、英嗣は空き部屋を後にした。

 

「大丈夫、関ー?」
「……ったく、てめーはどっちの味方なんだよ」
「強いて云うなら春日の味方かな」
「あ…っそ」
 駆け寄ってきた早乙女の手にはつかまらず、自力で立ちあがると関は長めの髪をバサリと掻き上げた。
「クッソ、蓮科のヤロウ…」
「なに、まだ諦めないの? わー、しつこい性質ィ…」
「るせーな。チクったの、テメーだろ?」
「残念でしたー。チクるまでもなく全校生徒の注目の的デシター」
「ちぇっ」
 思わず両手を見下ろしてしまう。この手の中に匡平がいたのだ。まだ掌に残ってる身体の温もり。
「こんなんじゃ、よけい諦めきれねーよ…」
「なら、諦めなきゃいーじゃない」
「さっきと云ってるコト逆だぜ? 説得力ねーなァ、オイ」
「気にしないの。いい? 人生なんてね、何が起こるかわかったもんじゃないんだからね」
 あんたもアタシもまだ若いのよ、そう云って早乙女が笑う。リセットボタンなんて何度でも押せる。
(って、そーゆコト?)
「でも俺、この頃ちょっと愛に飢え気味…」
「アタシが慰めてあげよっか?」
「いや、オトコは春日以外はお断り」
「ったく、けっきょく皆、春日春日かよ、チクショウッ」
「……いきなり男に戻るなよ」
 恋なんて、そうそう愛に変わるもんじゃない。
 まだまだ道程は長いんだから、その途中でちょっと誰かがイタズラするくらい。
(許されるコトよね、神様?)
「あたしはむしろ、恋のキューピッドなんだし」
「は、なに云ってんの?」
 チャイムをBGMに、なぜか両手の指を組み合わせて乙女ちっくに祈る早乙女に呆れながら、関は長い前髪を掻き上げた。早乙女の寝言にいちいち付き合っていたら、それこそキリがない。
「そういやオマエ、春日に告ってんだよな」
「そうよー、見事フラレたけどね」
 二センチしか違わない目線が、関の顔を見据える。
(コイツも黙ってれば、女に不自由しない顔なんだよな)
 事実、中学時代はそこそこモテて、彼女なんかもいたりしてたはずだ。だが高等部に進学してからというもの、口を開けば――。
「片っ端からイロオトコ漁ったのよ。ウチらの学年じゃあと、蓮科と野宮と伊勢谷と沢木と…」
「そんないんのかよ…」
「当然でしょ。恋する乙女よ、あたし!」
と、まあこの通り。今年の四月に、混雑真っ最中の食堂で高らかにカミングアウトした一幕はいまでも語り草だ。
「なるほどな」
「なに? アンタもあたしに告られたかった?」
「や、まじ勘弁」
 そんな恐ろしい冗談は夢でも聞きたくない。
「いいわよ、あたしの下でヒィヒィ云わせてあげるわー」
「つーか、俺がシタ?」
「当然! あたし年上相手にしかネコやんないもん」
「……さーてと、部活に戻るかな」
(サラリと恐ろしい台詞を吐くよな、コイツ…)
 とりあえずそれは聞かなかったことにして、関は早乙女とともに空き部屋をあとにした。

 

「いいかげん、下ろしやがれっ」
 体育館から第一練習室までの道中、まるで荷物のように担がれたあげく、匡平はソファーの上へと乱暴に投げ落とされた。
「い…って」
 体勢を立て直す間もなく被さってきた体重に、抵抗もできぬまま、うつぶせにソファーに組み敷かれる。
「イタイ、蓮科…」
「じっとしてろよ」
 耳元で囁かれる反則低音――。背筋がゾクゾクする。
 そのまま耳朶を口に含まれて、匡平は小さく身震いした。 匡平の弱い所などすべてお見通しだ。恐いくらいに。
「俺すげー怒ってんの、わかる?」
「……ンだよ、怒ってたのは俺の方だぜ」
「ちげーよ、俺だ」
 首筋に歯を立てられ、ビクリと身体が反応してしまう。吸われながらジワジワと食い込んでいく犬歯の感触が、匡平に甘美な痺れをもたらす。
 片手で匡平の両腕を押さえ込むと、英嗣はもう片方をTシャツの隙間から中へと滑らせた。
「なっ、やめ、……っデシ」
「ちゃんと呼んでみな」
「ヤ…っ。ひ、デシ」
「イヤか? でも、やめられねーナ」
「ん、っ……テメ、この…」
「今日、何の日か知りたくない?」
(ンだよ、またソレかよ…)
 質問の意図が読めず<匡平は黙ったままひたすら英嗣の与える刺激に耐えた。グイっと尖りを捻り上げられて、泣き声に近い悲鳴を上げてしまう。
「じゃあさ、誕生日、忘れられて悲しかった?」
 まさか知ってたとでも云うつもりなのだろうか? 思考とは裏腹に、掠れた声が喉から漏れてしまう。絶え間ない刺激から逃れようと、匡平は狭いソファーの上でもがいた。しかし英嗣に体重ごと圧し掛かられて、いよいよ身動きもままならなくなる。
「なあ、悲しかったかよ?」
「悲しかったよ! それで満足か!」
「今日って俺の誕生日なんだワ」
「は?」
(何云っちゃってんの、このヒト?)
 あんた、十一月生まれじゃん。と、心でツッコミを入れつつ、ふいに匡平はイヤな予感に囚われた。
(……アレ? ちょっと待てよ)
 もともとコイツの誕生日、誰に聞いたんだっけ…。確かあの口の軽ーい、オネエに聞いたんじゃなかったか?
 人を混乱に陥れて悦に入る、好きな言葉は「対岸の火事」とか公言して憚らない、あの毒舌ヤロウに。
(ヤラレたわ…)
 つーかこんな長期戦の伏線張るんじゃねーよ、バカヤロウ…ッ、と声を限りに叫びたい気持ちだ。
「待った。ゴメン。謝る。アイツを信じた俺がバカでした、ほんとスイマセンでした。ちょっと待って…っ」
「待たない」
 強引に身体を返され、ねじ込むようなキスを受ける。
 ヤバい、これはヤバい。
(確実に足腰立たなくされる…っ!)
 戦慄にも似た予感は、数時間後には立派な現実となって匡平に襲いかかっていた。


「あぁ…」
 長時間にわたる酷使に耐えかね、終わるやいなや匡平は逃げるように睡魔に身体を明け渡した。
 乱れた制服のままソファーに転がる匡平の髪を英嗣の指がかき上げる。唇の端に残ってたモノを指で拭い取り、それを自分の口へと運んだ。コレは匡平のモノだな、と思う。
 あれから数時間――若菜にもらった分はけっきょく、使い果たしてしまった。
 無防備に眠る匡平の横顔。美人、と評する以外にほかに言葉が見つからない顔立ち。加えてあのじゃじゃ馬ぶりだ。
 先にハマったのは英嗣の方だった。
(告白したのはオマエでも、そうさせたのはこっちなんだぜ?)
 それを知ったら、こいつはどうするんだろーな。でもそれはまだ、先のお楽しみだ。
 それよりもまずは「今晩のお楽しみ」だろう。
 今日という日が終わるには早い。祝われる立場と権利はまだ英嗣のものだ。二回で済ませたのには無論、ワケがある。……まあ頭にきてた分、多少の無理はさせたかもしれないけれど。絶頂手前でしつこく堰き止めて、最後は匡平の方から奥にねだらせた。
「しっかし、いてーな…」
 触ると、右頬がまだ熱を持っているのがわかる。匡平が外階段から消えた直後に、黒木に渾身の力で頬を張られたのだ。あんまりバカにしないでよ、なんて。
(知っててノッたくせによく云うぜ…)
 そのあたりはやはり、女のプライドなんだろう。その矜持を尊重して、英嗣は甘んじてその痛みを受け入れた。
 我ながら小賢しい策だったとは思っている。結果、引き出されたものはかなり不本意なものではあったけれど、結果論で物を語るなら、まだ事態の収拾はついていない。むしろこれからが本番だろう。
 汗で湿った前髪をすくうと、まだ涙に濡れたままの睫がかすかに震えた。
 人見知りする猫のように、起きている時はどこか近寄りがたさを漂わせる美貌も、こうして眠っているとあどけない限りで、心を許された特権じみた優越が胸に芽生える。
 愛されることよりも、愛することの方が数倍も難しい。
 それをこの半年間でどれだけ思い知らされたことか。慣れない立場に戸惑いもしたし、文字でしか知らなかった嫉妬の苦しさも知った。
(誰かを欲しいと思った時には、覚悟が必要なんだな)
 いまなら若菜や以前付き合った女たちに「恋愛不感症」と云われていた意味もよくわかる。果たしてこの王子様は、自分がどれだけのものをもたらしたかわかっているのだろうか?
 眠り王子はいまだ夢の中にいる。とりあえずはしばし、匡平の眠りを見守ろうかと思う。
 律儀に時を告げるチャイムの音。合唱部が練習する黒人霊歌が遠く聞こえてくる。
「やれやれ…」
床に落ちた生ゴミの口を結んで縛りながら、英嗣は換気のために閉めていた窓を開けた。
 家に帰れば、この日のために用意した新品のグッズやゴムにも事欠かない。普段は使わせてもらえないモノも、あるいは今日ならば――…。
 そんな英嗣の下心を知らぬ匡平は、いまだ健やかな安眠の縁にいた。


prev / << )


end


back #