恋という字は下心と書く。#2



「蓮科が半年も保つなんて、脅威的」
 サラサラと前髪を梳く指を感じながら英嗣は目を瞑り、柔らかいカラダの感触を楽しんでいた。
「それって、相手が春日だから?」
「さァーな」
 目を開けると、パッチリとした若菜の瞳は遠くの山並みへと向けられていた。
「あーでもわかる気はする。アイツって確かにキレイだもんね。つーか、アタシが春日と別れた理由もソレだし」
「ソレ?」
「だって女のアタシよりキレイなやつなんて、やってらんないじゃん」
「フハハ。俺は若菜の胸、すげー好きだけどな。デカくないけど、カタチがスゴイいい」
「ケダモノ」
 若菜が英嗣の鼻を摘む。
 指を離された直後、英嗣の鼻腔をフワリと女の子のイイ匂いがくすぐった。
「あ、そうそう。ヒデシ、今日ってさ…」
「覚えてた?」
「だよね。まあ、昔取った杵柄ってゆーか」
「それ、用法違うんじゃね?」
 クスクス笑いながら落ちてきた唇を、上半身を軽く浮かして受けとめる。若菜の腕が英嗣の後頭部に回され、英嗣の腕もまた若菜の首にかけられた。
 しばし、甘いキスを味わう。温かい唇。アイツとはまた違う、柔らかい感触だ。甘い匂い。
(昔はこんなんでもトキメいたもんだけどな…)
 若菜と付き合っていたのは中学二年の秋くらいだったろうか。考えてみると高校に上がってからは、匡平一筋ということになる。意外に一途な自分の半面に英嗣自身、少なからず驚いてはいるのだ。思わず苦笑を漏らすと、若菜が再び英嗣の鼻を摘んだ。
「誰かサンと比べるのはナシよ」
「ちげーって。だって若菜のキスは若菜にしかできないわけじゃん?」
「そーゆう屁理屈、云わない」
 でも、それが現実。だからこそ自分は執着するのだろう。独占欲と支配欲のスリル――そして快感に。
 よっと反動をつけて立ち上がると、英嗣は背中についた細かい芝生をはたいた。講堂の方から流れてきた人の波が、食堂の方へと向かって流れていく。
「終わったみたいだな」
「じゃあアタシ、教室戻るワ。とりあえずHR出て成績表だけもらっとく」
「ついでに俺のも」
「バーカ。甘えるのは彼氏にだけにしときなさいよ」
 なかなかにキツイ一言をもらって、さすがの英嗣も苦笑した。女の勘か。内心を見透かされたようで、イタズラを見つかった子供のような気持ちにさせられる。
「あ、春日だ」
 云われて見ると第三校舎の窓ガラス越しに、匡平の少々猫背気味な細身が見えた。後を追うように食堂から出てきた二組の関に肩を抱かれて、それを振り払うでもなく並んで歩いている。
「関もタラシだからねー。妬ける?」
「トップシークレット」
「あ、そ。じゃーね」
「そうだ、若菜」
「何?」
「ゴムくんない?」
 一瞬だけ動きを止めて、若菜は器用に片眉だけを上げた。
「知ってるけど。知ってたけど、相変わらずサイテーね、アンタって」
「自覚はあんだけど、さ」
 カバンからドラッグケースを取り出した若菜が、薄っぺらい何枚かを抜いて蓮科の掌に落とす。
「自覚があっても、良識がなけりゃ意味ないのよ」
「そーゆう自分を装ってるの、ってダメ?」
「バァーッカ」
 カタチのいい脚が昇降口に消えるのを見送ってから。
「さーて、と」
(どうしたもんかな…)
 一度大きく伸びをしてから、英嗣は履き潰した上履きを引っかけると、匡平が向かった方角とは反対側の渡り廊下へと進路を定めた。

 

「…ったく」
 ギリギリで滑り込んだHRにて――。どうにか成績表の受け取りにだけは成功し、手早く帰り支度を整えると匡平は第一校舎の廊下を足早に進んでいた。
 関に抱きつかれていたおかげで、アイツのトワレの匂いが移ったような気がしてならない。
 元はといえば、口の軽い誰かサンのおかげで匡平は食堂で関に絡まれたのだ。だが、トッチメテヤロウと帰ってきた教室に早乙女の姿はすでになかった。
(あんにゃろう…)
 そもそもアイツに口を滑らせた時点で、こうなることは目に見えていたのだが。その憤りをも無理やり早乙女に転嫁して、匡平は苛立たしげに靴底を引き摺った。
『マジで別れたら、ソッコー連絡してね』
 そう耳元で囁いた関の声が、急に感覚と共に蘇ってくる。


「番号知んねーもん」
「またァ。いいかげん覚えてくれてもいーんだけどね」
 匡平の三つ目まで開いたシャツの隙間に、器用に紙片をはさみ込むなり関がさらに顔を寄せてきた。
 廊下の隅の、ちょうど死角になる袋小路。壁際に追い詰められて、関の両腕がサークルのように匡平を取り囲んでいた。意外に周到な手口だ、と思う。
「あいにく記憶力、いい方じゃなくってさ」
 顔の横につかれた腕をかいくぐろうと身を屈めたところで、逆側にあった手で首筋をつかまれて引き戻される。
「んな、冷てーこと云うなよ」
 マフラーの下に忍んできた指に首筋をくすぐられて。
「あ…」
 振りほどく間もなく、舌の感触。
「て、め…っ」
「ちょっとつまみ食い。なァーんて」
 明るく云い放つと、関は笑って匡平から身を離した。
 密着してた体温が急に冷めて首筋の濡れた感触ともあいまり、背筋をゾクゾクしたものが這い下りていく。
「悪りィ、いじめ過ぎた?」
 甘いマスクが楽しげに覗き込んできた、その二秒後。
「イッテ…っ」
 脛に一蹴り入れると、匡平はツイと顎先を逸らした。
「調子ン乗ってんじゃねーよ」
 そう一言云い置いてから、しゃがみ込んだ関には目もくれず、匡平は自分のクラスに戻ったのだ。


 関というオトコ――。派手な外見に見合ってかなりチャランポランな男ではあるが、それでいてなかなか気のいいヤツでもあった。
 どこか憎めないというか。英嗣と付き合っていなければ、最初に告白された時点でもしかしたら付き合っていたかもしれない。たまにそう、考えてしまうくらいには――。
(ま、仮定法過去なんて趣味じゃねーけど)
 でもきっと、なるべくしてこうなっているのだろうと思う。女の代わりでもいいからそばにいたい、とか思っちゃってる自分がすでにココにいるし。
「ホント、手遅れ」
 関の携帯番号が書かれた紙片をグシャリと握り潰すと、匡平はそれをポケットにしまって歩きはじめた。
 第一校舎から続く廊下をそのまま進み、四組の角を曲がると第二校舎へと続く連絡路がある。図書館を通り過ぎ、もうひとつ分クラスを過ぎると匡平は六組の後ろ側の扉に手をかけた。
「蓮科、いる?」
 平常の午前授業時と同様、スクールバスはもう動きはじめている。その所為か、教室内の人数もやけにまばらだった。壁際のヒーターに腰掛けていた小松原がリズムを刻んでいた指先を止めて、片耳だけイヤホンを外す。
「よォ」
 眺めてたスコアボードをひょいと机に乗せると、だらしなく伸ばしてた脚を床に着地させた。音漏れがかなりのボリュームで匡平の所にまで聞こえてくる。
「ついに蓮科と別れたって?」
 ボリュームに比例した、小松原のバカ声が教室に響いた。
(まーた、ソレかい…)
 誰かのお喋りはかなりのスピードで広範囲に広まっているらしい。この際、学年中が知っていると思っていた方が賢明かもしれない。小松原のバカ声を聞き咎めた、周囲の視線を一身に浴びながら匡平は肩をすくめた。
「バっカらしー」
「なんだ、ガセか?」
「んなのに、いちいち惑わされてんなよ」
「なんだ、ヌカ喜びしちまったぜ」
「あ?」
「オレ、半年で別れるに千円賭けてたンだよ。クッソ、俺の千円」
「……ホントろくなことしねーよな、おまえらって」
 学年のムードメーカーの一人、設楽(したら)哲(てつ)を中心にした連中のノリは時折、学年のステータスになる。それほどの影響力を持つが、それだけに匡平は、このテの話でしばし迷惑を被っていたりもした。――とはいえ、そういう匡平も学年のニュースメーカーの一人だったりするのだが、本人に自覚はまるでない。
「娯楽よ、娯楽。ちっとは大衆にも貢献しなさいっての」
「冗談じゃねーよ、おい」
 さっき聞いたギターのフレーズが小松原のイヤホンからふいに漏れ聞こえてくる。それに気を取られていると、。
「あ、春日ッ」
 と、急に背後から呼びかけられた。振り返るなり、目前に茶封筒が突き出される。視線をずらすと、封筒を掴む腕の先にショートカットの若菜の顔が見えた。
「コレ。蓮科の成績表。アイツに渡しといてよ」
「いーけど。ココにいなきゃどこにいんのよ、アイツ」
「あんたが知らないことを、アタシが知ってると思う?」
「アー、はいはい」
 とりあえず受け取った封筒を小脇に抱える。若菜が短く揃った黒髪を掻き上げた。艶やかな黒髪をヘアバンドでまとめ、さらに何ヶ所かをヘアピンで留める。
「これから部活?」
「そ。今度の日曜、大会があんの」
「ふーん。どうせまた、ボロ負けすんだろ? やるだけ無駄なんじゃねーの」
「相っ変わらず、カワイクないわねぇー」
 弓道で鍛え上げられた若菜の握力で頬をつねられ、さすがの匡平も失言を悔いた。
(オイオイ、これが元カレに対する仕打ちかよ…)
 下から睨み上げてくる視線をそのまま睨み返していると、急に視界の焦点が合わなくなった。
 グロスの感触――。
 押しあてられた唇は数秒で離れたが、温もりがまだ残っている。ヒューッ、と尻上がりな口笛が周囲から上がった。
「じゃ、これで返したからね」
「は?」
「蓮科のキス」
(あー、そういうコト?)
 ようするに英嗣が普段、無闇やたらと振りまいている愛嬌の一つが返ってきたということらしい。
 まあ、たいていは一方通行でしかも、匡平の計り知れない所で何十個もの愛嬌が配られているのだろうが…。そんなことは想像に難くない。
「なーんか珍しく懐いてきたから構っちゃったけど、相変わらずのサイテー男ね」
(そんなん、身にしみて知ってるっちゅーの…)
 反射的に唇を舐めると、甘い香りが口中に広がった。
「だから。あんたがちゃんと構ってやらないから、アタシなんかにフラフラしちゃうの。自覚しなさい」
「ハイハイ、けっきょくぜーんぶ俺の所為、って…」
(あれ?)
 ポンと若菜の頭に手を置くと、匡平は込み上げてくる思いに自然、頬を緩めていた。
「よけーなお世話、ごくろうサマでした」
「お節介焼きでゴメンナサイねェー、っだ」
 鼻にシワを寄せ舌を見せると、若菜はカバンを片手にスタスタと教室を出て行った。
「サンキュ、若菜。気休めでも嬉しいワ、それ」
「今度、ダッツでも奢れよな」
 指でOKを示すと、廊下の曲がり際に若菜が笑った。
 鼻にシワを寄せて笑う相変わらずのクセ。若菜らしいその笑顔が好きだったのを覚えている。ほんの数ヶ月間、彼氏彼女だった頃の思い出――。それをこんなふうに笑顔で思い出せるのなら、自分的にはシビアだったあの頃も実は幸せだったのかもしれない、と思えた。
 でも、アイツとはまだ思い出にもなってない。
 イヤホンの向こう側にすっかり戻っている小松原の横を抜け、匡平は六組の教室をあとにした。第三校舎に続く渡り廊下へと歩を向けながら――。

 

「あ、注意し忘れた」
 着替え途中、カバンから転がり出てきたモノを見つけて。
 若菜は思わず一人ごちた。足元にはドラッグケースが転がっている。
「足腰立たなくされるカモよ、春日?」
(ま、いっか。自分には関係ないコトだしね)
 そうして聞かされることのなかった助言は、そのまま更衣室に置き忘れられた。


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