恋という字は下心と書く。#1



「二十日って何かあったっけ?」

 その一言で、匡平は朝っぱらからブルーの境地へと突き落とされた。
(つーか、期待なんかした俺がバカだったんだよな…)
 もしかして――そんな甘い夢を見ていた自分の浅はかさ加減を、イヤというほど思い知らされた気分だ。
「二十日ったら秋休みだろ。五組のヤツらと出かける約束してるけど。春日も行く?」
「行かねーよっ」
 即答した匡平の語気の強さに驚いたのか、英嗣はめくりかけていたページを元に戻すと、グラビアに落としていた視線をひょいと持ち上げた。
「何怒ってんの?」
「別に。ぜんぜん怒ってねーし」
 持ってたカバンを努めて穏便に自席に放ると、匡平は極上スマイルで隣席に居座る英嗣へと向き直った。
「なーんも怒ってない、って」
「ウソくせー笑顔」
「……あー、そうかよ」
(ったく、失礼なヤツめ)
 匡平はすぐさま仏頂面に戻ると、窓際の自分の席にドカリと腰を下ろした。じき予鈴が鳴る頃だろう。
 始業までの数十分間、こうして匡平のクラスで時間を潰していくのがいつのまにか英嗣の日課になっていた。
 ちょうど半年前からの習慣になる。春日匡平が蓮科英嗣と付き合いはじめてからのセオリー。
「やれやれ、春日の笑顔はアテになんねーからな」
「知った風な口、利いてんじゃねーよ」
 他愛ない戯言と踏んだのか、あっさり雑誌に目を戻した英嗣の横顔を、匡平は改めて眺め下ろして見た。
 こうして見ると結構、睫毛が長いんだなーとか、鼻の横に小さな傷があるんだなとか、ついつい細かい発見をしてみたりする。
 バランスよく整った目鼻立ちに、女子たちをいたずらに騒がせる爆弾を吐く、薄い唇。そして時に濡れた輝きを放ち、見つめられただけで息の根を止められそうになる、蠱惑的な黒い瞳――。
 蓮科英嗣。流した浮名は数知れず。
 だいたいこんなオトコに惚れてしまったこと自体が、匡平の運の尽きだったのだ。
(どうせコイツは、軽くOKしたんだろーけど)
 惚れた方が負けとはよく云ったものだ。そりゃあ、付き合ってる以上デートもしてるし、セックスもしてる。でも自分と同様、もしくはそれ以上に相手も自分を思ってくれているという実感を得たことはまだ一度もなかった。いうなれば惰性の半年間、だ。
 英嗣の口から「好きだ」なんて聞いたこともないし、アイツから求めてくる時ってのも「ああ、溜まったんだな」くらいにしか思えなくて。
 平気で女の子ともデートしてるしな。
(……あ、ヤバい。ちょっと泣きそうカモ)
 予鈴が鳴って、にわかに教室内の人口密度が高くなる。
「ホラ鳴ったぜ。さっさと自分の教室、帰れよ」
「面倒くせーから、こっちでHR受けてく」
「あのな、ウチのクラスでてめーの出席なんか取らねーぞ」
「ああ、さっき廊下で担任とすれ違ったから。出席だってことはわかってんだろ」
 これもいつものことだ。諦めて前を向いていると、雑誌に目を落としたまま、英嗣が「なあ」と低く呟いてきた。
「んー?」
「おまえさ、今日が何の日か知ってる?」
「秋休み前の最後の登校日」
「……だよな」
 急に気が削がれたように読んでた雑誌をパタリと閉じると、英嗣はそばにいたヤツに無理やりそれを押し付けた。被害を受けた前席の皐月が、オイオイまたかよといった顔で溜息をつく。
「いらねーっつうの」
「いいから読んどけって。な、やるよ。もうやったから。返すなよ?」
「あのな…。相変わらずだな、ハチスカの横暴ぶりは」
「そんな誉めんなって」
 そうだ、こういうヤツなのだ。わかってるのに……どうして好きになってしまったんだろう?
 そもそもコイツが、なんでOKしたのかも謎なのだ。普通、気紛れで半年もオトコを抱けるとは思えない。あ、でも男ならいくらヤっても絶対、妊娠しねーもんな。
 ……それか?
(うっわ、まじブルー入ってきたんですけど…)
 思考の泥沼にハマりつつHRを受けていると、ふいに英嗣が耳元で小さく名前を呼んだ。
「キョウ」
 振り向いた瞬間、素早く。
 掠め取るようなキス。
「なっ…」
 仮にも朝のHR中、クラスメイトの面前である。一気に紅潮した頬を隠すために、匡平はパーカーの襟元を慌てて引き上げた。幸か不幸か、気付いたのは皐月くらいのようだったが。おまえらホントいい加減にして、と顔中に書いた皐月が呆れ果てた風情で前に向き直る。
(ヤラれた…)
 恥ずかしいと思う半面、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うほどに胸が高鳴ってしまう。いたずらを仕掛けた子供のように、してやったりな英嗣の表情に――。
 ほら、もうこんなにドキドキしている。
 アイツの一挙手一投足に、こんなにも自分が左右されてしまうなんて――ホント重症だよな…と思う。諦めにも似た溜息をつくと、匡平は熱くなった頬を両手で押さえた。
 ふとした時に実感させられる、この思い。
 悔しいけどやっぱり好きなのだ、コイツのことが。

 前期と後期の間に一週間だけ設けられた儚い休暇、生徒たちはそれを「秋休み」と呼び、親しんでいる。
 今日はその前日の終業式だった。――式といっても大したことをするわけでもなく、終わってしまえばあとは帰るだけというスケジュールなので、そもそも登校する意味があるのかという気もがしないでもないのだが。
「なーに、誕生日忘れられたくらいで拗ねちゃってるワケ? やっだ春日、かっわい〜い」
「うるせーよ、早乙女」
「いやん、ツレない」
 ケタケタと笑い転げる早乙女に蹴りを入れつつ、匡平は読んでいた週刊誌をそこらに放り投げると、スピーカーの横に設置された時計に目をやった。昼も間近い。講堂での終業式も、そろそろ終わった頃だろうか。
「浮かない顔ねぇ。自分ばっかり好きみたいで不安?」
(コイツ…)
 さりげに核心を突いてくるのが、早乙女の得意技だ。
「人のこたァ、放っとけよ」
 ヒーターの上で器用に体育座りをしながら、早乙女は片耳をイヤホン、片耳を匡平に提供している。
「じゃーさ、春日は蓮科の誕生日知ってるの?」
「あー、アイツは確か十一月生まれ」
「ふうん」
 早乙女が下ろした脚をスラリと組んでみせる。悔しいことにも早乙女の方が、匡平よりも確実に五センチは背が高い。比例して足の長さも違うというワケだ。
 さらさらとした薄茶の髪を揺らしながら、色素の薄い瞳が前髪の隙間から匡平の顔を覗き込んでくる。
「まーね。春日の気持ちもわからなくはないけど。でも少しはアタシにも気ィ使いなさいよね。これでもアタシ、あんたにフラれてるんだからね」
「そのあと、蓮科にもフラれたくせに」
「失礼ね、下手な鉄砲は数打ちゃ当たるのよ!」
(それ、威張れるハナシか?)
 しかし、その根性でゲットしたものか。早乙女には現在、三十歳・歯科医師のオトコの恋人がいる。校内でも数少ないマイノリティ友達の一人だった。
「ああ、そろそろチャイムね」
 けっきょく終業式には出ず、早乙女なんかと下らない話をしてる間にタイムリミットを迎えてしまったようだ。これではますます何をしにきたのかわからない状況だ。
(何ってまあ、理由はあったんだけどさ…)
 その理由は朝イチで潰されてしまったので、気分的にはもう成績表を受け取らずに帰りたいくらいだった。
 英嗣の方だって式に参加したかは疑わしいところだ。朝のHRのあと出席するようなことを言ってはいたが、アイツのことだ。出たとしても後ろのマットでゴロゴロしているか、同じようにどっかでサボっていることだろう。どっかに女の子とシケこんでるとか?
(……自分で傷を抉ってどうするよ)
 行儀悪くヒーターにかけてた脚を元に戻すと、匡平は折れていた制服の裾を正した。
 いいかげんノロケ話にも飽きてきた頃だ。そばに置いてあった早乙女のリプトンを一口奪って、机に放ったままだったショートマフラーを首に結ぶ。モヘアの感触が素肌に心地いい。
「あらヤダ。なにソレ、仔猫ちゃんの演出?」
「アーホ。寒がりなんだよ、俺は」
「そう、コンセプトは淋しがり屋の仔猫ちゃんね。侮れないわ、なかなか」
「ハイハイ」
 高校に上がると同時に本性を明らかにした早乙女のキャラは、女子を中心になぜか絶大な人気を誇っていた。
 黙っていれば女には不自由しない容姿なだけに周囲の意見も色々ではあるが、本人はいまのポジションに甚くご満悦のようだ。彼氏の話で女子と楽しそうに盛り上がる姿というのも、今では馴染みの光景だ。
 中一からずっと同じクラスの匡平としては「よかったな」と思わなくはないのだが、この頃は毒舌にさらに磨きがかかってきているような気がして油断がならない。口は相変わらず羽毛のごとく、軽いし。
「食堂?」
「ん。なんかパンでも買ってくる。君のノロケには、もう付き合いきれません」
「あーら、愛のお裾分けよ。ね、ついでにパン定食のォ」
「はい却下」
「ケチ!」
「めんどいからヤダ」
「ケチケチー!」
「うるっせーな、気が向いたらな。……あと、アイツには何も云うなよ?」
「僕チャン、もうすぐ十六歳って話?」
「そ。云ったらタコ殴り。ンじゃな」
 不平を云う早乙女を余裕で無視って、上履きを引き摺りつつ廊下に踏み出す。どこかのクラスからギターの音が漏れ聞こえていた。開けっぱなしの窓から、意外に冷たい秋風が吹いてきて思わずモヘアに首をうずめる。
「Born to be…」
 ギターのフレーズに合わせて口ずさみながら、匡平は混雑前の食堂へと向かった。

 

「けっきょく似たもの同志なのよね、あの二人って」
 一人になった教室で――。早乙女はイヤホンから流れ出したオペラに耳を傾けながら溜め息を零した。
「まったく。付き合いきれないのはコッチですゥーっだ」
 拗ねた声音が室内から外へと移動する。ベランダの手摺に手をかけ、手摺と壁の隙間に脚を通してそこに腰かける。爽やかな秋風が早乙女の髪を撫でていった。
 晴れた日には「蝶々夫人」がよく似合う。
 宙に投げ出した脚をブラブラさせながら、三階からの眺望を楽しんでいると。
「あらま、浮気中?」
 中庭の芝生の上で、六組の片桐若菜に膝枕してもらっている長身の姿が見えた。


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