アンチテーゼ #6



Beneath our faults we'll live and die.
俺たちは自らの過ちの下に生き、そして死ぬだろう。


週一で南を抱きながら、誘われれば瀬戸内とも寝る。オンナができれば自然、瀬戸内とは遠ざかったがなぜか南とは切れなかった。人間というものは兎角、快楽に忠実に作られているのだろう。他はともかく体の相性だけで云えば南ほど会う相手はいなかった。嫌悪と苛立ちを次第に快感が上回り始めてた頃。南の体に自分以外の誰かの跡があるのに気付いた。途端に膨れ上がった苛立ち。ほとんど無理やりに近く抱く週もあれば、道具に頼る週も出てきた。それでも南は逃げ出さなかった。自ら迎えにくることすらあったのに。
あの日を境に南は自分を避けるようになった。瀬戸内に云われて上げた視線の先、逃げるように駆け出した華奢な背中。それを追いかけたいと思った時には、致命的にもうそれを自覚してた。瀬戸内とはそれから一度も寝てない。向こうから誘われることもピタリとなくなった。顔を見れば逃げようとする南をつかまえて気持ちを伝えようと何度も試みたけれど。アイツは頭から信じなかった。
「戯言はいいからサッサとやろうよ?」
「そんなオプションいらないってば」
「カラダだけくれりゃそれでいーから」
頑なな南の態度を崩そうとするうち、いつのまにか犬猿の仲と云われるようになっていた。押しても引いても開かない扉を前に打つ手もなく佇む。それでもソコから立ち去ることは、倉貫にはどうしてもできなかった。
「聞いてる、倉貫?」
「あー、七割方はな」
執行部が牛耳る会議室から直線距離にして百メートルほど離れた個室。準備期間中「第三本部」と名付けられたこの部屋の役割については室内の様子を見れば一目瞭然だ。
首から抜いたタイを丸めてポケットに突っ込むと、倉貫はドサリとソファーに腰を下ろした。体の火照りと疼きが治まるまでは、頼むから少し放っておいてくれと思う。中学からクラスの分かたれたことのないクラスメイトが、前のソファーで毛布に包まりながら清潔そうな顔に翳りを見せる。
「肉欲に溺れるのは愚者の証明なんじゃないの?」
「逆だろ?愚かさこそが人間の証明じゃねーか」
倉貫の虫の居所を悟った瀬戸内が口を噤む。五分でいいからちょっと黙ってろよ。そしたらいつも通りの自分に戻ってやるからさ。ソファーに横になってじっと目を瞑る。油断すると舌っ足らずな幻聴が聞こえてきそうで知れず眉間に深いシワが寄った。多少の苦痛は伴なうが慣れた手順を追えば問題ない。倉貫は深い快感の残滓を手早く記憶の底から洗い出した。それを待ってきっちり五分後に親友が口を開く。
「それで機材の今後のことなんだけど」
「ああ」
「切敷が明日には会計係に戻るから、機材の監視とフォロー引き継いでくれってさ」
「…へーえ」
学園祭まであと三日。その時点で他からヘルプを頼もうというのがまず間違ってんだよな。いやそれ以前に、決定的な過ちとして。
「アレを係長に推したのは誰だ?」
「自薦でしょ?」
「止めとけよ、誰か」
「最後だからワガママ聞いてあげたんじゃない?」
「ならソレ聞いたやつが責任取れ」
高校生活最後の学園祭。そこに勝手な思い入れを持つのは個々人の自由だ。けれどその後に発生する責任の所在については誰もが無頓着なのだから始末が悪い。権利の主張には義務が、自由の裏には責任が付き纏うなどということはイマドキ小学生でも解ってるだろうよ。その尻拭いが自分にまで回ってくるところが心底納得いかない。
「クラスもノータッチで高見の見物気取ってたくせに」
「当たり前だろ」
あんなお祭りオトコの指揮下に入って扱き使われるのは趣味じゃない。あんな取引の一つでもない限りはな。
「オマエの探してたアナログ盤、手に入れちったー」
今朝方、スクールバスで吹き込まれた甘言。
「つーコトで委員会補助、やってみちゃったりするよね?」
たぶん手に入れたのは最近の話じゃないんだろう。切り札の使いどころは心得てるヤツだから。それも、乗せられて悪くないと思えるだけのモノをきちんと揃えてくるから大したものだ。かくして倉貫はアナログ盤のために委員会に名を連ねることを了承した。
「で、お祭りオトコは?」
「さあ」
寝転がったままオレンジ頭のケイタイを鳴らす。しかし即座にソファーの向こうで鳴り始めたコール音に舌打ちする。わざとだな、あのオトコ。すぐに通話を切ると倉貫はもう一度舌打ちしてからそれをポケットにしまった。携帯を置いて出たというコトは居場所は一つ。まだシケこんでやがるなアイツ。
「なんですか、いまのー?」
けたたましいコール音で起きたらしい執行部員が床に敷かれたマットの上で顔を上げる。
「何でもねーよ、死んでろソコで」
「…はい」
命令に大人しく従う後輩を眺めながら倉貫も頭から毛布を被った。実行委員に名を連ねた以上、家に帰ることは許されない。長い一日のペース配分を考慮した結果、倉貫は一時間ほど仮眠を取る事にした。第三本部、通称仮眠室に転がる屍の一つとして目を瞑る。観月か切敷の手が空かない限り、こちらからアプローチできることは何もないのだ。もといあったとしてもやる気はない。
どれぐらい眠ったことだろう。体の下で震える携帯に目を覚ますと、倉貫は不機嫌一色で低い声を発した。
「なんだよ」
外からの通話で瀬戸内がもうこの部屋にはいないことを知る。つーか、誰もそんなこと報告しろなんて云ってねーし。せっかく忘れてた感触が手の中に戻る。アイツ、さっきあしらったの根に持ってやがるな…。携帯の電源を切ってからもう一度毛布を被る。だが十分もしないうちに今度はソファーの下からくぐもったコール音が聞こえてきた。完全に覚醒していく意識を倉貫は仕方なく享受することにする。
「あーハイハイ、じゃあね」
下のマットに転がってた七組のアヤミが、ぺっとばかり携帯を放り捨てた。投げやりな態度。
「何だよ」
「先に云われたー」
「あー?」
「フラレたー」
「…あぁ」
あの眼鏡ヤロウか。ったく、あんな顔中の筋肉凝り固まってるようなオトコのどこがいいんだか。倉貫には計り知れないが、意外にあの男はモテるらしい。
「あんな情緒障害のドコがよかったんだ?」
「もちろん薄情なトコ」
「なら本望じゃねえか」
「解ってんなら口出し無用よ」
一昨日から一睡もしてなかったという受付係長はすぐに睡魔につかまるとまた眠りの縁へと沈んでいった。見渡すと屍の顔触れがだいぶ変わっている。どこかで入れ替わりがあったんだろう。スピーカーの上の時計はまだ大して進んではいないが…。つーか三十分も寝れてねーじゃねえかよ。瀬戸内の睡眠妨害作戦は功を奏したといえよう。
しょーがねえ、オレンジ頭をつかまえてくるか。ちょうど仮眠室に入ってきた後輩に場所を譲って第三本部を出る。携帯を持たずにシケ込んでるらしい委員長を捕獲するため、倉貫は放送室の扉をくぐった。
「観月、呼べよ」
「私用放送は禁止だよーん」
「公用、公用。委員長にテメェ踏み込むぞって伝えな」
「なんだ、居場所知ってんならチョクで行けよ」
「行けねえからこうやって頼んでんだろ?」
「へえ。でもソレ、人に物頼む態度じゃないよねー?」
「血ィ見るか?」
「…さーて、委員長でも呼び出そうかなーっと」
踏み込めるもんならとっくに踏み込んでんだよ。厄介な所にシケ込みやがって。放送から三分後。仮眠室から持ち出してきた観月の携帯に非通知着信が入った。
「ああ、倉貫ー?」
「さっさとソコから出てこいよ」
「ハイハイ、解ってるって。いまちょうど窓から出るトコ」
「ヘマすんなよ」
「やっだなぁ、誰に向かって云ってんのソレ?」
「あ、太田に婚約オメデトウって伝えといて」
「うっわ、サイアクおまえ!」
ゲラゲラと電話の向こうで笑い上戸が大爆笑する。笑い交じりの「じゃ、駐輪場で」を最後にプツリと一方的に通話が断ち切られた。
「どっちがだよ…」
頼むから来月職場結婚するような女の所になんかシケ込んでくれるなと云いたい。婚約前はそんな気配ミジンもなかったから関係ができたのは結納の後なんだろう。この場合サイアクなのは間違いなく観月の方だ。さすがの倉貫も数学科の高梨に同情を禁じ得ない。駐輪場に行くと先にきていた観月が太田の黄緑色のスクーターに跨っていた。携帯を放ると代わりにキイホルダーが宙を飛んできた。
「なあ、これ出して」
「どこまで?」
「ドレミファ橋の向こうに自販、あるじゃん?」
ちょうど倉貫の煙草も切れていたところだ。慣れた二人乗りで裏口からドレミファ橋までのケモノ道を走る。途中すれ違った何人かの生徒に「ハロー」と背後から呑気な挨拶を送ってるバカがいる。ハローじゃねえよ、ハローじゃ。しっかり両手でつかまりやがれ。どうにか無事にたどりついた橋を渡り切って自販機前にスクーターを止める。観月がピョンっとアスファルトの上に飛び降りた。
「マルボロな」
「オーケイ」
ここまで運んでやった恩は煙草で返してもらおう。手渡された箱の封を切る。学校に帰る前にちょっと一服。スクーターに跨ったままフィルターを咥えてると自販機に背を預けた観月が「そういや聞いた?」と間延びした声を吐き出した。
「何を?」
「二年の宮島が白昼堂々南チャンに告ったらしいぜ」
「へえ」
「しかも南チャンがこれを受ける気らしいっつんだから、ビックリだよなァ」
「あ、そう」
伸びた灰をトンと叩いて地面に落とす。
「反応ウスイねー。ココもうちょっとリアクションほしいトコなんだけどなァ」
「何でだよ」
「だってオマエ、失恋確定じゃん?」
チロリと観月の視線がこちらに流れてくる。バーカ。失恋なんかとっくの昔にしてんだよ。煙草を引っ掛けたまま唇の端で笑うと観月の視線が窺うようなそれに変わった。観月にも瀬戸内にも何か云った覚えはないが、それぞれに感じる部分はあるということだろう。
「オマエのあれは好きな子をついイジメちゃう、サド的恋心だと俺は解釈してたんだけどね」
「どうだか」
「南チャンだって意識してんじゃん、オマエのこと」
「そりゃ嫌われてるの間違いだろ?」
顔を見れば逃げ出す。手を伸ばせば引っ掻かれる。まるで毛を逆立たせた猫のように、怯えの向こうで必死にこちらを威嚇してる様。べつに怖がらせたいわけじゃない。泣かせたいわけでもないのに。南にはそれが通じないのだ。こちらの気持ちが届かない。いくら呼ぼうとも。何度叫ぼうとも。
「その場合、嫌われてる理由が問題なんじゃねーか」
「つーかオマエ、恋愛相談する気でこんなトコまで連れ出したのかよ?」
「まぁそんなとこ」
「他にやるコトあんだろが、委員長」
「んー、でもコッチのが遥かに面白そうだからなぁ」
そうそう、こういうヤツなんだよ。コイツは。短くなったマルボロを投げ捨てる。
「そこんトコよく考えてみろよ」
「あー?」
「知ってるか?人間ってな理由もなく誰かを嫌いになったりしないもんなんだぜ?」
お、始まったよ。お得意の独自理論に耳を傾けながら倉貫はシャツの胸ポケットにマルボロを滑り込ませた。
「逆もまた然り。物事には全て理由があるんだよ。ないように見えるのはオマエがまだそれに気付いてないだけ。真実ってのは事実の向こうに隠れてるモンなのよ?」
「へーえ」
一通り語り終わったところで「行こうぜ」と顎先で促す。「あーハイハイ」二つ返事で地面に落とした吸殻を踏み潰した観月が、今頃気付いたのか「ゲっ」と小さく呟いた。
「つーか上履きじゃん、俺」
「安心しろ。俺もだ」
上履きで、制服で、スクーターに二ケツ。どっかの青春マンガじゃあるまいしな。
「なんか熱いな、俺ら」
「アツイ、アツイ」
キヒヒと笑った観月を乗せて元きた道を戻る。雲ひとつない青空が目前に広がっていた。学園祭当日もこれぐらい晴れりゃいいのにな。行事なんて晴れてナンボのもんだ。
「俺さー」
背後で風に流されてた声が、かろうじてといった感じで倉貫の耳元まで届く。「あー?」という返事は観月の耳に届いただろうか。
「いつだったか見ちゃったんだよね。おまえとハルがヤってる現場に踏み込んじゃった時あんじゃん。エート、高一の終わりぐらい?」
「ああ」
風の音に混じって聞こえてくる声。それはひどく小さいはずなのになぜかクリアに倉貫の鼓膜を揺すった。
「そのちょっと前にさ。俺、準備室の方から出てきた南チャンと廊下で正面衝突したんだよね」
あの日、南の背中を見送ってからほとんど間もなく顔を出した観月の姿を思い出す。
「南チャン大粒の涙、零してたよ」
「…………」
倉貫が気持ちを自覚した日。あの日、南の中でも何がしかの変化があったのだろう。急変した態度。それはどんな変化だったんだろうか?
「そうか…」
それを知らないことには何も始まらないのだ。始まる恋も始まらない。だから終わる恋も終わらない。こんなにズルズルといつまで経っても。
「学園祭当日もこれっくらい晴れるといんだけどなー」
同じ空を見て同じコトを思う友達がいるってのもイイもんだな。観月の能天気な口笛を聞きながら、倉貫は学校に続く坂道をゆっくり上った。


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