アンチテーゼ #4



Beneath our faults we'll live and die.
俺たちは自らの過ちの下に生き、そして死ぬだろう。


中央階段まできたところで、ふいに漂ってきた甘ったるい香り。その子供騙しな匂いに倉貫は前方に眇めた視線を投げつけると、近づいてくる足音に耳を済ませた。角を曲がってきた人影を一秒で廊下の隅に引き摺り込む。腕の中の感触。人違いなのは一瞬で解った。
「なんだ、春日か」
「え、…え?」
腕の中の後輩が全身を硬直させる。
紛らわしい匂いさせてんじゃねーよ。密着した体の間、ポケットの中にあるだろうプラスチックケースががしゃん…と鳴った。まあ、いいや。観月が昼休みに云ってた計画を思い出す。それを敢行するには絶好のタイミングだろう。
「クラヌキ先輩…?」
恐る恐るといった体で口を開きながら、春日がさらに身を硬くする。
「正解」
それにしても頭のワルイ奴だな。いつまでもオトコの腕になんか大人しく抱かれてんなよ。親切心二割、悪戯心八割で倉貫は後輩の耳元にそっと唇を寄せた。
「へえ。わりと抱き心地はいいんだ」
「…何云ってんスか」
「しかもけっこう細いのなオマエ。腕とか無理やり捻じり上げたくなる感じ」
「バっ、バカ云わないでくださいよっ」
「首筋とか舌触り良さそーじゃん?」
もう三秒、反応が遅れてたら本当に舌を這わせてただろう。
「放してくださいっ!」
「バーカ、最初にそれを云わなきゃダメだろーが」
解いた腕の囲いから脱兎のごとく逃げた体が情けない音をたてて壁に張り付く。世の中はオマエが思ってるほどキレイなもんじゃねーんだよ。学校という社会の縮図においても、あわよくばなんて魂胆のハイエナはゴマンといる。
「自分の立場ぐらい自覚しとけよ。次はあのまま犯すぞ」
「なっ、何云って…ッ」
「蓮科もカワイソウにな。こりゃ気が気じゃねーだろうよ」
「だから何の用なんスかッ!」
「そりゃ、あのバカオトコ探してるに決まってんだろ? つっても本人見つかりゃしねーだろうから、委員会はオトリを使うことに決めたんだってよ」
「まさか、俺?」
「他に誰がいるよ」
笑顔と詭弁とでじりじりと追い詰める。オトリ作戦なんてついさっまで記憶の彼方だったんだけどな。袋小路に追い込まれてる自身の状況に春日がペロリと唇を舐める。どうせ横を抜いて逃げようとか思ってるんだろう。計算の上で空けた唯一の退路を猫のような目がキロキロと窺う。
「別に俺の横を抜いて逃げてもいーけどね。その代わりコレは預かっとくぜ」
こんな解りやすい退路、残しとくわけねーだろ。少しは頭使えよ、一年。ニッコリ笑顔で右手に持ってた携帯を提示して見せる。
「いつのまに…っ」
「昔から手癖が悪いもんでね」
観月の言葉を思い出した直後にはもう手が動いてた。ホント注意力散漫だよな、コイツ。そもそも自分がオトリになる可能性にすら気付いてなかったあたり、相当オメデタイ。
アドレス全消しでよけりゃお好きにドウゾ、と笑顔で退路を示してやる。もちろん本気だ。
「あーも、解りましたよ。どこへでもお供しますって!」
「いい返事だ」
覚悟を決めたらしい後輩の言葉に倉貫の唇が不敵に歪んだ。と、右手で鳴ったlittle green bag。途端、弾かれたように向けられた視線を受けて倉貫の眉に揶揄いの色が浮かべられた。
「ちょうどいい。さっそく、脅迫メールでも送っとくか」
何の躊躇いもなく、パチンと開いた携帯の受信メールに目を通す。新着メールは案の定、現在クモ隠れ中のバカオトコだった。
サブジェクト「注意」内容「委員会には捕まるな」警告にしてはだいぶ遅過ぎたようだな。
「わわわ、プライバシーの侵害!」
「問答無用」
「うーわ、サイアク」
絶対君主かくもあらん。倉貫の横暴ぶりは何もいまに始まったことではない。だが、続いて受信履歴を開いたところで倉貫の指がピタリと止まった。未開封メールがもう一通。見慣れた送信先がそこには読み取れた。
「…ちょっとムカついたかな」
「え?」
「おまえにじゃねーよ」
サブジェクト「だーれだ?」内容「アイツ見つけたらソッコウ連絡なッ。みんなの王子サマ・南より☆」
こんなアホメールを打ってるとは余裕じゃねーか。ひとまず脅迫状を送りつけてから、倉貫はアホメールにも手早く周到な返信を打った。
「終了だ」
閉じた携帯をヒョイと宙に放り投げる。狙い通り後輩の手元にソレが落ちたのを横目で確認しながら、倉貫はこれからの予定を脳内で組み立てた。とりあえずコレを副委員長に届けてから一度本部に顔を出して…と。
「そういえば先輩、もしかして誰か捜し…」
「カワイイ口は閉じとくに限るぞ?」
ふいをついて開かれた唇を脅しで噤ませる。余計なもん突っ込まれたくなかったらな、真顔で付け足すと春日が驚いたように目を見開いた。あーちょっとやり過ぎたか…。普段めったに透かすことのない本心が喉元までせり上がってたのをまた飲み込む。辺りに張り詰めた違和感を解きほぐすように。口元をゆるやかに綻ばせると、倉貫は高一の王子にそっと手を差し伸べた。
「さて、行くか」
観念した面持ちで重ねられた手をギッチリとつかみ廊下を進む。道中、掃いて捨てるほどの注目を集めながら哀れなオトリを委員会に引き渡すと、倉貫は続いて覗いた先の本部に見慣れた後ろ姿を探した。
「あのバカは?」
「委員長ならお昼からずっと行方不明ですよ」
「ハルは?」
「セト先輩は一時間ぐらい前にどっか行っちゃいました」
「ふうん。行き先は?」
「云ってくと思います、あのヒトたちが?」
まーた校内フラフラしてやがんな…。この際、観月はどうでもいい。ツカツカと廊下を歩きながらポケットから引き摺りだした携帯のリダイヤルボタンを押す。
「ハルか?」
ワンコールもなしに繋がった通話に多少の疑念を込めて声をかけると、少し遠い声が「何?」と小さく答えた。またどっかに連れ込まれてるなコイツ…。友人の所業にいちいち難癖をつける気はないが、よく体力が続くもんだと思う。つーか、ヒトのこと云えた義理じゃねえんだけどな。自分も観月もやってることは一緒だ。
「二時間ほど消えるんでヨロシク」
「…ああ、水曜日か今日」
「じゃーな」
上履きのまま、裏山の繁みを越えていまはもう使われていない旧校舎を目指す。五年前まで理化学系の部室に使われていた小さな棟舎はいまやすっかり草に埋もれ、その存在自体を知る者がすでに稀少だった。現・高三の喫煙所として一部の人間には重宝がられているが、この多忙な時期にわざわざこんな辺鄙な所まで息抜きにくる輩もいないだろう。そう踏んだ通り、無人の棟舎に辿り着くと、倉貫は半地下になった物置の扉を引き開けた。
三年前まで美術室にあった紺色のカウチ。ビロードがボロボロになったそれを引き取ってここに運び込んだのは観月だ。倉庫に眠ってた不要暗幕を引っ張り出してきて、この部屋に取り付けたのもアイツだったっけか。据え付けの本棚に並べられたカルチャー雑誌と作りかけの針金オブジェ。観月の私室といっても過言ではない室内は、意外にマメで奇麗好きな性格が幸いしてなかなか掃除が行き届いていた。
奥の小部屋でカウチに寝そべり獲物が自ら飛び込んでくるのを待つ。やがて棚の置時計が秒針を三周させたところで。
「ハチスカ?」
罠にかかった野ウサギの声が聞こえてきた。



「好きだ」
うつ伏せたまま荒い息を整えている耳元に舐るように囁いてみる。愛してるとか好きだとか。数え切れないほどこの耳に囁いてきた。だが返ってくるのはいつも決まって同じ台詞。
「…んな言葉いらねーよ、体だけくれりゃそれでイイ」
それ以上の価値なんかどこにもないから。瞳が、仕草が。それを裏付けるかのように倉貫を見つめ、そして腕を絡めてくる。
茶色い瞳のプラスチックのような輝き。オートマティックに開く唇が倉貫のソレに熱く重なる。ねだるようなキスに応えながら、細い髪に指を絡めて甘い香りの舌を味わう。柔らかい桃の感触。
「も…っかい、したい」
「いーのかよ。今頃、委員会が探してるぞ」
「いいよ、そんなの……ね、徹」
腕の中にいる時だけ、この時にだけ呼ばれる名前。そして呼ぶ名前。
「サクラ」
舌っ足らずな要求に応えるように名前を呼んでやると、途端にたまらなくなったように南の睫毛が小刻みに震えた。
「んっ…」
震えた指先が首筋にキツく縋りつく。さきほどの熱も冷めやらないまま、新たな熱がそこかしこで生まれる。それを擦り合わせるかのように狭いカウチの上、南の体が淫らに身悶える。
「櫻、イイコだ。サクラ…」
続けて何度も呼んでやると、それだけで果てそうなほどに陶酔した表情が美貌を侵食する。こうなるともう理性の欠片もない。熱を帯びた体が何よりも南自身を苛むのだろう。ホロホロと零れ落ちた涙が倉貫の胸に立て続けに散った。
「んっ、ぁあっ…ゥン…んっ」
律動に揺れる体。大きな瞳が瞬きを繰り返すたびに大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。滴るほどに濡れた声。
「櫻…サクラ」
こちらの声などもう聞こえてやしないだろう。苦しげに眉を寄せながらも下からの突き上げに細い腰を揺らし、夢中で白い喉を喘がせる。
相性で云えばこれほど合う相手とは出会ったことがなかった。オンナとやるより、他の誰とやるより感じる。そんなこと知りたいと望んだわけではない。あの日、あの時、あの瞬間、二人出会わなければよかったのだ。そうすればこんなことにはならなかっただろう。
この上ない不幸な出会い。自分にとっても、南にとっても。
「あ…、んっ、ンん……やッ」
いまだけ。この人形のように整った顔を快楽で歪ませられるのも、泣いてイヤがるのを無理やり従わせるのも、じゃらして馴らして猫のように甘やかすのも、いまこの瞬間だけ。
ここを出ればいつも通り。犬猿の仲だ。
「サクラ」
いくら云っても受け入れられない、意味のない台詞。そう頭では解っていても。
「アイシテル」
「あ、アァ…っ!」
呟きにも満たない台詞と同時、断続的な痙攣と耐えがたい締め付けが倉貫を襲った。


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