アンチテーゼ #2



God only knows where we go.
僕らがどこへ行くのか、それは神のみぞ知る



「うーわ、ありえねー」
コトンっと置いたトレーの向こう。細い眉が思い切り斜めに切り下がり、テーブルに項垂れた小作りの顔が非難がましく傍らの長身を見上げた。
「コレだめ、ゼッタイ無理、食べれません」
長蛇の列にわざわざ並び、ようやく取ってきた学食のトレーも南の一言で無用の長物と化す。
「じゃ、なんで薬膳が食いたいとか抜かしたんだよ」
「だってさっきは豆腐ハンバーグの気分だったんだもーん。仕方なくね? しかもゴハン盛り過ぎ。切敷のオーダー悪過ぎでしょ。俺に文句云われちゃうオバちゃんの身にもなってあげなよ。めちゃめちゃ可哀想じゃん。うーわ気の毒。理不尽にも程があるって感じ」
「どっちがだ?」
今日はいつになく口が回る。南の口がよく回る時は恐ろしく機嫌がイイかサイアクか、そのどちらかなのだ。前後のつながりを考えれば機嫌のいいワケがないのだが。
「替えたきゃ自分で行けよ」
「立つのヤダ、疲れたッ」
テーブルに突っ伏したままジタバタと足を動かす。
「じゃあ一生そうしてろ」
絵に描いたような駄々のこね方だ。スーパーとかにいそうだよな、こういうガキ。
南のおかげでこの五年間、いい父親になる自信だけは無駄に培われたと思う切敷である。教育は何よりも最初が肝心なのだ。でないとこういう子供を抱えてバカをみる羽目になるだろう。それだけはゴメンだと心から思う。
場の雰囲気がいつもの放置プレイに治まったところで、切敷は自分のトレーに箸をつけた。
前の席では清が黙々と揚げだし豆腐を崩している。
「……シン、茗荷係ね」
ややしてから起き上がった顔が弱々しい声で命令を下す。
有無を云わさず自分の皿の茗荷をすべて清の皿にぶちまけると、南は諦めたように豆腐ハンバーグを口に運びはじめた。
中一からいまの高三に至るまで一貫して「美少年」の称号を欲しいままにしてきた線の細さは、ここ数ヶ月でほんの少しずつ月の翳りのように削られてきていた。もうあと二キロも落ちたらその消耗振りは誰の目にも明らかになるだろう。
パッチリとした目にツンとした唇。少女漫画を地でいく造作。可愛らしく華のある顔立ちに負けないだけの華やかな雰囲気を纏った南はいつのまにやら「王子」の愛称で周囲に親しまれるようになっていた。誰が云い出したのかは知らないが、云い得て妙な命名である。王子、と呼ばれてフツウに「はいはい?」と返事してる様はすでに日常風景だ。
自他共に認める王子サマ体質。ヒトの視線と興味とを惹き付けて已まない愛らしい容姿と可愛らしい言動。そのどちらもが温室育ちの伸びやかさと純粋さをバランスよく含んでいてそれは一種、品格の良さを一挙手一投足に滲ませる結果になっていた。加えて主席を務めるほどの頭脳は、時に人を驚嘆させる言動に出ては逐一周囲の話題を攫う。要するに恐ろしく顔のいい、そして手に負えない始末の悪いテンネン。一言で云えばただのクソガキだな。 
「ゴハンこんなに食い切れません。余ったらゼンブ切敷サン、責任持つこと」
「はいはい」
「ハイは一回」
「はいはい」
「…………」
飛んできた箸を片手で受け止めながら味噌汁を啜る。それを差し出して視線で窘めると、南が急に叱られた子犬のように深く首を垂れた。不機嫌はそのままに、テンションだけがハイとロウを行ったり来たりする。
倉貫が絡んだ後はこうなる確率が極めて高かった。「犬猿の仲」としての周囲の認知度も高いが、実際のところどうなのかは切敷も正確には把握していない。
「うー、エンドウマメ苦手なのに…。あ、シンっ、お茶持ってくんなら俺のも頼む。解ってるとは思うけど、ほうじ茶は完璧NGだから。玄米茶だよ、玄米茶。そのほか全面禁止キャンペーン実施中。オンリー玄米茶。ドゥユアンダスタン?」
「気が向いたらな」
「あーっ、シンのばかっ。もう口利いてやんないぞ!」
背後でキャンキャンと吠え立てる子犬にはまるで構わず清の痩身が遠ざかっていく。
「むしろその方が有り難いんじゃないのか?」
切敷が冷静な突っ込みを入れると南がほんの一瞬、泣きそうな表情を浮かべた。
「ナミ」
「…うるさいな、放っとけよ」
表出は一瞬。だが、網膜に焼き付いて離れない映像が何度も脳裏にリピートされる。いまにも泣き出しそうな、悔しくて堪らない子供のような表情。きつく噛み締められた唇。テンションのアップダウンと同じく、倉貫に絡まれた後には必ずそういう顔を浮かべるのが必定だった。今日も先週と変わらない、同じ表情。気をつけていなければ見落としてしまうようなほんの一瞬の変化ではあるのだが。一年半前から変わらないシグナル。
「切敷には、関係ないだろ」
シンが持ってきた玄米茶をヒトクチ含むと、南はそれきり口を噤んだまま最後まで伏せた睫毛を上げようとはしなかった。



風の噂でカスガ拉致作戦が敢行されたらしいことを聞き及びながら、南は第四会議室の長テーブルにだらしなくその身を横たえていた。すぐ横では切敷が見事なまでのブラインドタッチでキーボードを打っている。本来なら南が纏めるべき文書を手早く簡潔に仕上げていく親友の手際を眺めながら、南はその向こうに見える四角い空に視線を転じた。窓枠に切り取られた真っ青な空。
学園祭当日もこれぐらい晴れるだろうか。考えてみれば行事ごとなんていままでぜんぜん興味なかったから、こんなふうに関わるのも今回が初めて。こんなたくさんの苦労の上に成り立ってるものだなんて知らなかった。そんなコト云おうもんなら「オマエが何をしてるって云うんだ?」という極めて正当な突込みが横から入っただろうが、南は何も云わずただボンヤリと空を眺めていた。
硬いテーブルの上に散った柔らかそうな髪。大きなガラス玉のような瞳に青空を映し取りながらツンとした唇を尖らせる。
「切敷、ソプラノピーチ取って」
手渡されたアルミ缶のキャップを開けながら、静かに身を起こす。朝っぱらから倉貫に絡まれて傾いてた機嫌を、さっきダメ押しとばかりほぼ垂直ぐらいまで傾斜させられた。いまはむしろ飽和状態。でも口を開けば際限なく悪口雑言が零れ出てきそうで南は食堂を出て以来、一度もまともなクチを利いてなかった。切敷が云うことにもさっきから「へーえ」と「だから?」しか返していない。それを気にした風もなく、切敷はいつもどおりの態度を崩さなかった。南自身がそれを望んでいることを誰よりも正確に理解している親友。
「あとで食堂で牛乳でも買え」
長テーブルにコトンと五百円玉が置かれる。
「なんで?」
「ココ数日、栄養が偏ってる」
「へーえ」
オマエいつから保護者になったの? 最近そう思うことが少なくない。それだけ自分の影が細くなったんだろう。周囲に心配かけてるようじゃダメだ。ダイエットしてる、で納得してくれる範囲ってどこまでなんだろう?
「そんなこと指示される覚えナッシーング」
眼鏡の奥の双眸がたぶん少しだけいま吊り上がったハズ。でも元々釣り上がり気味だから、その辺の変化は普通のヒトにはぜんぜん解らないだろう。そういえばココ最近、切敷の笑顔を見てないなーと思った。笑うと両頬にエクボができて可愛いのに。
「第一問。オマエが倒れてイチバン迷惑を被るのはどこの誰でしょう?」
「キリシキ?」
「即答のくせに駄々こねてんじゃねーよ」
「だって、オマエごときに俺が気遣う理由が、皆・無」
「じゃあ第二問。オマエに栄養を摂らせようと最初に云い出したのはどこの誰でしょう?」
「キリシキ?」
「不正解。六組のハナエちゃんでした」
「…へーえ」
ハナエ女史には今月いっぱい逆らえない理由がある。貸し出し禁止指定の本を書庫からナイショで貸してくれた恩は大きい。おかげでレポートの出来はここ数ヶ月でイチバンの仕上がりとなった。評価はもちろん特A。輝ける内申書がいまから目に浮かぶようだ。ああ、燦然と輝くマイ評価。職員室でも今頃、話題沸騰なはず。そんなのべつにどうでもいーんだけど。
「心配してたぞ。最近、オマエが痩せてきてるって」
「痩せてないもん」
「嘘つけ。三キロ落としたくせに」
つーか、なぜ具体的な数字を知ってる? もはや保護者じゃないだろソレ。ストーカーめ。キショっ。
「あ…っ」
けれど反論しようと開いた口から零れたのは甘い嬌声。今度は左胸が痺れてた。そこから走る快感の予兆。僅かな前兆。
先週はどうにか逃げ切ることができた。だから今週も捕まらない。絶対に捕まってなんかやるものか。
「お、あのバカ見つかったって」
昼過ぎに送信しておいたメールの返信。サブジェクトには「ターゲット発見」とあった。さては拉致作戦は成功はガセ? チラリと時計を見やる。とりあえずアレとアレとアレをアイツに片付けさせないことにはハナシが始まらない。
「俺ちょっと捕獲してくるワ」
「あーいってらっしゃい」
降り立った床の硬い感触を上履きの薄い底で踏みつけながら、南は足早に第四会議室を出た。



「蓮科?」
メール返信からまだ間もない。逃がしてなるものかと、南は慎重に退路を塞いだまま前に進んだ。
旧棟の半地下になった物置。いまでは滅多に近寄るような輩もいないところだ。まさかこんなところまで遠出してるとはね。正直予想外。
「いんなら出てこいよ」
云いたいことは山ほどあるのだ。こちとら二日も家に帰ってないってのに、リベロのおまえが先に音を上げてんじゃねーよ。と云っても南自身は研究室のソファーでしっかり十時間睡眠を取っているのだが、この際それは棚上げだ。
「ハチスカ?」
けして狭くはない物置内をじりじりと進みながら、南は前方に人の気配を感じた。なんだそんな所に隠れてやがるのか。往生際の悪いヤツめ。だが、呼びかけた名前を遮るように。
「よう」
棚の向こうから現れた人物に、南は一気に全身を硬直させた。鼓動がこれ以上ないぐらいに速まる。剣呑な光を目元に宿らせて南は声を低めた。
「…おまえ謀ったな」
「そういう察しだけはイイよな、相変わらず」
見下ろす視線で不遜な笑みを投げかけながら、倉貫がスイと片手を差し伸べる。
「イイコだから、こっちにおいで」
「ふざけんなよ!」
搾り出すような南の怒声が室内に響いた。だが倉貫に怯む様子はない。むしろ楽しそうに唇を歪ませている。
浮かべた笑みに違わない態度。昔からキングなどと揶揄されていたその態度は高三になった今年、もはや無敵の代名詞になりつつあった。世界中の何もかもを自分の支配下に置いたかのような尊大さ。板についた傲慢さ。堂に入った不遜な言動。ダイッキライだ、こんなヤツ! 憤慨の所為で、南の白い頬が目に見えて紅潮していった。
犬猿の仲。それが学校中の一般常識。その常識どおり、倉貫がシロだと云えば南はそれをクロだと疑い、南がシロだと云えば倉貫はそれをクロだと嘲笑う。もう何年もそんな状態が続いている。寄ると触ると衝突してばかり。いつしかそれが正当なレッテルになった。
「なんだかんだと先週は逃げ回りやがって」
「ウルサイ!」
「今日は逃がさねーぞ」
口ではそう云いつつも、だが倉貫にその場を動く気配はなかった。南の後ろには開け放たれたドア。反転してダッシュすれば容易にこの場を逃げ出すことができる。けれども。
「こいよ、櫻」
薄い唇から紡がれた名前。それを聞いた途端、南はその場を動けなくなった。
泣きたくなる。なんでオマエが…。オマエなんかが…。
「そう、イイコだな」
静かに部屋の扉を閉ざすと、南は自らの意志で倉貫の前まで歩を進めた。見上げると存外に優しい視線が自分を見下ろしている。でもそんなのマヤカシだって知ってるから。全部ウソだって。作り事だって。
だってオマエ、云ったじゃないか。キライだからこうするんだって。気に入らないから踏みつけるんだって。
「よくできました」
小バカにしたような台詞とともに力強い腕が南の肩にかかる。落ちてきた唇を受け入れながら南はシャツのボタンを外した。露わになった鎖骨に倉貫が熱い舌を這わせる。次第に甘みを帯びていく吐息。
「やんならさっさと終わらせようぜ…」
「そうもいかねーよ。二週間分、ヤんなきゃだろ?」
耳元で囁かれて、ただそれだけのコトなのに腰が抜けそうになる。こんな風になるのは、自分をこんな風にさせるのは。世界中でただ一人コイツだけなのだ。理由は自分でも解らない。いや、解りたくもない。だってそんなハズない。どうして自分を強姦したヤツを好きになれる? そんなこと有り得ない。絶対に起き得ない。じゃなきゃ自分が惨め過ぎるじゃないか…。
水曜の孕んでいる憂鬱の種。
その発芽を防ぐべく、いままでどれだけの苦労を強いられてきたことか。そしてそのたびにどれだけの辛酸を舐めさせられたことか。どんなに逃げても、どんなに抗ってみても、気付くと捕えられてる腕の中。これ以上、どれだけの快楽を刷り込めば気が済むの? どれだけの屈辱を味わえば許される? どれだけココロを砕かれれば解放されるの?
コイツさえいなければいいのに。何度そう思ったか知れない。そして今日も例外なくそう思ってた。コイツさえこの世からいなくなってしまえばいいのにって。
「ミナミ」
呼ばれたって顔なんか上げない。視界になんて入れてやるもんか。
今日がもし世界の終わりだというのならば。いまこの瞬間が終幕だというのなら、迷わず心からブラボーと叫んでやるのに。サイアクな人生ともこれでオサラバ。でも世界なんて終わらない、そしてアイツも死にやしない。
「サクラ」
二度目の呼びかけで少しだけ視線をずらす。不敵に歪んだ唇が紡ぐ名前。心臓辺りから甘い痺れが指先にまで走る。
「こいよ、サクラ」
抗えない絶対引力。気付くとアイツの腕の中でいまにも込み上げそうな嗚咽にひたすら耐えてる自分がいて。これがいつもの水曜日。
「ン、も…早く…っ」
「そんな焦んなよ、時間はまだたっぷりあるんだ」
立ったまま片足を担がれて、不安定な体勢のまま倉貫を呑み込まされる。
「……ッ」
南の睫毛から滴った涙が、倉貫の白いシャツに吸い込まれていった。


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