50

in everyday scenery



#2 Tomoaki natsume


 記憶の底にずっと放置してたのにふと思い出した瞬間、それがどうしても手に取りたくなる。そーいうコトってたまにない? 俺にとってはソレがまさに今日で。そういやあの緑色のライターどうしたっけ? 考えるコト十五秒、ようやく海馬が弾き出した答えを手に、俺は渋谷の雑踏の中にいた。
 数ヶ月前まではよく通ってた道程。にしても夏休みだからかヒトだらけっスね。何もこんな暑い日にまで群れて渋谷を歩くこたないと思うけど。前を行く女の子集団が発する香水の匂いに圧倒されつつ、それを早足に追い越して裏道に入る。遅刻しそうな時、よくこの路地ダッシュしてたっけなぁ。三十路オトコの店長もスタッフも、みんな気さくで気に入ってたバイト先だったんだけどね。そういえばよくこの路地で残飯ばら撒いてたあのネコばーさんは元気だろうか? 一ダースはいるだろうという野良ネコをよく手懐けて可愛がっていた。あのばーさんに挨拶出来ずじまいでやめてしまったのも、実はライターに付随して思い出した幾つかの気がかりの一つだったんだけど。
「お、ノラコ」
 スルリと足元をすり抜けて行った一匹に声をかけてみるも見事に空振りで思わず苦笑する。誰にでも懐くプライドなんて持ち合わせちゃいないのよ、とそのシマシマの背中が語っている。お見それ致しました。何はともあれ、ノラコがこうしていまもここらをパトロールして回ってるということは、あのネコばーさんも健在で元気にやっているんだろう。闊達でよく喋るヒトだったなぁ、とか思い出に浸りつつ路地を抜け出したすぐ目の前が懐かしのサンドイッチ屋。そう云うといつも律儀に「うちはカフェだ!」と店長に突っ込まれたけど、売りがサンドイッチならそれで充分じゃねーかと俺は未だに思ってたりするワケで。やれやれ、あのヒトも健在らしいのがキレイに磨かれた窓ガラスの向こう側に見て取れた。それからその隣に並んでいる、六フィートを超える長身の同級生。よっしゃ今日はアイツに奢らしたろ!
「ちーす」
 いっそ迷惑なくらい元気よく、入り口のガラス扉を引き開けたところで。
「恐れ入ります。お引取り下さい」
 俺はニッコリ笑顔で沢木に入店拒否されてしまった。うわあムカツク。店長の教育がしっかり入ってやがる。そりゃ俺はこの店のカワイイ異端児だったけどさー、この使えるバイト紹介したの誰だと思ってんのよ? 余裕でシカトこいてる店長にポケットから取り出したブツをチラつかせてみる。ハイ、目の色変わりましたー。相変わらずアナタまだ好きなのね…。奥の手で持ってきてたチケットが案の定役に立ってるこの現状が懐かしくて仕方ない。ようやく退いてくれた壁の向こう側、カウンターによろよろとわざとらしく手をついて嘆いてみせる。
「ヒドイわ、恩を仇で返すなんて…」
「オマエの三文芝居なんざ見たかねーんだよ」
 ん、と差し出された店長の掌に舌打ち交じり、さっきくすねてきたばかりのチケットを乗せてやる。どっかの劇団の看板女優ならいくら見てても見飽きねーってか? 確かにあの女、口八丁手八丁で演技だけはやたらウマイけどな。この俺ですらコロッと騙されることあっから。
「三十一日、十九時開演…って今晩じゃねーかコラ」
「あ、そーなんだ?」
 ヨカッタじゃん、期限切れてなくて。つーかいまさっきチョロまかしたばかりだから、そんな細かいとこまで見ちゃいねーっつの。勝手知ったるナントヤラでカウンターを抜けて奥の事務室にズカズカと踏み込む。さらにかつて使ってたロッカーを我が物顔で引き開けてる俺に「…オイ」さすがに見かねたのか、背後から沢木の制止がかけられた。
「ソレ俺のロッカーなんだけど」
「あ、オマエの?」
 なら遠慮はいらねーよな。近くに広げてあったパイプイスの上に沢木のカバンをぺいっと放り投げてロッカーの中身をスッカラカンにする。ほら、十四時台といえばティータイムのピークなんだから、店員さんはサッサと店内に戻る戻る。シッシと片手で沢木を追い払ったところで俺は改めて空っぽになったロッカーと向き合った。確かこの奥の溝ん所に…予想通りの場所にあった手応えを引っ張り出してみて一瞬、息を呑む。ワーオ、何のマジック? フリマで四十四円で買ったライターがカルティエのトリニティブラックになってるって。
「黒木から餞別だってさ」
「え、センパイいつ来たの?」
「先週かな。オマエのケー番忘れたとかって伝言預かってるぜ」
「うへー」
 センパイってばそーいう薄情なトコは変わんないね。知らぬ間に高飛びしてた黒木の伝言を店長から受け取りながら俺は手の中に馴染まないカルティエを転がした。物々交換だ、ってただ一言書かれたレシートの裏。一緒に働いたのはほんの一ヶ月くらいだったけど、思い出はいまでも鮮やか過ぎて。ふいに今日みたく思い出しては俺をセンチメンタルにしてくれる。やっぱ俺、センパイのこと嫌いじゃなかったよ? むしろ好きだったと思う。でもそう素直には云えなかった俺の気持ちをアンタいつでも的確に汲み取ってくれてたよな。告られたまんま俺からは何も返してない現状、やっぱこのまんまじゃいられないでしょう。
「店長、センパイの連絡先知ってる?」
「ああ、オマエに聞かれたら教えとけって云われてる」
 やっぱねぇ。アンタいつでも俺の先回りだね。またもレシートの裏に書かれたメアドを受け取ると俺はそれをクシャリとポケットの中にしまった。さーてと。
「ところで、やっぱ花とか持ってくべきだと思う?」
「…………」
 ま、大方そんなこったろうと思っちゃいましたが。件の看板女優に比べりゃ俺や黒木センパイなんて、アンタの頭ん中じゃそよ風で吹き飛んじまうぐらいの軽い存在なんでしょ? だいたいあんな弱小劇団の公演なんか見たところで何の足しにもなりゃしないって。身内の俺が云うんだからそれはもう絶対。いやはや恋に目の眩んだオトコってなーみっともないね。先ほど渡したばかりのチケットを大事そうに眺めては、見るに耐えないほど相好を崩してる店長に俺は親切心から釘を刺してやった。
「姉ちゃん、彼氏いますからね?」
「…いいんだ、それで彼女が幸せなのであれば」
 あー、世界入っちゃったよ。このヒト顔も見てくれもいいんだけど、ヒゲ面でわりにダンディなんだけど、この性格がね。一度惚れると後が長いというのもひどく厄介な性分で。姉ちゃんゴメーン。店に入るのにアンタだしに使っちゃった。ま、たまにはヒゲ面とデートってのも悪くないと思うよ? そんなメール打とうもんならすぐさまスカッドミサイルとかかっ飛ばしてきそうだから云わないけど。つーかまじでボコられるから店長が特攻するまではシカトで押し通す気満々だけど。まあ、悪い人間じゃないっていうのは昔ここでバイトしてた姉ちゃんが一番よく知っていることだろう。
「でもミソジだしな…」
「失礼な! 俺はまだ二十八だ!」
 大差ないじゃん、って云ったら本気で後頭部を一発殴られた。あ、俺またしばらく出入り禁止かも…。メシ奢らせようと思ってた沢木がもう上がりだというので一緒に店を出ることにする。そういや姉ちゃんからの電話を恐れて携帯の電源落としっぱだったっけ。身支度を待つ間、店長にもらったメアドをひとまず携帯に入れとくかと開いた画面、大写しになった女の子を見て「誰ソレ?」と沢木が目を丸くするのに俺は「ヒミツー」とだけ笑っておいた。早乙女んトコの末っ子チャンももう十歳なんだな、としみじみ思ったところで「ありゃ…」俺はようやくそれに気がついた。
「コレ、俺の携帯じゃねえ」


prev / next



back #