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in everyday scenery



#1 Kyohei Kasuga


 まるで心を見透かしたかのようなタイミング。
「あなたがいま一番欲しい物は何ですか?」
 青信号を待つ人波に紛れながらLEDビジョンに映し出された文字が次第に背景に消えていくのを見送る。水に沈む木の葉のように、ゆっくり消えていった真っさらな白抜き文字。
「カスガ?」
 ほんの数瞬、辺りがサイレント設定になっていたかのように。急に戻ってきた現実の音が間近で鼓膜を揺るがした。少し心配そうな設楽の声。ザワザワと膨張する周囲の喧騒。タクシーのクラクションが立て続けに三回鳴って、前方にいた女子高生の集団が急に弾かれたように甲高い笑い声をあげ始めた。さっきまで真っ黒だった画面にいまは最近シングルを発売したばかりの歌手の顔が大写しになってて。
「…あー」
 アレか、最近よくテレビでも流されてるCMか。「あなたがいま…」と冒頭で視聴者の興味を引いた挙句、「短い人生を有意義に過ごすために…」と大手カード会社のロゴが最後に現れるというあのCM。いままでにも何度か目にした事のある、そして気にも留めてなかったそのCMに見入ってしまったのは。それがあまりにもいまの心情とマッチしていたからだ。いま一番欲しい物。それが手に入らないから俺は八月の終わり、こんな所にいるのかもしれない。
「平気か?」
「ん…、ちょっとボーっとしちまった」
 設楽の心配げな声にとりあえず笑みを返して「行こうぜ」と先を促す。ちょうど信号が赤から青に変わるところだった。動き始めた人波に揺られながら向こう岸へと二人流される背中を緩く押すように、視界の隅を流れていく逃げ水。サンバイザーじゃ視界の適度な明度は保てても、日射病の回避にはまるで役立ってくれない。ついさっき駅から出てきたばかりだというのに、もう熱気に当てられているんだろうか? 最高気温が三十八度を超えるかもしれない、と告げていたのは昨夜の天気予報だ。下手をすれば四十度とか軽く超えてんのと違う、この暑さ。ココは熱帯雨林か? と気象庁に問いかけたい気分だ。
「どっかで涼むか?」
「だな」
 約束の時間にはまだ早い。駅前で設楽に会えたのは幸運だったかもしれない。一人でこんな人ごみの中にいてこんな気持ちをいつまでも抱えてたら不健康なことこの上ない。
「設楽の予定は?」
「もう済んだ。春日は?」
「三時半に沢木と待ち合わせしてんだよ」
「へーえ」
 設楽の眉が片側だけ器用に持ち上がる。
「それは俺が顔突っ込んでもイイ約束?」
「アホ。俺が探してたCD、アイツが穴場の店で見つけたとか云ってたからさ」
「あー、アイツこの辺でバイトしてたっけ」
「そ。んで、バイト上がりに案内してもらう予定」
「なるほどね」
 涼みついでロゴスで本が見たいという設楽について冷房の効いたフロア内に足を踏み入れる。洋雑誌の表紙を眺めながら歩いているとデニムのポケットの中、携帯が細かく震え出した。慌てて取り出した液晶に並んだ名前。…オマエなんか呼んでねーっつうの。出ようかどうしようか迷った挙句、早乙女からのコールを受けることにする。
「ナニ?」
 フロアの隅で壁にもたれながら早乙女の声に耳を傾ける。十六の夏は一度きりなのよ、などと耳元ではしゃがれてもソレが早乙女の話とどう関連してくるのかまるで解らない。幸いなことに八月が終わっても俺らの通う学校の休みはまだ終わらない。一週間に満たない明日からの余暇を、友人たちとの交友に費やすのもまあ悪くないか。早乙女の提案をおざなりな返事で承諾すると俺はノロノロと通話を終わらせた。ロゴスに戻ると洋書をパラパラとめくってた設楽が「いまの早乙女?」と相変わらずの勘の良さを発揮してくれる。
「そ。咲坂邸で一人ぼっちだから遊び来ないかって」
「ソレって断る余地、残されてんの?」
「あ、悪りィ…。設楽の名前もう出しちった」
「ならもう換算されてるな」
 アハハっと楽しげに設楽が笑う。ということは自動的に沢木の名前も早乙女の頭にはすでにリストアップされているかもしれない。ウッカリ渋谷で待ち合わせてるコトを洩らしてしまったおかげで、ツタヤに寄ってこいなんていう余計な指令までついてしまったコトを考えると、自分の底の浅さをそろそろ悔い改めるべきなのかもしれない…。思わず眉間にシワを寄せてると「なあ」設楽が新しい本を書架から取り出しながら少し笑みを含んだ視線をこちらへと流してきた。
「春日は行ったコトあんの、咲坂邸?」
「や、ない」
「俺もないけど、興味はあるよな?」
 そう云ってニヤリと口元を笑わせた設楽の心遣いに感謝しつつ「確かにあるよな」話を合わせて笑ってみると、確かにソレはソレで面白いかもしれないと思えてくるから本当にアリガタイ。沢木もその線で誘えばなびく可能性も高いだろうし。人数は多ければ多いほどイイわ! とはしゃいでた早乙女の声が耳元に甦る。一人五人までなら友達呼んでよくってよ! ってオイオイ何人掻き集める気なんだよアイツ…。
 またもやポケットで震えた携帯に慌てて画面を開くと「メール着信あり」の表示。五通送ってようやく一通じゃ割りに合わねーと思いつつ受信メールを開くと、そこにはさっき見たばかりの名前が表示されていた。
 サブジェクト「追伸!」、本文「十三日の仏滅三隣亡、ゼッタイ借りてきてね!」って、そのタイトル初耳過ぎるんですけど…。遣り切れない思いを抱えたまま今日何度目かのメールセンターへの問い合わせを親指で操作する。けれど返ってきた答えはにべもなくて。メール0件。
「新しいメッセージはありません、か…」
 口に出してみるといよいよ気が滅入ってくるのをどうにか紛らわして、匡平はテキトウに手に取った雑誌を開くとぱらぱらとカラフルなグラビアページを捲った。昨夜から電話が繋がらないのは何故だろうとか、メールの返事がないのには意味があるんだろうかとか、放っとくと答えのない堂々巡りをまた一から脳が始めようとしてしまう。
 前も一度こんなコトがあって、あの時は確か蓮科の携帯の充電が切れていたんだった。付き合い始めてすぐのこと。いつまで経っても報われない留守電の吹き込みやメールの送信に、イイカゲン疲弊し切ってた頃に家の電話が鳴って。「悪りィ、充電器なくした…」ってアイツの声を聞いた途端、思わず安堵で座り込みそうになったことは蓮科にまだ云わないでいる。その声を聞くまでにどれだけの不安に侵食されてたかとか、打ち消そうと思っても消えないイメージに自分がどれだけ怯えていたかとか、悔しいから絶対云うまいと思ってたけど。
 あの時と同じ不安がいま胸の内に渦巻いてて、覚めない悪夢みたいに何度もリピート再生されるイメージがさらにその不安をジワジワと広げていく。アイツがOKをくれた時点からずっと覚悟してることが一つだけあって。元々オンナには不自由してないアイツの気紛れから始まった関係だから、いつ断ち切られてもおかしくないって覚悟だけは最初からしてるんだよ。でもそれが今日でなければイイなって、ずっと思ってる。
 思ってるけど。思ってたけど。
 もし逆の境遇に陥ったとしてアイツもこんな不安に塗れるコトがあるんだろうか? 即座に否、と思ってしまう自分の思考が恨めしい。
「やってらんねぇ…」
 溜め息と呟きとをグラビアに挟み込むと、俺は俯き加減のままそれを元あった棚に戻した。


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