HATE #3



 オレは虫も大嫌いだ。


「フンギャーッ」
 朝っぱらからはしたない悲鳴をあげて、オレはベッドから転がり落ちてしまった。
 目を開けたら鼻の上に、オレの大っ嫌いなモンシロチョウが止まっていたのだ。オレにとってそれは心臓が止まらなかったのが不思議なくらいの大衝撃だった。
 悪夢か、これは?
「な、な、なんでこんなところに…」
「よう、いい朝だな」
 見るとモンシロチョウを片手に止めた高倉が、悠然と出窓に足を組んでいた。
 ちょっと待てよ?
 じゃあこの、フワフワと視界を舞っている白いモノは全部ホンモノの…。
「……ッッ!」
 声にならない悲鳴をあげつつ闇雲にシーツを振り回していると、風に乗った一羽がオレの方をめがけてスルリと飛んできた。硬直したオレの頭で羽を休める。
「…ってくれ…よ」
「え、何? 聞こえないな」
「…ってくれよ、頼むから取ってくれってば!」
 半泣き状態のオレを見て満足げに微笑むと、高倉はようやく重い腰を上げた。高倉の手がオレの髪に伸びる。
 後生だからさっさと取ってくれッ。
「ほらよ」
 つまんだ白い蝶々を目前に差し出されて、オレはいよいよ気が遠くなった。
「何事だ?」
 勢いよく開いた扉から森高と隣室の堤、そのほか何人もの野次馬がわらわらと乱入してくる。
「なんだ、こりゃ」
「朝っぱらから蝶の生態研究か?」
「まあ、そんなところかな」
 相変わらずのポーカーフェイスで問い詰める森高に、高倉がシニカルスマイルで応対している。オレはといえば堤に手を貸してもらってようやく体を起こしたところだった。
 嘘だっ! オレに嫌がらせするためにわざわざ捕まえてきたに決まってるだろ、そうに違いない、この悪魔め!
 声高に訴えたいところだったのだが、情けなくもオレは衝撃のあまり回らなくなった舌で「モンシロチョウが…」と一言呟くと、今度こそ本当に気を失ってしまったのだった。


 きっちりメジャーで測った位置に、オレは黒いビニールテープを引っ張った。
 学校から帰るなりオレが始めた作業は、この部屋の居住部分を真ん中で正確に二分することだった。バス・トイレ・クローゼットはともかく、今日みたいなことが二度と起きないように国境を作ることにしたのだ。
 互いに領域侵犯しないように、絶対の禁足地を定める。
「よしッと」
 美術室からくすねてきたビニールテープでボーダーラインを引き終えたところで、タイミングよくアイツが帰ってきた。
「また、何をおっ始めたんだ?」
「いいからよく聞けよ。これは国境線だ。この世にどんなことがあろうとも、おまえがこの線よりこっち側に入ってくることを禁ずる」
 そう云いながら指で自分の領域を指差すと、高倉が呆れたように肩をすくめた。
「くだんねー」
「うるせッ、今日みたいなことがないようにだよ。このラインは天井まで伸びてる。空中の領域侵犯も許さねーからな。今朝みたいのは卑怯だぞ!」
「あっそ。でもなんで俺がそんなの守んなきゃなんねーわけ?」
 否定しないところをみると、やっぱりコイツわざとだったんだな…。
 おかげでオレは2時間目まで寮の医務室で延々うなされてたんだよッ。
「しょうがねーだろ。部屋替えはもう利かねーし、互いに干渉し合わないためには必要不可欠なルールだろうが」
「ルールねェ」
「オレも守るから、テメーも守れよ」
 あからさまに不機嫌な表情を浮かべると、高倉は俯き加減になりながら声を低めた。
「じゃあさ、オマエが領域侵犯した場合はどうするわけ?」
「その時は煮るなり焼くなり好きにしろよ。ま、ンなこと絶対に有り得ねーけどな!」
 オレが云いきるとやがて疲れたように溜め息をついて、高倉は両手を挙げてみせた。
「ったく、バカらしーけどな。付き合ってやるよ」
「よしッ」
 これで最低限の生活は保証された。
 今朝は不意打ちをくらってしまったが、この恨みもいつか倍々返しにしてやる。必ず弱みを握っていつか戦々恐々とさせてやるからな!


 それから一週間ほどの時が流れたが、その間これといった問題も起きず、多少の口ゲンカは日々の義務と考えればオレたちは存外うまくいっていた。
 もちろん仲がよくなったわけではない。
 始業から一週間後に行われる最初の試験に備えて、互いにもくもくと勉強に励んでいたというのが真相である。
 今回はまだアイツを勉強不振に陥らせるような弱味をつかんでいなかったのと、一応は高校入って初めての試験だ。実力を出したアイツと勝負をしてみたかったのでまずは穏便に済ませてやろうと思っていたのだが…。
 今日張り出された結果ではなんとアイツの方が二番も上だった。あんなヤツ、情け心などかけずにいくらでも卑怯手段を使ってやればよかった…ッ。
 これで3勝12敗26分けだ。
 こういう場合、会えば嫌味を云ってくるのは必定だったからなるべく顔を合わすまいと画策していたのだが、けっきょく部屋に帰ればイヤでも顔を合わせてしまうのが同室者である。きっちり二等分した出窓の右側部分に頬杖をついて外を眺めていると、廊下からアイツの声が近づいてきた。友達に別れを告げ部屋に入ってくる。怒涛の嫌味攻撃に対抗するべく、オレが背中で身構えているとアイツはあっさりベッドに直行したきりだった。試験前に作った白い間仕切りカーテンの隙間から覗くと、寝転がったままで雑誌を広げているアイツが見える。なんだなんだ、拍子抜けだな…。
 アイツの私服姿を見てオレはまだ自分が制服を着ていたことを思い出し、ハイネックの薄いセーターに着替えた。春先とは云え、夜は冷え込む。ましてや今日は雲行きも怪しく、夕方からは小雨も降りはじめていた。風も強い。木々の間を擦り抜ける風の音がひっきりなしに聞こえてくる。外は真っ暗だった。


 食事も済み、じき二十三時の点呼で消灯になる。その頃になると風の音はますます強くなっていた。
「なあ、風やけに強くないか?」
「ん? ああ、台風だと。まだ遠いのに勢力が強いらしいな」
「へーえ」
 森高が点呼に現れた頃にはさらに雨足も強くなり、窓に叩きつけられる雨はまるで外からホースで噴射しているかのような勢いになっていた。
「この分じゃ夜中に停電するかもな」
「まじ?」
「可能性はある。さっさと寝るのが賢明ってことだな」
 明日は日曜だ。森高に云われるまでもなく、オレは試験期間中の寝不足を一気に取り戻す気でいた。
 枕もとの電気だけつけて毛布に潜り込む。高倉がシャワーを使っている音が雨音の合間にかすかに聞こえていた。
 明日はとりあえず睡眠日だけど、今度の外出日には姉ちゃんにケーキバイキング奢ってもらおーっと。桐領でアンタが一桁台に食い込めるわけないでしょっ! て断言してたからな。ざまーみろ。
 ナポレオンにオペラにミルフィーユにチーズケーキ、モンブランにチョコトルテ、フルーツタルト、ブルーベリームース……ああ、あと何を食べようかな…。
 夢見心地で微睡みを楽しんでいると、いきなり部屋の中が真っ暗になった。
 熟睡一歩手前で急に覚醒させられて、わけも解らず暗闇に目を凝らす。
 耳を済ましても激しい雨風の音しか聞こえてこない。
 どれぐらいウトウトしていたのだろう。アイツは風呂から上がったのだろうか。
「停電だってよ」
 カーテンの向こうから高倉の声が聞こえた。ばさり、と何かが落ちる音がする。そういえば就寝前にコイツ、よく本とか読んでたっけな。
 それにしても、停電か…と心で思いながら、オレは何かとても重大なことを忘れているような気がして眉をひそめた。
 嵐に停電ときたら、何か付き物があったような気がするのだが。
「お、光ったな」
「……ッ!」


 途端に聞こえてきた雷鳴の音に、オレは顔面蒼白になった。

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