山崎統和の場合。 #3



 化学の時間に倒れたまま、白石は放課後になっても目を覚まさなかった。
 床で頭を打つ前に統和が抱きとめたおかげで外傷はなかったが、心の傷は見た目では解らない。
 担任が家に何度連絡を入れても誰も出ないというので「担任や保険医を安心させる」という大義名分を盾に、統和は眠る白石とともに担任の車に乗った。


「もう大丈夫だ。大丈夫だから…」
 白石がうなされるたびに統和は枕元でそう囁きながら、白い頬を流れる涙を拭った。統和のベッドに寝かされた白石は、午後7時を過ぎてもなお昏々と眠り続けている。
 やけに汗をかくので試しに熱をはかってみると38度近くまであがっていた。熱冷ましを飲ませようにも白石が目を覚ます気配はまるでない。持てる知識のうちで打てる手はすべて打ち、統和はしばらく様子を見守っていた。
 だが十二時前になってもう一度熱をはかってみると、今度は39度を越えていた。
 悩んでいる場合ではない。
 受話器を取ると短縮ダイヤルを押した。
 一コール、二コール…。
 五コール目になってようやく通話が繋がった。
「何の用だ」
 張りのあるバリトン。
 一年ぶりに聞く父親の声は、予想よりもはるかに柔らかく、暖かく聞こえた。


「恐らく精神的なものだろうな。朝には熱も下がるだろう」
 そう云う父親の声を聞いて、統和は急に体から力が抜けていくのを感じた。
 白石の表情もだいぶ和らいだように見える。
「友達か」
「…ああ」
「めずらしいな、おまえが家に人をあげるとは」
「…………」
 突然、夜中に呼びつけたにもかかわらず父親は車で往診にきてくれた。事務的な会話しか交わしていないが、それは特にわだかまりを感じさせるものではなかった。
「ありがとう」
 素直に礼を云うと、父親は「ああ」とだけ応えすぐに帰り支度をはじめた。
 その広い背中を見ながら統和は何か云いたくなったが、だがそれはけっきょく言葉にはならずまた胸のうちへと静かに沈んでいく…。
「青藍が寂しがっていたぞ。たまには帰ってこい」
 それをすくいあげるように父親の声が玄関に響いた。
「俺は…」
「なりたいものが見つかったら連絡しろよ。楽しみにしてる」
 俯けた頭に大きな掌の感触。
 そのまま振り向くこともなく、父親は玄関を出ていった。
 生まれて初めて父親の心に触れた気がして、統和は声を殺して泣いた。



 白石が目を覚ましたのは、翌日の正午過ぎになってからだった。
 学校には連絡済みだ。担任が思いのほか心配していたが、父親にきてもらったことを告げると安心したような嘆息が受話器から聞こえた。
 心配げな勇馬からのメールにも返事を出しておいた。
 体に優しいもの、とはいえ胃は元気そうだということでトマトスープのリゾットを作り食べさせると、ようやく落ちついたのか布団の中でニコリと笑ってみせた。
「山崎って料理うまいんだね」
「まぁ、苦にはなんねーからな」
 父親の言葉通り、熱も下がりだいぶ調子はよさそうだ。黒い瞳にツヤが戻っている。だがちょっと目を離した隙に、いきなり帰り支度をはじめた白石に統和は一瞬で頭に血が上った。
 足取りも覚束ないくせに、この病人が!
 案の定フラついた体が椅子につまずき、傾きかけるのを統和の体が受けとめる。
「どこ行く気だ?」
「ウチ、帰る」
「さっきも電話してみたけど家、誰も出なかったぞ」
「ああ、姉さんいま合宿行ってるから」
「一人の家に戻ってどうする」
「でもこれ以上、山崎に迷惑かけられな…」
 その言葉を最後まで聞き終わらないうちに、統和は白い頬を片手でつまみあげると「バカモンっ」とそれを一喝した。
「いひゃい…」
「病人はよけいなこと考えずに寝てろッ」
「でも…」
「級長命令だ!」
 白石の驚いたように見開かれてた目が、その一言で急に和らいだ。
「アリガト」
「別に…」
 間近でいきなり笑顔を見せられた途端、統和の心臓が騒がしくなりはじめた。
 いきなり素直になられるとそれはそれで対応に困る。ぶっきらぼうに白石をベッドまで追いたてると統和は食器を片手に部屋を出ようとした。
 その背中にどこか不安そうな白石の声がかかる。
「迷惑だったら云ってよ」
「思ってねーよ」
「ホントに?」
「くどい!」
 統和が食器を洗って部屋に戻ると、白石はまた微睡みはじめていた。
 それを邪魔しないよう、足音を忍ばせてサイドテーブルに水差しと薬をおくと統和はベッド際を離れようとした。その服をシーツから伸びた手が引きとめる。
「山崎…」
「なに」
「できればでいいんだけど…ここにいてもらえない?」
 また熱が上がりはじめてきたのか、頬を赤く染めた白石を見て統和はそのままベッドサイドに戻った。
「そばにいるからさっさと寝ろよ」
「うん…」
 その長い睫毛が伏せられるのを確認し、統和は机の上から読みかけの本を取った。
 白石が寝つくまで。
 そう思っていたのだが、気がつくと統和までが微睡んでいたようだ。
 ベッドサイドの椅子に腰掛けたままシーツに伏せるようにして眠っていた体を起こすと、横になっていた白石と目が合い統和は内心かなり慌てた。取り繕おうとする様子を見て楽しそうに白石が目を細める。
 すぐに下らない云い訳は諦めて、統和は白石の額に手をあてた。
「具合はどうだ?」
「かなりいいよ。看病させちゃってゴメンね」
 そう云って笑う表情がやけに果敢無げで、統和は胸の奥が絞めつけられるような気がした。
「謝るなよ。俺の注意不足も原因なんだし」
「担任から聞いた、オレのこと?」
「火事のことは…」
「うん。母さんね、火事で死んだんだ」
 淡々と語る白石の表情はいつもと変わらない。けれど。
 その手が小さく震えているのを、統和は見逃さなかった。
「六歳の時。目の前で母さんが燃えてくのをオレ見てたんだ。何もできなかった…」
「無理して話すなよ」
「ううん、違うんだ。山崎に、聞いてほしいんだ。だから」
「…………」
 胸の内を誰かに話すことで楽になることもある。
 自分にそれが務まるなら、と統和はまっすぐに黒い瞳を見据えた。
「火の手があがってすぐに、オレ箪笥の下敷きになってさ。動けないオレを見つけた母さんが走りよってきたんだ。そしたらいきなり天井の梁が母さんの上に落ちてきて…」
 途切れ途切れに続く独白に耳を傾けながら。
 統和は震える手に自分の掌を重ねた。
「母さんの方がずっと火に近い所にいたんだ…。煙の向こうからどんどん火が近づいてきて、でもオレを心配させないように母さんずっと『大丈夫だからね』って云い続けてた。『すぐに助けがくるから動かないのよ』って。煙と轟音がすごくてだんだん母さんの姿も見えなくなってきて、でも母さんの声だけは聞こえてた『大丈夫だから』って」
「…………」
 汗に濡れた額に触れると怖いぐらいに冷えていて、統和は思わずその体を抱きよせていた。こんなに細い体…。
「それからちょっとして消防隊の人が助けにきてくれたんだ。母さんもすぐそこにいるからって必死で云ったんだけど、みんな首を振るばかりで誰もいうこと聞いてくれなくて…有無を云わさず外に連れ出された」
「白石…」
「ホントは解ってたんだ。煙に混じってすごい匂いとかしてたから…でも認めたくなくて」
 そこで声を詰まらせた白石の華奢な体を、統和は思いきり抱き締めた。
「でも母さん最後まで『大丈夫だよ』って云い続けてた。すごく熱かっただろうし、痛かっただろうし、苦しかったはずなのに…」
 統和の服を白石の涙が濡らす。
 何も云えず、統和はただ細い体を抱き締めることしかできなかった。
「それからしばらくは火とか見るのダメで…いまはだいぶ克服したつもりなんだけど、昨日みたいに突発的に晒されるとダメ。ぶっ倒れて熱出しちゃうんだ。それでよく持て余されてた…」
「うなされるのもその所為か?」
「ウン。炎の中にオレと母さんがいて、助けようと頑張るんだけどいつもダメで…」
 夜中に何度も母親を呼ぶ、か細い声。
 耳奥から離れない。
 なあ、頼むからそんな辛そうな声で泣くな。声を殺すなよ。
 その涙を見るたび、統和は胸の奥が刻み取られていくような心地だった。昼間の白石からは想像もつかないような線の細さ。
 その華奢な体を腕に抱いて、統和は湧き起こってくる感情を止められなかった。
「なあ…。なにも白石の母さんだって、おまえを悪夢に苦しめたいわけじゃないはずだろ。そのためにおまえを助けたわけじゃない」
「…………」
「泣き顔じゃなくて笑顔を見せてやれよ。親なんていつだって子供の幸福を願ってるものなんだからさ」
 最後の台詞は自分に云ったものかもしれない。
 考えてみればいつでも、強制はされていなかったのだ。自分の中で勝手に想定してただけで。少なからず父親の願望もあったろうが最終判断を下していたのは常に自分だった。いま、初めてそれに気がついた。
「山崎の匂いスキ。すごく安心する…」
 統和の背中におずおずと白石の腕が回される。統和が腕に力を込めると、白石の手もしっかりと意志を持ち統和を抱き締めた。
 それはお互いサマだ。
 間近で日溜りの匂いがしている。柔らかい黒髪に指をうずめ後頭部を支える。
 やがて白石の両腕から力が抜けたのを確認すると、統和は腕の中の細身をベッドに横たえ直した。もう、あんな泣き顔は見たくない。
 寝顔をしばらく見守り、その眠りが安静なのを確かめると統和もその隣りに横たわった。どこか晴れ晴れとした気持ちがあった。


 同時に胸に残る感情の行く末を。
 統和は安堵とかすかな不安とを抱きながら案じた…。


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