山崎統和の場合。 #2



 自分の家、自分のテリトリーに他人がいる。
 ヘンな感じだ…。
 考えてみれば家に人をあげること自体が、統和には珍しいことだった。こっちに帰ってきてからはここで一人暮しをしているが、実家にいる時も克久や勇馬でさえ家に呼んだことはない。なぜ、コイツを家にあげようなどという気になったのだろうか。自分でもそれはよく解らない。
 だが不思議なことに、一緒にいてイヤな感じはぜんぜんしなかった。
 こちらの意識が変わったからか。むしろ心地いい気がしてくるくらいだった。同じ空気を吸っているという雰囲気自体が心地いい。しかし。
 自分はともかく、白石は自分のことをどう思っているのだろうか。
 あれだけ冷たい意固地な態度に晒され続けて、傷ついていないはずがない。自分がいままでしてきた数々の行いを思うと、統和は羞恥で居た堪れない気持ちになる。にも関わらず天真爛漫に接してくる白石の態度を見ていると、正直どう対応していいのか解らなかった。
 どうやら根っから明るい性格をしているらしい。
 きっと、挫折なんて経験したこともないのだろう。そう思うと、性懲りもなく腹立たしい気もしてくるが真っ直ぐな眼差しを見ていると、そう考えてしまう自分自身が汚いもののように思えた。
 ほんとにヘンな奴だよな…。

「寝るんならそっちの部屋だぜ。ゲストルームは急の来客には対応してなくてね」
 急に態度を改めるのもおかしい気がして、統和は必要最小限のことしか喋らなかった。先に寝るという白石を自室に追いやり、詰めていた息を一気に吐き出す。
 ヘンなのは自分のほうか…。
 たいして知りもしない白石を家にあげ、なおかつ自室に泊めるなんて。自分が信じられない気持ちだった。ゲストルームが空いていればもちろんそっちに泊めるのだが、いかんせんまだ荷物の整理がついていない。寝るだけなら居間のソファーでもよかったが、まだ寝る気にならない自分のそばで無防備に寝顔を晒されるのもあまりいい気がしない。
 このまま同じ部屋にいるとますます自分のスタンスをつかみかねる予感がして、統和はさっさと自室のソファーを白石にすすめた。
 たいして興味もない深夜映画を途中まで観て時間を潰し、統和は居間の明かりを消した。自室に戻ると、すぐに薄暗い室内に横たわる痩身が見えた。
 統和はガクリと肩を下ろした。
「オイ…」
 誰がベッドで寝ろと云ったんだよ。
 ベッドの左端で猫のように丸くなった白石が眠り込んでいる。
 ったく、無神経な奴。
 半ば呆れながら近づいていくと、白石の小さな呟きが聞こえてきた。


「かぁ…さん」


 おいおい。
 いい年した奴が、寝言で母親なんか呼ぶなよ。
 一気に呆れ返り、統和は眉間に皺を寄せた。
 甘やかされて育ったんだろう。こんなの、嘲笑いのモノダネ以外の何物でもない。所詮、ただのクソガキだってことか。
 なんだか印象を裏切られたような、理不尽な憤りを感じつつ統和がベッドを離れようとした時、また白石が小さく何か呟いた。その言葉を聞き、統和はその場で足を止めた。
「死なない…で、母さ…ん」
 伏せられた睫毛から零れ落ちた涙が、青いシーツに吸い込まれていく。
「…………」
 統和は何も云えず、小刻みに震える華奢な体に歩み寄った。色を失った唇を震わせ、泣きながら何度も「死なないで」と呼びかける声は、聞いているだけで痛ましかった。
 ベッド際に膝をつき、統和はそっと黒髪を撫でた。少しでも落ちつけばいいと思い、溢れる涙を拭い、濡れている髪を撫でた。シーツをギュッと握り締める指に掌を重ねる。
「大丈夫だよ…」
 何度も耳元で囁くと、ふっと強張っていた表情が柔らかくなった。
 シーツの代わりに統和の指をキュッと握り締める白い指。やがて荒かった呼吸も正常に戻り、震えていた体も静かな寝息に上下しはじめた。
 健やかに戻った寝顔をしばし見つめる。
 改めて見ると、白石はずいぶん可愛らしい顔立ちをしていた。いままでそんな所には目を向けたことがなく、統和は新鮮な気持ちでその造りを眺めた。
 伏せた睫毛にはまだ涙が纏わりついている。名前のとおりに白い肌。色を取り戻した唇は果実のように赤く色づいている。
 白石ってこんな顔してたんだ。
 いかに自分が盲目的になっていたか、思い知らされた気分だった。
 華奢な指。それが自分の手に絡んでいる。
 嗅ぎなれない匂い。他人の匂い。
 それがこんなに心地いいものだとは思わなかった。
 日溜りの匂いがする。
 手を振り解くと、また白石が泣きはじめそうな気がして。統和は結んだ手はそのままに、その横にそっと体を横たえた…。



「白石は火事で母親を亡くしてるんだよ」
 朝のHR前。話がある、と担任に呼ばれ統和は職員室にいた。
「そう…なんですか」
「なんでも、目の前で母親が死ぬ一部始終を見ていたらしい。相当なトラウマだろうな」
「…なんでそれを僕に?」
「級長であるおまえには云っとこうと思ってな。今日から化学で実験あるだろ? どうも前の学校で火を見て倒れたことがあるらしくてな。山崎には気をつけててほしいんだ」
「解りました」
「頼むな」
 そういうのぜんぜん表に出さない奴だからなぁ…、という担任の呟きが統和の胸に重く圧し掛かった。挫折どころの話ではない。統和は自分の甘さに吐き気を覚えた。
 たぶんクラスの誰も、白石の持つ葛藤には気づいていないだろう。それは白石の努力の賜物なのだ。明るい性格や天真爛漫な言動の裏には涙ぐましい努力があるのだろう。見た目からはとても窺い知れないが。

 HRがはじまっても、白石は教室に現れなかった。統和は担任に、具合が悪くて保健室に行っているという旨を伝えた。級長の言葉を担任は疑いもしなかった。
 顔を合わせるのが気まずくて、統和は目覚ましよりも早く起き家を出た。目覚ましは8:45に仕掛け直しておいた。どんな顔をして会えばいいのか、思いつかなかったのだ。白石には悪いことをした…。
 けっきょく白石が登校してきたのはニ限目も半ばになってからだった。
 白石が遅刻してきたことを知っているのは克久と勇馬と自分だけである。克久の気転でどうにかその場を取り繕うと、白石は狐に抓まれたような顔をして統和の隣りに着席した。白石が黒く濡れた目で、なにか云いたげに口を開きかける。
「ほらよ」
 それを遮るように、統和は白石の分のプリントを差し出した。
 なんだかまともに顔が見られなくて、統和はプリントに視線を落としたまま白石の気配を窺がった。だが白石はいつものまま、どこか変わった様子はない。
 そうしていままでも仮面を被ってきたのだろうか。
 授業が終わり、勇馬に絡まれてまた隣りで一悶着が起きる。仲睦まじい様子を見ても、統和の胸はもう痛まなかった。気が抜けたというか。
「これ一限のプリント。放課後までに研究室に持ってこいってさ」
 どうも委員長気質というのはなかなか抜けないものらしい。
 事態が落ち着いたところで確保しておいたプリントを渡すと、白石の黒い目がキラキラと輝いた。ここで素直に喜ぶのが白石なんだよな…。
不思議な心地でそれを眺めていると、克久が急に余計なことを云い始めた。
「礼云っとけよ。オマエの遅刻を保健室行きにすりかえたの、統和だぜ」
「え?」
 驚きで、ただでさえ丸いのによけいに丸くなった目が正面から覗き込んでくる。
「別に」
「山崎、が?」
 確かめるように白石がもう一度訊き返してきて、思わず云い訳めいたことを口にしてしまう。
「……まぁ責任の一端、担ってる気がしないでもないから」
 そこまで云ったところで、統和は思考を停止させられた。

「アリガトウ」

 すぐ近くで聞こえる声。
 背中に回された細い腕がギュっと統和を抱き締める。何が起きてるのかすぐには把握できなくて、統和は自分を抱く腕の質感だけを感じていた。
 細い体。
 しなやかな手が統和の体に絡みついている。
 コイツ、こんな細いのか?

「めっずらしー。固まった統和なんか見ちゃったよ」
 勇馬の声と克久の爆笑とで我に帰る。
 統和は溜め息をつくと、細腕を軽く振り解いた。
「…せめて、もう少し脈絡ある行動が取れないわけ?」
「感謝の気持ちをカラダで表わしただけじゃん」
 生意気にも白石が減らず口をきいてくる。
「あのね、口は何のためについてるんだか考えたことある?」
 思わずそんな切り返しを入れると、白石が満面に笑みを浮かべた。
 その笑顔に一瞬、胸が高鳴る。
 オイオイ、なんだよソレ…。
 自分の感情に突っ込みを入れつつ、統和はその笑顔から目を逸らした。不本意ながら、動揺の色が出てしまってるかもしれない。どうも克久あたりにネタを提供してしまった気がするが…。それこそ不本意だったが。
 しかし、白石が統和の中に波紋を投げかけたのは確かなことだ。

 日溜りの匂い。
 体には白石の感触がまだ残っていた。

 けっきょく動揺を引き摺ったまま、統和は次の化学に向かうことになった。
 まずはじめに実験の概要を教師が説明し、班ごとにその準備に取りかかる。忍野が配られたアルコールランプに火をつけた。
 小さい炎がゆらゆらと揺らめきはじめる。
 白石がさりげなく一歩、後ろに退くのが見えた。
「記録係、白石やってくれない?」
 実験自体は、特に難しい作業ではない。反応を見て、統和はノートとペンを白石に押しつけた。炎から一番遠い場所に白石がついたのを確認してから、忍野と濱中にゴーサインを出す。
 やはり少しは動揺しているのだろうか。
 見た目にはぜんぜん解らないが。当の白石は笑顔で忍野にダメ出しをしていたりする。進む実験内容をノートに書きつけながら、たまに考え込むようにペンを唇に押しあて瞳をめぐらせる。ふいに目が合うと、白石はふわりと笑みを浮かべた。そこではじめて自分が白石を見つめていたことを認識した。思わず目を逸らし、実験の進み具合を横目で確認する。
 どうしてこう屈託がないのだろうか。
 心臓に悪い奴…。
 ポン、という小さな音がしてそっちに目をやる。
「濱中、炙り過ぎだっ」
 忍野が叫ぶと同時に大きく燃えあがった炎が一瞬、視界に広がった。


「白石ッ」
 力の抜けた体が椅子から崩れ落ちるのを、寸前で統和の腕が受け止めた。


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