山崎統和の場合。 #1



 自分で自分が解らない
 何をしたいの? 何がやりたいの?
 そんなの、すぐには解らないから
 いいから放っておいてほしい…
 逃げ出したのは自分
 居場所を放り出したのも自分
 すべてをゼロに戻せばまたスタートが切れると思ったのに
 一年のブランク。その間に
 ホームグラウンドは他人のものになっていた…


「それじゃ、よろしく頼んだからね」
「はい」
 ヨロシクじゃないだろう…そう思いつつ、統和は職員室をあとにした。
 高等部にあがり初登校してみれば、またもや銀バッジは統和のものとされていた。満場一致だったというから断るわけにもいかず、統和は仕方なくまたソレを受け取り襟元にはめた。
 こういう生活から逃れたかったんだけどな…。
 優等生であるという自分。
 模範生であるという自分。
 そんな自分、本当はどこにもいないのに。
 けれど同時に、一年近く経ち帰ってきたいまでも同じように迎えてくれる周囲の反応があり難くもあった。居場所はここにあるよ、と云われているようで。
 それがただの錯覚だったとしても。
 勇馬と克久と三人。また楽しくやっていけたらと思う。聞けばまた同じクラスだというし。気の置けない友人がいるというのはいいものだ。
 ガラリと教室の戸を引き開ける。中には誰もいなかった。
「体育ね…」
 副担任から聞いていたのでそれは知っている。だが、わざわざ着替えて途中から参加するのも面倒だったし、クラスメイトに会う前に少しでも教室の雰囲気をつかんでおきたかった。
 高等舎に足を踏み入れること自体はいままでに何度もある。だが「住人」になるのではまた勝手が違う。新鮮な気分を味わいながら、統和は座席表のとおりに自分の席に腰掛けてみた。
 窓から吹いてくる風が髪の毛を梳いていく。悪くない空気だ。
 校庭でサッカーをしている生徒たちの歓声が風にのって聞こえてくる。サワサワという葉ずれの音。午前の日差しが机の上に日溜りをつくる。
 ここからまた新しい日々がはじまる。
 統和はしばらく外を眺めていた。だが柔らかい日差しの中にいるうち、波のように打ちよせる眠気に次第に意識を侵食されていった。
 昨日の夜についたばかりで、ろくに荷物の整理もせぬまま眠りについたのだが時差ボケはまだ直っていないようだ。
 腕を枕に顔を伏せると、どこか懐かしい太陽の匂いがした。
 春の暖かい光の中で、統和は訪れた緩やかな微睡みに身を任せた。


 小さい頃から、自分は医者になるものだと信じて疑わなかった。
 当たり前のように、敷かれたレールの上をずっと歩いてきた。選択権は常に父親にあるもので、その通りに従っていれば間違いのない人生が送れる、そう信じ込んでいたのだ。
 品行方正、成績優秀、つねに何らかの役職を推薦で得るような人望。
 それらはすべて持っていて当たり前のもの。努力で勝ち取ったものすべて「当然」の一言で片付けられ、どんな成果をあげようとも誉められることはなかった。
 父親の中の理想に満たない自分は、自分とは認めてもらえない。それ以外の自分というのは存在しないと、ずっとそう思っていた。そしてそれが日常だったのだ。
 あのまま気づかなければ、もしかしたら世間一般で云う幸せはつかんでいたかもしれない。だがそこにはあまりにも「自分」がない。
 ある日、統和はそれに気がついてしまった。
 勇馬が語る将来の夢――なんでそんなに楽しそうなんだろう。
 克久が語る未来の展望――どうしてそんなに自信に溢れているのか。

「統和はどうして医者になるの?」

 返す言葉が見つからなかった。
 どうして、なんて考えたこともなかったから。他の選択肢なんてはじめから頭になかった。父親の云う通りの道を歩んで、進学して、勉強して、医者になって。
 それからどうするというのだ?
 何でもできる。
 けれど、自分は何もできない人間だということをこの時はじめて知った。
「医者にはならない」
 そう告げると父親は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに口元に笑みを浮かべ「そうか」と云って目を細めた。いつもと変わらない穏やかな微笑み。
「それじゃあ、おまえは何になりたいんだ?」
 そう訊かれて愕然とした。
 自分には熱く語れる夢も、自信を持って胸を張れる目標も、何もなかったのだ。言葉を失った統和を見て、父親は軽く溜め息をつくと部屋を出て行った。父親とはそのまま冷戦に突入した。
 中三の夏前。
 はじめて自分という人間を顧た。
 云ってしまった以上、後には引けない。
 確かだと思っていた足元がガラガラと音をたてて崩れ落ちていくのを、統和は呆然と眺めていた。生まれてはじめて学校を休んだ。


 担任とも何度か話し合った結果、身の回りの環境を変えることにした。
 ちょうど母方の叔母がNYで学芸員をしている。しばらくそこに身をよせることにした。
 誰も自分を知らない所でなら、イチからやり直せる。
 そうすれば少しは事態が好転するような何かがあると思っていた。
 甘い考え。一月もしないうちに統和は打ちのめされた。目標を持たない人間には、ヒトも街も冷たく思えた。
 自由な時間を与えられても、取りたててすることが思いつかない。無目的に街を歩いても、すれ違う人々の目が糾弾の視線に思えてならなかった。
 苦悩する統和を、叔母は何も云わずただ見守っていた。家に置く代わりに、と家事全般を任され、日々炊事に追われる生活を送った。家事という仕事ができただけでも有り難かった。
 居場所がない。
 自分の居場所がほしくても作れない。作りたくてもその手立てが解らなかった…。
 無為に時間だけが過ぎていく。気は焦るばかり。だが焦れば焦るほど解らなくなり、空回りしている自分の姿はさぞかし滑稽だったろう。このままいても何も得るものはない。統和は帰国を決意した。所詮、自分は逃げてきたに過ぎないのだ。
 叔母は最後まで何も云わなかった。
 日本には少なくとも自分の居場所がある。
 向こうにいる間、家事以外にやることがなくなった時間を統和はずっと勉強に費やしていた。学力的には問題ないということで内部進級を許された。
 けっきょくこうして舞い戻ってきてしまった…。
 環境を変えても、統和にとって心を変えることは難しかった。
 ささくれた精神をしばし癒してくれる場がほしかった。
 だが、久しぶりに戻ったマイホームには、見なれない、小汚い野良猫が我が物顔で住みついていたのだ…。



 野良猫の名前は、白石雪乃というらしい。
 勇馬の懐きようを見ればどれだけその野良猫がテリトリーに食い込んできてるのか、イヤでも解る。
 荒んだ精神がさらに細く、粗くささくれ立っていく。潰してやろうと思った。それがどれだけ理不尽で利己的な報復か、頭では解っていた。だが止めようがなかった。
 最後の砦を崩されるわけにはいかない。
 だが、まったくメゲる節のない相手の態度がよけいに統和の憤りに油を注いだ。
 面白いくらい、次第にエスカレートしていく憎悪。
 思えばこの一年の間に抱え込んでいたフラストレーションを、すべて白石で発散していたのかもしれない。情けない話。


「へえ、ヤツアタリなんかできるようになったんだ」
 あの日、克久に云われた台詞。ある程度予測はしていたが、その言葉は見事に統和の頭から冷水を注いでくれた。
 克久は恐ろしく勘がいい。統和の葛藤も承知の上で、きっと黙認していたのだろう。それも解っていた。いや、だからこそ。
 それが白石に対する信頼のようにも思えて、よけいに腹立たしかった。
 ヤツアタリ。
 その通りだ。白石を追い払ったところで前のような時間が訪れるワケではない、そんなことは百も承知だった。ただ自分の無力さ、非力さ、無知さ加減に対しての憤り、ジレンマをぶつける対象がほしかっただけなのだ。まさにヤツアタリ。なんて醜い行為。
 優等生である自分には無縁だったはずの感情…。
 少しは前進しているのだろうか。
 それとも後退している? どちらにしろ、少しずつ変わりつつある環境を統和は意識した。そして同時に。
「まーあ、久しぶりねぇ!」
 相変わらず明るく屈託のない笑顔。久しぶりに会った勇馬の母親からは、いくら環境が変わろうともけして変わらないモノの存在を教えられた気がした。
 勇馬の母親に別れを告げ、必然的に白石と二人きりになって。
 統和はその時はじめて、野良猫を「白石雪乃」という一人の人間として捉えた。
 シライシユキノ。
 それはバカ素直そうな眼差しと、真っ直ぐな性格と、そして屈託のない笑顔とを持った騒がしい人間だった。道端で人目も憚らずしゃがみこむし、そのリアクションがいちいち大きいからさらに人目を引くという悪循環を目の前で繰り広げている。
 勇馬と気が合うのもよく解るし、克久のオモチャになるのも道理といった感じだ。ヘンな奴…。


「おまえ、家くる?」


 だから、それは自分でも恐ろしく意外な一言だった。
「え?」
 驚いたようにこちらを見上げた白石の、黒く濡れた丸い瞳が街灯の明かりを反射する。印象的な瞳。
 投石が描く湖の波紋のように、それは統和の心のどこかに音もなく広がると、すうっと溶けるようにそのまま消えていった…。


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