白石雪乃の場合。 #5



 棚に置いてあったバスタオルで体を拭うと、山崎が用意してくれた着替えに袖を通す。
 雪乃より五センチは高い山崎の服は、案の定ちょっと大きくトレーナーの袖が少し余った。風呂あがりの素肌にコットンの感触が気持ちいい。
 バスルームを出ると、すぐ向かいの部屋の扉が少しだけ開いていることに気がついた。居間からはテレビの音が漏れ聞こえてくる。
「あ、れれれ…と」
 悪気はない。ないのだが…。好奇心には勝てず雪乃はそっと、扉の隙間から部屋の中を覗いた。月明かりに照らされ、家具も何もない部屋にダンボール箱がいくつも置いてあるのが見えた。封の開いているものもあれば手付かずのままのものもある。長い間、このまま放置されているような感じだ。
 見ちゃいけないものを見た気がして、雪乃はあわてて扉口を離れた。
 居間に戻ると山崎はソファーにもたれてテレビを見ていた。
「なんか飲みたきゃ勝手に出せよ」
「あ…、うん。悪いね、世話かけて」
「ほんとにな」
 あっさりと云う、山崎らしいその物云いに雪乃は思わず笑ってしまっていた。
 この間からの妙に攻撃的な雰囲気はいつのまにか消えていたが、しかしだからと云って態度に変化が表れたわけではない。
「山崎って一人っ子なの?」
「関係ないだろ」
 ほーらすげない返事。
 山崎の言葉に甘えて、キッチンに向かうと雪乃は冷蔵庫をひき開けた。
 想像に反して冷蔵庫には新鮮な食物が収まっている。あったとしても飲み物とインスタント物くらいだろう、と思っていた雪乃は意表をつかれた。きちんと一人分をわきまえた食料が整理されたうえで配置してある。家政婦サンでも通ってくるのかな。
 姉と共に料理はからきしダメな雪乃だ。同年代の男が料理するとは考えにくく、そう結論づけると雪乃は中からスポーツ飲料を一ついただいた。
 カウンターのスツールに腰掛け、雪乃はそれを飲み終わるまでぼんやりと移り変わる画面を眺めていた。山崎の方から何か口にすることもなく、黙ったまま同じ画面を見ている。不思議と心地いい時間だった。
 ついさっきまで山崎とこんな時間を共有することになるとは夢にも思ってなかったが、不快な感じは全然なかった。
 薄暗い室内いっぱいにブラウン管の青い光りがチラチラと蔓延する。
 ふいに画面にピアノが映り、サティのジムノペディが流れ出した。

 母さんが好きでよく口ずさんでいた曲だ。
 この曲を小さくハミングしながら洗濯物を干していた背中をいまでも覚えている。午後の陽だまりの中、機嫌よさそうにベランダで洗濯物を干しながらたまにこちらを振り返っては、笑ってくれたあの笑顔。もう二度と向けられることのない。眩しい記憶。

「ダメだな、ホントに…」
 呟きは小さ過ぎて、山崎には届かなかっただろう。
 チャンネルを変えてとも云い出せず、雪乃はその場を立ちあがった。
「寝るんならそっちの部屋だぜ。ゲストルームは急の来客には対応してなくてね」
 背中を向けたまま山崎が示した部屋は、さきほど山崎が入っていった部屋だった。
「ウン…、先に寝るね」
 飲み終えた缶を捨て、山崎の横を遠慮がちにすり抜けると雪乃は示された部屋の扉をくぐった。扉を閉めてから気がついたのだが、そこは山崎の私室のようだった。
 居間と同じく青と黒で統一された広い室内に、どんとダブルベッドが置かれている。その向こうにシンプルなステンレス製の机とパソコン。壁際には青いソファーが置かれていた。天井まである本棚にはぎっしりと本が詰まっている。入ってすぐ左手にもう一つのバスルーム。こちらの内装は青と緑で統一されていた。
 簡素ながらもここには生活の気配があった。中でも山崎の部屋だと強く思わせるのが、間接照明に照らされた一枚の額入りポスター。
 そこには夜のカフェにいる男と女が描かれていた。暗い街路にポツンと明るいカフェがある構図はどこか寂しげで、そしてなんだか取り残されたような感じにも見える。
「エドワード・ホッパー…」
 それはなんとなく山崎のイメージに重なって見えた。忍野の言葉を思い出す。
 夜中に一人、山崎は何を思ってこの絵を見るのだろう。


 悲しみは人を強くしてくれるが、寂しさは何も生み出してはくれない。


 ソファーに置いてあった掛け布団を広げ中に潜り込む。冷たいソファーがじきに体温で暖まるのを、雪乃は辛抱強く待った。指先が痺れている。こんな夜はよくない。あの夢を見てしまう。
 圧倒的な力を誇示するかのように、揺らめく光と轟音、煙の洪水。
 いつまでも暖まらないソファーが、ちくちくと雪乃の神経を逆撫でしてくる。人肌が恋しい。
 しばらくしても鎮まらない心に雪乃はソファーを諦めると、溜め息をつき立ちあがった。山崎がくる気配はない。試しに奇麗にベッドメイキングされたシーツに横になってみる。青いシーツからふわりと人の気配が匂った。
「あ、これ…」
 この部屋に入った時も。
 隣りで授業を受けてる時も、あの日はじめて山崎を教室で見た時にも。
 この匂いがしていたことを改めて思い知らされる。
 これ山崎の匂いだ…。
 シーツにくるまり猫のように身を丸めると、なぜか暖かい安心感が広がった。指先の痺れは取れない。あの夢を免れることはないだろう。けれど、それでもこのシーツの中にいれば。
 少しはマシな夢なんじゃないかという安堵と確信が、なぜかあった。
 シーツに山崎の温もりさえも残っているような気がする。
 その中に包まれて、雪乃は静かに目を瞑った。



 翌朝、目覚ましの音で雪乃は目を覚ました。
 広いダブルベッドに一人きり。山崎の姿はなかった。
 夜中に一度目が覚めた時、すぐそばに山崎の背中があったのを覚えている。呼吸している体。そっと触るとその背中は暖かかった。
 激しい動悸と不安。それを不思議な安心感に癒され、そのまま再び眠りに落ちた。いつもは何度となく現れ、雪乃に久遠の慟哭を求める夢も、その後は大人しく引き下がった。寝覚めもいい。山崎は居間にでもいるのだろうか。
 そうだ、ベッドにいたことを謝らなければ…。
「あれ?」
 しかし妙な胸騒ぎと違和感を覚え、雪乃は傍らの時計に目をやった。
 8時45分。一限目の開始時刻をだいぶ過ぎている。
 そんな時刻にこんな所にいれば当然、立派な遅刻である。
「やられた…」
 深いため息を一つついて。
 雪乃はすぐさまシーツを蹴りあげると、ソファーに放ってあった自身の制服にあわてて袖を通した。


「あ、あの白石です…」
 恐る恐る扉を開け教室に入ると、教卓に肘をついていた担任と目が合った。
 けっきょくニ限目も半ばになっての登校となってしまった。
 怒られる! と思わず身構えた瞬間、担任は「ああ、もう大丈夫なのか?」と呑気な声で訊ねると、それからフワァ…と大きな欠伸を一つ披露してくれた。その後、その視線は何事もなかったかのように持っている雑誌の上へと戻される。
「はい?」
 狐に摘まれたような面持ちで担任の横顔を見つめていると、教室の隅でひらひらと指が舞うのが見えた。見ると克久が口裏を合わせろ、といったジェスチャーを数度繰り返して頷いて見せた。
「あ、はい。おかげさまで…」
「そうか、よかったな。じゃあ席に戻れ」
 腑に落ちない顔のまま席につくと山崎が「ほらよ」とプリントを手渡してきた。
「…………」
 云いたいことは山ほどあったが、いかんせんいまは試験中である。
 出かかった言葉を飲み込むと、雪乃は大人しく数学のプリントに向き合うことにした。
 やがてけたたましい鐘が鳴り、プリントを回収した担任が教室を出ていく。
「山崎…」
 と云いかけた台詞を、今度は横からきたタックルによって、雪乃はまたも断念せざるを得なかった。
「うわっ」
「遅刻とは何事だーっ」
 飛びついてきた勇馬が、ムギューと朝のスキンシップをはかりにかかる。細い手が絡みついて、容姿に見合わない力を発揮する。
 雪乃がギブを告げると、すぐさまリングにタオルが投げ入れられた。
「コラ。何事はオマエだろ、勇馬」
 しがみついてる勇馬を克久に剥がしてもらい、雪乃はようやく一心地ついた。
 ビ、ビックリした。で、何の話だったっけ…?
「これ一限のプリント。放課後までに研究室に持ってこいってさ」
 いままでの様子を平然と見ていた山崎が、雪乃の机の上に英語のテスト用紙をヒラリと置いた。
「あ、アリガト」
 さすが委員長である、そつがない。そんなことに感心していると、克久がコツンと雪乃の頭を小突いた。
「礼、云っとけよ。オマエの遅刻を保健室行きにすりかえたの、統和だぜ」
「え?」
 思わずそちらを向くと、すっかり委員長の顔をした山崎がそこにいた。
「別に」
「山崎、が?」
「……まぁ責任の一端、担ってる気がしないでもないから」
 云いながら眉を顰めてた山崎が。
 次の瞬間、驚いたように両目を見開いた。
「アリガトウ」
 雪乃は山崎に抱きつくと両腕に力を込めた。間近で山崎の匂いがする。怒るかな? とも思ったが、雪乃は自分の心に素直に従った。
 なんでだか嬉しくて、しょうがなかった…。
 雪乃の腕の中で硬直したように動かない山崎を見て克久が吹き出す。
「ブッハハハ」
「めっずらしー。固まった統和なんか見ちゃったよ」
 勇馬の台詞にはっとしたように、山崎は雪乃の両腕を軽く振り解いた。
「…せめて、もう少し脈絡ある行動が取れないわけ?」
「感謝の気持ちをカラダで表わしただけじゃん」
「あのね、口は何のためについてるんだか考えたことある?」
 そんな憎まれ口を利きながらも、山崎の表情にはまだわずか動揺の色が残っている。はじめて見る表情。なんだかかわいく見える。あの山崎が、だ。
 山崎ってこんな顔もするんだ。冷たい顔と、人に向けられる笑顔しか知らなかった雪乃にそれは思いのほか新鮮に感じられた。
 もっと色んな山崎が知りたい。
 フツフツと心に涌きあがってくる欲望。
 人がそれを何と呼ぶのか。


 雪乃がソレを知るのは、もう少し先の話となる――。


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