白石雪乃の場合。 #4



 扉を閉めて廊下に出るとどっと肩から力が抜けた。
「フゥー…っ」
 洗面台で顔を洗う。
 水の冷たさが心地よかった。回ったアルコールがすうっと引いていく。鏡の中の自分が白い顔をしてこちらを見ていた。個室に帰りづらい…。しかし、だからと云ってずっとここにいるわけにもいかない。意を決して部屋に戻ってみる。
「あ、れ?」
 だがそこに山崎の姿はなかった。
 内線がプルルルル…と、間延びした音をあげる。
「延長しますかァ?」
 受話器を取ると店員の呑気な声が聞こえてきた。
「あ、っと…ちょっと待ってください」
 あわてて勇馬の腕時計を見ると、もう十二時近くになっていた。否定しようとしたところでいつのまに帰ってきたのか、横から山崎に受話器を奪われる。
「悪いんですけど、勇馬くんが寝込んでるってオーナーに伝えて下さい」
 そう云ってガチャリと受話器を戻すと、山崎は手早く自分の身支度を始めた。
「え…、え?」
「ここ勇馬の親父さんが経営してんだよ。知らなかったの?」
 呆れたような物云いだったが、ニュアンス的にはなぜか、さきほどまでの刺々しさは消えていた。少ししてから、勇馬によく似た女性が笑顔で入ってきた。
「ごめんなさいネェ、このコったらもう……、あら統和くん? まーあ久しぶりねぇ!」
「どうもご無沙汰してます。オジさん、元気してらっしゃいますか?」
「もう迷惑なくらい元気よー。キミがきたって知ったら夜中でも碁盤持ち出してくるわよ。今日はどうするの?」
「今日は帰ります。まだ荷物、整理できてないんで」
「あらそう。残念ね」
 勇馬の母親だというその女性は手早くテーブルの上をかたしながら、今度は奥にいた雪乃に目を向けると微笑みながら親しげに声をかけてくれた。
「あなたが雪乃くん?」
「あ…ハイ…!」
「勇馬からいっつも聞いてるのよー。すごいイイヤツなんだって誇らしげに云うの。どんなコかと思ってたら、かっわいいのねェ。オバさんもうファンよ、ファン!」
「あ、アリガトウございます…っ」
「キャ、かわいー! 私もこんな息子が欲しかったわ〜。勇馬なんてけっきょく見かけだけで性格なんかちっともかわいくないんだから!」
「ハハハっ」
 勇馬もオバさんにかかると形無しだ。眠りこけてる勇馬をよそに、いくつも披露される暴露話に雪乃は腹をかかえて笑った。
「フフ、こんな息子さんならお母さまはもさぞかしご自慢でしょうね。もちろん統和くんのお母さまもよ」
「……はい」
 なんだか涙が出そうになって、雪乃はそれを無理やり笑顔の底に押し込めた。
 そして、けっきょくオバさんに押し切られるような形で代金を戻され、雪乃は山崎と共にカラオケボックスを後にした。
 勇馬は母親似なのだろう。笑った感じが特によく似ている。一家団欒の図が頭に浮かんで、なんだか微笑ましかった。ウチも母親が生きてたらあんな感じだったろうか。
「いいのかな、克久、置いてきちゃって」
「別に。オバさんも慣れてるだろ」
「そーなの?」
「あの二人は幼馴染なんだよ」
「あ、そうなんだぁ」
 仲いいもんなぁ。素直に感心していると、山崎が心底呆れたようにため息をついた。
「人の心配もいいが自分はどうなんだ。電車あんのかよ?」
「ああ、うん。平気、さっき勇馬の時計見たらまだ一時前だったから、終電には間に合う」
「……もう少し周りに注意を向けるんだな。勇馬は昔からなぜか、時計を十五分遅らせるクセがついてる」
「へ?」
 差し出されて見た山崎の腕時計は、一時をちょっと過ぎていた。
「あ、れれ?」
 ということは、だ。とっくに終電は終わっているということになる。雪乃の家はここから三つ先の駅だ。さらに駅から歩いて十五分はかかる。ここからでも歩いて帰ろうと思えば帰れないことはないが、かなりしんどい道中になるだろうことは簡単に予測できた。
「うっわ…どーしよ」
 にわかに深刻さを増してきた事態に、雪乃は思わずその場にしゃがみ込んだ。
 考えろ、考えろ、考えるんだ!
「…………」
 それを見てさも迷惑げに眉をよせると、仕方なくといった体で山崎も少し先で歩を止めた。道端にいきなりしゃがみ込んでいる雪乃を、通りかかった人々が不審げに眺めていく。だがそんなことに構っている余裕は雪乃にはなかった。タクシーを拾えるほどリッチな身分ではないし、姉に連絡したところで「そうか、頑張れよ」と云われて終わるのがオチだ。それどころかこの時間じゃ電話にさえも出ないかもしれない。いつ見ても冷淡な姉の顔が目に浮かぶようだ。
 ヤバい、死活問題かも…。
 明日は一限からテストがあるので遅刻するわけにもいかないし、このあたりに泊めてくれる知り合いもいない。せめてもの救いは参考書を教室に置きっぱなしだった、ということぐらいだろうか。
 とにかくヤバいのは今夜の寝床確保だけだ。どうしたものか…。

「…おい」
 しばらくは静観していた山崎だったが見るに見かねたのか、それとも街中で恥ずかしげもなく座り込む姿についに嫌気が差したのか、つかつかと近づいてくると軽くため息をついた。
「もしかして呆れてる…?」
「すげー迷惑してる。知り合いだとも思われたくない」
「はいはい、悪ゥござんした。あ、山崎は帰れるの?」
「――その話だよ」
 街灯の逆光で表情はよく解らない。だがその声はどこか疲れたような、諦めたような口調だった。そして、山崎の口からは意外な提案が飛び出した。
「おまえ、家くる?」
 言外に「ホントはすげー嫌なんだけど」という態度を滲ませながら。だが雪乃には、山崎がまるで後光眩い仏のように映って見えた…。



 山崎の家は勇馬の親父さんの店からそう遠くない場所にあった。
 オートロックのエントランスをくぐり、エレベーターで最上階まで上がる。会話の糸口が見つけられず、雪乃も山崎もさっきからずっと黙ったままだった。
 あれから。無言で歩き出した山崎を追ってここまでついてきてしまったが、しかし本当によかったのだろうか。ちょっと不安になりかかったところで、山崎が頑健そうな扉を開き片足でそれをとどめぶっきらぼうに云った。
「入れば?」
「あ…、えっと、おじゃまします」
「別に誰もいないよ」
 真っ暗な玄関に明かりが灯った。山崎はさっさと靴を脱ぎ捨てると、廊下の奥へと進んでいった。雪乃が靴を脱いでいると、奥からかすかに留守録の再生音が聞こえてきた。声の調子は女性のようだが内容まではとても解らない。
 なんだか悪い気がして雪乃はしばらく玄関に留まった。何件か聞いた後ぶつりと中途で音声が途切れる。いちおう靴を並べ遠慮がちに廊下を進むと、間接照明に照らされた居間につきあたった。正面に見晴らしのきく大きな窓がある。遠くのビルの灯りが夜空に映えてきれいに見えた。
 しかし…。このマンションについた時点から思っていたことだが、調度品からなにからすべてが高級品だ。この部屋も3LDKは下らないだろう。こんな所に一人暮しをしているとは、山崎の境遇に雪乃は少なからず驚いていた。
「好きにしろよ」
 そう云いおくと、山崎は居間から続く扉の向こうへと消えた。
「えーと…、好きにと云われても」
 とりあえず部屋の隅にカバンを置くと、雪乃は不躾にならない程度に部屋を見渡した。青と黒で統一された調度品が落ちついた雰囲気を醸し出している。とても高校生の一人暮しとは思えない部屋だった。
 隅に置かれた水槽の中にはきれいな青い魚が数匹泳いでいる。灰色の皮張りのソファーに毛足の揃った濃紺の絨毯。ワイド画面の大きなテレビが端にどかりと設えられている。照明の落とされたキッチン。
 散らかって出ているものなど何もない。
 落ちつき過ぎていてなんだか落ちつかない部屋だった。広過ぎてどこか寂しいような。そんな気がした。生活臭の感じられない部屋。
「いつまでも突っ立ってるなよ」
 所在無さげに立ち尽くしていると、制服から私服に着替えた山崎が着替えを片手に現れた。
 濡れた髪の先から雫を落としながら、首に巻いたタオルではだけた胸元の水滴を拭う。雪乃に着替えを放ると山崎はカウンターの向こうのキッチンに向かい、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターの瓶に直接口をつけ中身を飲み下した。
 薄暗い室内で揺れる水面に目を奪われる。思わずじっと見てると、山崎が無言でバスルームの場所を指先で指示した。その通りに廊下を戻るとすぐ右手の部屋に入った。灯りをつけ扉を閉める。
 広い洗面台と、その横には欧米によくありそうなユニットバスが設えてあった。使われた形跡がないところを見ると、山崎が使ったのとは別のバスルームなのだろう。きれいに掃除の手が入っている。
「…あ」
 しかし雪乃をたじろがせたのはこのバスルームの色調にあった。居間や玄関と違い、このバスルームは赤やオレンジを基調とした鮮やかな色彩に溢れていた。
 置いてある小物も前衛的なカラフルなもので統一されている。バスルームに至っては大きめの真っ赤なタイルが壁と床とを覆っていた。
「これはまたすごい色調で…」
 平気な素振りで口に出してみる。
 動揺が少しは治まったような気がした。ライトに囲まれた鏡の中で、真っ白い顔をした自分がこちらを見ていた。
「はァ…。ダメだなぁ、ホント」
 自分の中ではすっかり終わったコトとして片付いていても、心の方はそうもいかないようだ。雪乃は無理に笑顔を作ると鏡でそれを確認し、それから脱いだ制服を脱衣カゴに放った。


 考えない、考えない、考えない…。


 ひんやりとしたタイルに踏み出し、シャワーのコックを捻る。
 目を瞑りなにも考えないようにして、雪乃はたまたま思い浮かんだ歌を小声でエンドレスに歌い続けた…。


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