白石雪乃の場合。 #3



 授業が終わると、克久が山崎に生徒名簿を渡しにやってきた。
「ほらよ。内部生がほとんどだからすぐ覚えるだろ」
「お、サンキュ。気が利くね」
「あれ知らなかった? 俺ってばすっげイイヤツだもん、当たり前じゃん」
「よく云うぜ」
 慣れた軽口の応酬。こうして見ていると山崎はとても嫌なヤツには見えなかった。克久に対する態度も授業前と変わらない。人懐こい笑みに楽しげな会話。後ろからきた勇馬がまた山崎に飛びつきをかます。それも慣れたように交わすと、逆にアッパーを入れる真似をして山崎はまた人懐こい笑顔を見せた。
「んー、なに考え込んでんのー?」
 椅子に飛び乗ってきた勇馬がポンポンと雪乃の頭を叩いた。
 勇馬はスキンシップが好きだった。いつもこうして接触を求めてくる。でもよく見ているとそれは誰にでも求めるものじゃなくて、勇馬の中である一定の線を越えたものにしか許されない行為なのだった。人見知りしない性質の勇馬だが、スキンシップ求められる人間はクラスの中でも限られていた。山崎の分類もそういうことになる。
「なんか難しい顔してんじゃん、どした?」
「ウーンと、実はさっきの訳文一部、解んなくってサ。んで困ったなァなーんて…」
「そんなの統和に尋けばいいじゃん。統和、統和! 雪乃が訳文解んなかったって」
「ちょっ、勇馬…ッ」
 止める間もなく、グイグイとシャツを引っ張り、勇馬は山崎を隣りに座らせてしまった。
 なんとなく、空気が重たくなったような気がする…。
「どこが解んないって?」
「あ、ここんトコ、とか」
 しかし思ったよりも柔軟な山崎の態度に、雪乃は内心ホッとしながら山崎の訳文をノートにメモした。すらすらと明快に訳してくれた上、次回の課題文まで親切に訳してくれた山崎に、前席に陣取っていた勇馬ともども雪乃は賞賛の声を贈った。
「すげェ…。俺なんかぜんぜん解んなかったのに」
「ほほーう、さすがは帰国子女だな。なかなかやるな、おぬし」
「なに云ってんだよ、英語は勇馬も得意科目だろ」
「いやぁ、でもやっぱ本場者にゃ勝てませんって感じ? マジすげーや」
「お、チャイム鳴ったぜ。世界史かぁ、メンドイなー」
 教師が出席を取り始め、克久に促された勇馬がのろのろと自席へと戻って行く。途端にまた空気が重たくなったような気がして一瞬ひるみかけたが、それをええいと振り切ると雪乃は山崎に向き直った。
「えっと、サンキュ。すごい助かった」
「どーいたしまして」
 相変わらずこっちは向いてくれなかったが、受け答えは先ほどより柔らかい感じがした。教師が資料鑑賞のためのテレビを設置している間に、思いきってもう一度話しかけてみる。
「えっと、向こうにはどれくらい行ってたの?」
「一年もいなかったけど…」
「家族で?」
「いや一人で」
「一人? う、わ…。冒険家だ、すごいなァ」
 ひとしきり雪乃が感心していると、急に山崎がこっちに向き直って云った。
「なにが?」
「え?」
「なにがすごいの?」
 正面から冷たい視線を受けて。
 雪乃は目の前にナイフを突きつけられたような気がした。
「…だって一人で外国へ行くって、すごい勇気いることでしょう?」
「じゃあ俺、きみより偉いんだね」
 準備が整ったらしく、教室の照明が次々落とされていく。
「見にくかったらそれぞれ見やすい位置に移動しろよー」
 教師の呑気な声が聞こえて、山崎は立ち上がると前に向かっていった。ややしてから克久の隣りで笑ってる山崎が遠くの方に見えた。
「なんか…、第一印象ってアテになんないのかな…」
 照明が消され静まった教室はまるで深海のように感じられた。


「よかったら一緒に食わない?」
「ああ、忍野か…」
 いつもなら勇馬に引き摺られて人気メニューがなくなる前に食堂入りし、しっかりA定食をゲットしている雪乃なのだが、今日は騒がしい食堂の片隅で一人さみしくB定食と向かい合っていた。
「一人なんてめずらしいじゃん。篠原たちはどうしたの?」
「うん、なんか教室帰ったらもういなくてサ」
「あー、選択授業のあとはすれ違い多いもんね」
「で仕方なく一人でメンチカツってわけ。今日はA定、生姜焼きだったのにさ」
「でもメンチもいける方だろ?」
「ああ、ウン。意外にね」
「白石は山崎のこと気にしてる?」
「え?」
 雪乃の箸から落っこちたトマトが、ソースの海にびちゃりと浸った。
「悪いな。俺、真後ろだからどうしても見えちゃうんだよね。山崎の言動とかさ」
「ああ、そっか。…そうだよね」
 はじめて会ったあの日から、山崎は雪乃にだけ冷たい態度をとった。勇馬や克久、ほかのクラスメイトに対してはなんでもないのに、雪乃に対してだけ冷たいのだ。
 はじめは「外部生」に対してそうなのかと思ったが、どうもそういうわけではないらしい。ほかの外部生に対しても級長らしく、いろいろと世話を焼いている。雪乃にだけなのだ、あの冷たい態度は。
 しかも他のヤツがいる時はそんなことおくびにも出さないので、なお始末が悪い。
 あれから二週間。毎日あんな調子が続いている。
「実はさぁ、昨日思いきって尋いてみたんだ。俺、山崎になにかした、って」
「そしたら?」
「したら、自分にそんなつもりは全然ないからって。だからそれは被害妄想か自意識過剰のどっちかなんじゃないのかって……云われました」
「うーん…」
 思わず忍野の箸が止まる。雪乃はメンチカツの半分を口に詰め込むと、一気にお茶で飲み下した。
 選択授業後にすれ違ったこと。これは今日が初めてだった。これまで一ヶ月ちょっと同じ時間割で過ごしてきたが、いつもは同じ授業を取ってる克久と勇馬がたいてい教室で待っていてくれたのだ。しかし今日は誰もいなかった。メモも残ってなかった。
なにも拗ねてるワケじゃないけど…。
 そういえば帰り一人だったことも何度かあったっけか。カラオケに誘われなかったこととか、移動教室で置いてかれたりとか、そんなの数えあげてったらきりがなくなる。別にそんなことでいちいち本気で拗ねたりしないが、それが誰かの故意によるものだとしたら話は別だ。
しばらく黙っていた忍野がつけあわせのレタスを齧りながらぼそりと呟いた。
「これはただの推測に過ぎないから、口に出すのはなんなんだけど…。山崎は悔しいんじゃないかと思うよ」
「悔しい?」
「うん。中学ン時、篠原や小谷と一番仲よかったのって山崎だったからさ。自分がいない間に友達取られたような気がしてるんじゃないの? 白石、篠原たちとすごい仲いいじゃん。だから疎外感、感じてるとか」
「疎外感かぁ…」
だが疎外感を感じてるのは雪乃も同じだ。内部生が三人集まるとやはり思い出話に花が咲くものだ。中学時代の話に外部生である雪乃はやはり入っていけない。
「なんで突然アメリカ行ったのかとか、俺はぜんぜん知らないけどさ。何かにずっと悩んでるみたいだったよ、山崎。帰ってきてからもそれはあんま変わんないけど」
「ふうん」
ソースに浸ったトマトを口に放り込む。濃い味が舌にしみた。
「クラスのやつらは、いまのところ気づいてないみたいだね」
「…うん」
 まぁそろそろ篠原あたりが黙ってないかもしんないけど、そう続けるつもりだった言葉を押し留めると忍野は黙った。あくまでもこれは雪乃たちの問題だ。部外者である自分が口をはさめるのはここらあたりまでだろう。
 これからどうするかは雪乃次第なのだ。山崎の態度もいつまでも通用するものではない。
「どうするのが一番いいんだろ…」
 雪乃の呟きをかき消すように、けたたましい予鈴が鳴り響いた。


「なぁ雪乃も行こうよー。この前誘わなかったお詫びに今日は俺が奢っちゃうっ、これでどうだ!」
「んー…、じゃ行こうかな」
「俺は絶対奢んないからな。きっちり勇馬のポケットマネーから出せよ」
「そんなん解ってるって。いいよな、統和!」
「…別にいいよ」
 こなくていいのに、という風情を眉間あたりに漂わせながら山崎が云う。だがそれでもOKはOKだ。
 放課後。勇馬の一声でカラオケに行くことに決まり、雪乃たちは四人連れ立って学校を後にした。途中、妙にはしゃいだ感のある勇馬のわがままで吉野家で夕食を採りつつも、雪乃たちはなぜか電車で一つ向こうのカラオケボックスまで連れて行かれた。

「ちょっ、まだ飲むの?」
「当然!」
 すでに呂律のあやしい勇馬がカルピスサワーを一気する。
 全員制服を着ているにも関わらず、頼めば次々と出てくるサワーやカクテル類にテーブルはうめつくされていた。そのグラスの数に比例して、誰もが出来あがっている。あれから三時間も経ったいま、理性を保っている自信は雪乃にもなかった。
「あ、山崎もなんか歌いなよ」
 あまりマイクをとらない山崎に思いきってマイクを勧めてみる。
「最近の歌ぜんぜん知らないからいい」
「でも勿体無いじゃん。お金払ってるんだし…」
「あのサ。悪いんだけどものすごく余計なお世話だから、放っといてくんない?」
「あ、ウン。じゃ放っときます」
 いつになく辛辣な言葉を返されたが、雪乃はなるべく気にしないようにちょうどかかった自分の歌を熱唱した。勇馬と克久はすでに熟睡態勢に入っている。
 歌い終わると場が保てなくて、雪乃は席を立った。
「ちょっとトイレ行ってくる。勇馬の曲だけど、寝ちゃってるね」
「…………」


 歌い主を失ったカラオケだけが部屋に流れていた。


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