白石雪乃の場合。 #2



「大いに感謝したまえ」
「ははーっ」
 更衣室のベンチに腰掛けた克久が、どうだとばかりに胸を反らせる。
 着替えを終えたクラスメイトたちが続々と更衣室を後にする中、ベンチにふんぞり返る克久とその正面で一心に手を合わせる雪乃の姿は見世物以外の何物でもなかった。周囲の爆笑を買いながらも、雪乃は半ば本気で手を合わせていた。
 先刻、雪乃が体育館についた時点で教師はすでに終了を告げホールにはいなかったのだが、克久のうまい立ちまわりのおかげでなんと雪乃は仮病にもかかわらず一切のお咎めなしに終わっていたのだ。
 まったく克久様々である。

「でも、なんでお咎めなしにできたわけ?」

 雪乃の素朴な疑問が、周囲にどんよりとした空気を作り出した。
「あ、…あれ?」
「誰にでも知られたくないことの一つや二つは必ずあるんだよ」
「へ、へーえ…」
 克久の笑顔に底知れないものを感じて雪乃は5℃ほど周りの気温が下がるのを感じていた。この時、誰もが克久だけは敵に回すまいと決意してたに違いない。
「ま、そーいうことで」
 割って入ってきた勇馬に一同ほっと胸を撫で下ろしながら、着替え終わった体育着をロッカーにしまい始めた。
「雪乃は三限、そのカッコで受けるつもり?」
「あ、そうだった」
 勇馬に云われてようやく、自分が体育着のまま床にへばりついていたことを思い出す。あわててそれを脱ぎ、着慣れた制服に袖を通した。その間、克久と勇馬は扉近くで着替え終わるのを待っていてくれた。
「雪乃、どんくせーなぁもう」
「うっさい、放っとけって」
 勇馬に散々急かされながら、適当に畳んだ体育着をロッカーに放り入れる。
「盗まれないようにきちんと鍵かけとけよ」
「うわあッ」
 ロッカーの陰から突然現れた人物に腕をつかまれて、雪乃は驚きのあまりベンチにへたり込んでいた。
「おう川中。何か用か?」
「いやァ、お宅の雪乃チャンは相変わらずカワイイねぇ。これはホントウに鍵かけとかないと、マジで体育着盗まれる日もそう遠くないぜ」
「だなぁ、いるもんなそーゆう変態」
「そうそう。ところで今日、昼休みに委員会あんだけどキミらんトコは誰が出席してくれんの?」
「ああ、勇馬が行くよ。毎回、級長代理つとめてるもんな」
「んー。別にいいけど長引くのはゴメンだよ」
「それはこっちも同じコト。誰も貴重な昼休みを会議なんかに費やしたくないって。きっちり五分で終わらせまひょか?」
「おっし、信じたからなその言葉!」
「…………」
 治まらない動悸を胸にまだこっちが座り込んでいるというのに、まるで何事もなかったかのように平然と続けられる会話に雪乃はガクリと肩を落とした。
「…なんでおまえらってそーなんだろ」
「そりゃいまさらだろ。諦めたんじゃなかったっけ?」
「ちぇーっ、だ」
 差し出された川中の手に引き起こされてその場に立ちあがる。その襟元に光るモノを見つけて、雪乃は思わず声を上げていた。
「川中って級長なの?」
 襟元の銀バッジを指して訊くと、今度は川中が深く肩を下ろした。
「それは愚問だろーォ? いままでの会話聞いてても解るし、だいたい雪乃チャンいままで俺に会ってて気づかなかったのかよー」
「…ごめん、全然気づかなかった」
がっくりとベンチに手をつき、人生最大のショックポーズで泣き崩れる川中に慌てて雪乃はその背中に手を合わせた。
「ゴメン、川中…あのっ」
「要するに雪乃チャンは俺なんかまったく眼中にないんだよな」
「そ、そういうわけじゃないよ、川中…。そのホントにそんなつもりじゃ…」
「いーんだ、俺なんかどうでもいんだよな。俺なんかホントは大っ嫌いなんだろ?」
「そ、そんなことないよ、俺スキだよ川中のコト! あ、もちろん変なイミじゃなくて…っ」
「…………」
「川中、ほんとゴメンてば……怒ってるの?」
「……っフ、ギャハハハっ、うそだよーん。おっもしれーな、さすがは雪乃チャン! これじゃ克久たちに遊ばれても無理ないってもんよ。ほーんといいオモチャ、っはは」
「そりゃ、雪乃の数少ないチャームポイントの一つだもんなぁ?」
「…どうせ俺はオモチャだよ」


 更衣室を出て教室に向かう途中、先導した川中が勇馬に会議の概要を説明し始めた。その襟元に治まる小さな銀バッジ。
 勇馬が級長代理というコトはうちのクラスの級長はいったい誰なんだろうか?
 いままでそんなこと気にも留めなかったが。もしかするとやっぱりアイツが…。でも、今日登校してきたばかりの生徒が級長? うちのクラスってそんなにいい加減なんだろうか。それとも…。
 一通り説明し終えると、川中が思い出したようにぽつりと呟いた。
「しっかし、アイツはいつ帰ってくるんだろうなぁ。いないのにまた級長なんて押しつけられちゃってっしさ。まぁ、あれ以上の適任もいないと思うケド」
「誰のコト?」
「キミのクラスの山崎統和のこと。あいつも委員長とかに選ばれちゃうタイプなんだよな。ま、俺と違ってあいつは頼り甲斐あるけど。委員会で一緒になるとついつい俺も頼っちゃうしね、あいつに」
「ふーん」
 これで確信が持てた。さっき教室にいたのはやっぱり山崎本人だったのだ。
 その山崎なら帰ってきてるよ、そう云おうとしたところで突然、勇馬が猛然とダッシュを始めた。何事かと目で追っていくと前方にいた人物に全力でアタックをかける。
「トーワじゃんかッ!」
「おお。久しぶりだな、勇馬」
「何だよいつ帰ってきてたんだよーォ。いつ帰ってくるかぐらいゆっとけよチクショー!」
 首にしがみついて離れない勇馬をよしよしと宥めながら山崎が笑った。
「悪かったよ、急に決まったから連絡もできなくてさ」
 のっそりと近づいていった克久に頭を小突かれて人懐こい笑みを浮かべる。
「久しぶりだな克久」
「おう。案外早かったんだな」
「ウン、思ったよりはね」
 そして互いに右手を打ち合わせてから、山崎は思い出したようにこちらに向き直って片手を上げた。
「よ、誰かと思ったら川中じゃん。元気かよ?」
「おう、俺はもうてっきり忘れられたかと思ってたぜ。おまえこそ元気だったか? ちょうどさっきおまえのコト話してたんだぜ。いつ帰ってくんのかなぁって。それがまさか今日だとは夢にも思わんかったけど」
「ハハっ」
「んじゃ早速、今日から委員会だからよろしくねーん」
「ソレだよー。まったく初登校してみたら俺また級長じゃん? 誰だよホント」
「もうしょーがねぇよ。そーゆう星の下に生まれ、ってやつ?」
 軽口を叩いていた山崎の視線がふいに雪乃の上で止まり、俄かな緊張が雪乃に走った。
「あーそうそう。コレ白石雪乃。俺らのクラスメイト兼、俺のオモチャな」
「誰がじゃっ」
 あんまりな紹介に思わず突っ込みを入れつつ克久に連れ出され山崎の正面へと引き出された。
「えっと、はじめまして…かな、やっぱ」
「…あーどうもヨロシク」
 一瞬だけ目が合い、すぐに反らされた。

 あれ…?
 気の所為かな。

 話題はすぐに別のコトへと切り替わる。だが雪乃が感じた違和感は拭えなかった。
 克久と話してる山崎は普通の好青年である。いや、普通と云うには語弊があるくらいに、山崎は整った容姿をしている。さきほどは伏せられていた睫毛が形よく縁取っている瞳。薄い唇が紡ぎ出すよく通る声。人懐こい笑顔にバランスのいいスタイル。
 世の中にはこんなヤツもいるんだ。妙に感心していると三限目のチャイムが鳴った。
 川中に別れを告げて教室に入ると、すでにきていた英語教師が出欠を取り始める。山崎が隣りの椅子を引いて腰掛けた。その机には何も出ていない。
 あ、教科書揃ってないのか。そう思って口を開きかけたところで山崎は後ろを振り返ると忍野に向かってこう云った。
「悪いけど教科書、見してくんない? すぐ返すから」
「え? ああ…いいけど」
 なんで隣りの白石に借りないんだ、といった雰囲気でちらりと忍野が視線をよこしたが、雪乃は小さく笑うと首を傾げて見せた。別に何でもないよ、っていう合図で。
 気にしてないから、そう伝わってればいいと思った。
 山崎はパラパラと教科書をめくるとすぐに返して前に向き直った。
「あの、さ…、見なくても大丈夫なの?」
 思い切って小声で話しかけてみると、目線はそのままに小声が返ってきた。
「いままで俺、アメリカにいたから」
「あ、そーなんだ。スゴイね。じゃあ英語なんてペラペラだったり…」
「授業解んなくなるから前向いてた方がいいんじゃない?」
「あ…、そだね。ゴメン」
 教師が黒板に例文を書き始める。山崎は前を向いたままこちらには一度も顔を向けなかった。なんとなく話し掛けにくくなってしまった雪乃も、結局ずっと黒板を向いていた。途中、指された問題にも山崎はきれいな発音でスラスラと答えてみせた。英語が大の苦手な雪乃にとってはそれだけでもかなりの尊敬人物なのだが…。
 授業の半ばくらいに忍野からペーパーが回ってきた。そっと開くとノートの切れ端に忍野の字で「気にすんなよ」と書いてあった。雪乃はそれを机にしまうと、山崎には見えないよう密かに後ろにVサインを送った。


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