白石雪乃の場合。 #1



 友達ならいつでもいたよ
 でも半年後にはただの知人になってた
 手紙書くよとか、来年もまたあの海に行こうねとか
 そんな果たされない口約束ばかりが胸に残ってる
 でも、もうそれも終わり
 だって今度は
 再来年の夏休みの計画だってたてられるんだ


 賑やかな朝の教室。
「よ、おはよっ」
 声と同時に思いきり背中を叩かれて、白石雪乃は朝食代わりのコーヒー牛乳を危うく机の上に吹き出す所だった。振り向くと小谷勇馬が人懐こい顔でVサインを示している。おまえなァ、と云いかけたところで唐突に横から出てきた手にテトラパックを奪われる。雪乃の不平はたちまち情けない悲鳴へと変わった。
「俺のコーヒー牛乳ーッ」
「はい、ごちそうさんでした」
 ご丁寧にも握り潰されたテトラパックが机に落下してくる。軽く半分は残っていた中身が、ものの数秒でクソ野郎の胃の中に消えてしまったのだ。
「…カツヒサ」
「おやおや、なーにを怒ってるのかなぁ。いい若者がそんなに心が狭くてどうする?」
 今月ピンチに陥っているなけなしの小遣いで買ったコーヒー牛乳を、きれいさっぱり平らげておきながら篠原克久はにっこりとそんなことを云ってのけた。
「どうするもこうするもあるか、アホッ!」
 繰り出した雪乃のアッパーを軽く交わして、克久はひょいとその腕をつかむと勇馬に向けて目配せを送った。その合図に勇馬が笑顔で応える。
「あらまぁコワイ顔。なんならお兄さんが笑わせてあげてもいいのよ?」
 片指を蠢かせながら不敵に笑う克久に恐れおののき雪乃が椅子ごと壁際へ後退すると、その背中をいつのまに背後に回ったのか勇馬ががっしりと捕まえ、羽交い締めにした。
「ば、ばかやめろ、勇馬…ッ」
「いまだ、克久っ」
「では遠慮なく…」
 克久の手が雪乃の両脇腹へと添えられる。すぐにその指が激しく動き始めた。
「ヒャ、ひゃはははっ、やっ、やめ、アハ、アハハハハハハッ」
 くすぐられて悲鳴とも笑いともつかない声を上げながらどうにか逃れようと雪乃はもがきにもがいたが、しかしそのカワイイ童顔からは想像もつかない勇馬の馬鹿力に押さえ込まれてそれはことごとく失敗に終わった。
「お…まえら、…んじらんねェ…」
 散々オモチャにされてようやくのことで解放された雪乃はすっかり呼吸困難に陥っている。年頃の男子にしては少々細身の肩が荒く上下する。
「雪乃イジメは楽しいねぇ」
「あー面白かった」
「ちっとも面白くないッ!」
 しかし雪乃の抗議はたちどころに却下され、勇馬と克久は満足げに自席へと戻っていった。
「きーっ!」
 やりぱのない怒りを机にぶつける雪乃に苦笑しながら、後席の忍野がそれを宥めにかかる。
「まあね。悔しいのは解るけど、公共物にあたるのはよした方がいいよ」
「だって、あいつらが…っ」
「解ってるって。でもホント…毎朝懲りないよね、篠原たちも白石も」
「俺は釈然としないっ」
「ハハっ。でもサ、それだけ仲いいってコトだろ?」
「う…、うーん…?」
「だろ? 俺、中学から一緒だけどあいつらがあそこまで賑やかな奴らだって知らなかったもん。高校で白石が入ってきてからだぜ、あいつらのテンションが上がったのって」
「…そ、そうかな…?」
「そうだって。ほらヨカッタじゃん、白石」
「え、えーと…」
 忍野に満面笑顔で断言されて雪乃が思わず赤くなっていると、タイミングよくチャイムが鳴って担任が入ってきた。ひとまず会話は中断。赤い顔のまま黒板に向き直る。
 事務連絡を読み上げてから教師はいつもどおり面倒くさそうに出席を取り始めた。
「んー、藍原ァ」
 あ、から始まり雪乃がこの一月で覚えてしまったクラスメイトの名前が順々に呼ばれていく。記憶と一致した顔がそれぞれ手を上げ返事していくのを、横目で確認するのが雪乃の毎朝の日課になっていた。


 春から雪乃が通い始めた私立高校は、高等部の下に中等部が設置されておりそのほとんどがそのまま持ち上がるためいわゆる「内部生」がクラスの半分以上を占めているというのが現状だった。その持ち越された雰囲気の中で「外部生」である雪乃がいままで疎外感を感じずに過ごせてきたのは、ひとえに「友達」の存在が大きいと云える。
「小谷ィ」
「あーい」
 勇馬が机に項垂れたまま片手をひらめかせる。
「何だおまえ、朝っぱらから疲れた顔してんなぁ」
「いやぁ、ちょっとウォーミングアップが過ぎちゃいまして」
 途端にまわりから笑い声が漏れる。またかと肩を竦める教師を勇馬が真似て、笑い声がさらに広がる。勇馬はいつでもクラスの中心に位置している。
 一番はじめに親しくなったのがこの小谷勇馬だった。入学式の日に緊張して校内で迷子になってしまった雪乃に、人懐こく話しかけてきてくれたのが勇馬だったのだ。
 童顔に茶色いネコっ毛がよく似合う、明朗快活な少年。男子にしては低めの雪乃と、充分張れるほどの身長も実は気の合うポイントの一つだったかもしれない。
「篠原ァ」
「うーす」
 その後の入学式で。出席番号順に座らされた席で隣りに座っていたのが篠原克久だったのである。校長が講話中、何回汗を拭うかで克久が下らない賭けを持ちかけてきたのがそもそものきっかけだった。
「白石ィ」
「はーい」
 以来、三人で行動するのが常のパターンとなっていた。
 と云うより、もともと仲のよかった勇馬と克久のコンビに雪乃が加わった、というのが正しい状況といえるかもしれない。
 親の仕事の関係で転校ばかりしていた頃には望めなかった関係である。せっかく親しくなれてもすぐに別れなくてはいけない現実に諦めかけていた人間関係。しかし高校に入り姉と二人暮しを始めたいま、そんな宿命ともすっぱり縁を切っている。
 いま手中にしているかもしれないこの幸運を雪乃は手放したくなかった。少しでもこの中で暮らしていたい。それがもし許されることならば。
「山崎ィ」
「…………」
 最後の一人の名を呼んで、沈黙が返ってくるのを確かめてから教師は出席簿を閉じた。
 この山崎統和というクラスメイトを雪乃は一度も見たことがなかった。入学以来まだ一度も登校してきていないこの山崎という人物に、雪乃は少なからず興味を抱いていた。なにしろ初日の席決めで山崎は雪乃の隣りの席に割り当てられているのだ。だがいまのところ「内部生」だという情報しか雪乃はつかんでいなかった。
 いったいどんな人物なんだろうか。気の合うヤツだといいけれど…。
 しかしそんな雪乃の淡い期待は、数時間後あっさり裏切られることとなった。


 ニ限目の体育。
 仮の腹痛を口実に苦手な床運動を中途で逃げてきた雪乃が、教室にひとまず隠れようと扉を開けるとそこにはすでに先客がきていた。
 雪乃の隣席。いままで該当者不在で空席となっていたその場所に、その人物は腕を枕に眠り込んでいた。
 すぐそばの窓から入ってくる春風に陽に透けた茶色い髪を揺らしながら、どうやらすっかり熟睡しているようだ。
 逆光でよく見えないけれど、雪乃には見覚えのない人物である。
 もしかしたら。
「あ…」
 突如勢いを増した気紛れな風に掲示板のプリントが数枚、飛ばされて宙を舞った。足元に滑り込んできた一枚を拾うと雪乃はとりあえず窓を閉めに窓際に近づいていった。
 眠っている人物を目の当たりにする。
 窓を閉めると揺れていた髪の毛がふわりと静まった。小さく寝息が聞こえている。
 真新しい高等部の制服。
 やはり彼が「山崎」なのだろうか。
 腕に乗せられた端正な横顔。伏せられた長い睫毛。もしここが共学だったら、さぞや女子に持て囃されたであろう容姿の持ち主である。それでいてどこか芯のある感じが男子にも好感を抱かせる。
 それが山崎に対する雪乃の第一印象だった。
 雪乃の場合、最初の印象がわりとその人の本質を突いていることが多かった。いままでの経験の中でもそれは裏打ちされている。それだけ多くの人間と接してきた自信でもある。

 彼とならうまくやっていけそうな気がする。

 内心、雪乃がほっとしているとかすれた声がして山崎が小さく身じろいだ。
 慌てて机から一歩退く。他人に寝顔を見られていた、というのはけっして気分のいいものではない。無論、出会いの場としても望ましい状況とはお世辞にも云えなかった。
 入ってきた時と同じく忍び足で退出しようとした雪乃の目の端で、ふいに何かがキラリと光った。
「あ、…れ?」
 よく見ると彼の襟元には小さな銀バッジが留められていた。
 それはこのクラスの級長であるという印である。しかしソレがなぜ彼の襟元に…。
 カチッ、という時計の音が聞こえた。
 はっとして見上げた時計の針はすでにニ限目終了の時刻を指し示していた。
「ヤっベ…ッ」
 雪乃が教室を走り出るのと、学校中に響き渡るリンゴーンという鐘が鳴り出したのとはほとんど同時だった。
 この大音響なら彼も間違いなく目を覚ましたことだろう。それにせめて終了時には戻っていないと身勝手な教師に何を云われるか解ったものではないのだ。
 教師に見咎められればそれこそ罰則モノだったが、雪乃は人気のない廊下を全力疾走で体育館まで走った。
 担任=体育教師という構図は何かあった場合即刻、一周間の体育倉庫掃除に繋がってしまうのだ。
「そんなんやりたくねーッ」
 渡り廊下を雪乃の俊足が駆け抜けていった。


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