ディナー・ラッシュ #2



 痛い。
 気がつくと頭の中が「痛」の一文字で埋め尽くされそうになる。
 あークソッ、ドジ踏んだ…。

 スローモーションみたいに油が飛んでくるのは目で見えてたのに。
 その先にあった自分の腕を和泉は一ミリたりとも動かすことが出来なかった。コマ送りで自分の腕に叩きつけられた油が、サロンを伝って床に滴り落ちる。
「悪い、大丈夫か!」
 松下の声で時間軸が元に戻る。
 和泉は慌てて右腕をサロンの下に滑り込ませた。
 この時のスピードは我ながら速かったと思う。ワールドレコード狙えるぐらい。そもそも火傷なんてのは日常茶飯事でバイトに入れば一つや二つ、どこかに作って帰るのが当たり前みたいになってて。
 だからこそヤバイと思った。たぶん自分史上、一番ヤバイ火傷だコレ…。
 よりによってこんな時にかよ? 自分で自分が情けなくなる。
「3番でお待ちのお客さまー」
 アップした商品を運びながらトレーの右端にかかった自分の指を見る。小指と薬指を残して、肌の色が変わっていた。なるべく客の視界に右腕が入らないように、トレーを置くなり左手でナプキンホルダーの位置を正すと、和泉はその間に右手をサロンの下に隠した。

 役者は二人。代役はいない。アイツはたぶん、舞台から降りろと云うだろう。
 でも絶対、屈したりなんかしない。意地でもココに留まり続けてやる。

 案の定フロアから帰ると、氷袋持った松下が顔を顰めて待っていた。
「すぐ冷やせ」
「そんなオオゴトじゃない」
「なら見せてみろよ」
「…少し冷やせばすぐに治る」
 代役がいない以上、自分がここで踏ん張らなくてはならない。
 腕を見せたら終わりだ、そう自分に云い聞かせて痛みに耐える。ただでさえ足手纏いなのにこれ以上、迷惑はかけたくない。悔しいけど役立たずの自覚ぐらいある。押し問答を繰り返すうち、公園通り店のマネージャーがヒョイと事務所から顔を覗かせた。
「さっきの何? 大丈夫?」
「ダイジョウブです」
 即座に営業声を使うと、隣で松下が思い切り顔を顰めるのが解った。だってしょーがねえだろ? これ以外の答えがあるんだったらいますぐオマエが云えってんだよ。
「大丈夫ですから」
 普段からあんまり感情を出さない松下のポーカーフェイスは、わりと無敵の部類だと思う。
 スイッチ一つで敏腕セッターに切り替わる横顔。鮮やかな手際が仕上げたバーガーに手を出しかけたところで「動くなよ」小声でその先の動きを制された。いつになく鋭い威嚇に、仕方なく動きを止める。
「4番でお待ちのお客さま」
 フロアに繰り出していく背中を見送りながら、ギュっと右手を握り締める。
 ヒリヒリとまさに焼け付くような傷み。
「もし火傷だったらコレ使って」
「あ、アリガトウございます!」
 咄嗟に明るい声が出せたのは、この胸に張り巡らせた意地のおかげだ。
 熱くて痛くて、サロンの擦れる感触にすら悲鳴を上げたくなる気持ちを必死で押し込める。でもそう長くは保たないから。できれば早くこの場を去って欲しい…。
「時間、平気なんですか?」
「わ、ヤバイ。ぜんぜん平気くない!」
 戻ってきた松下の一言で、ようやくマネージャーの視線が自分の上から外れる。カツカツカツ…と小走りのミュールが厨房を走り抜けて自動ドアに消えていくのを見送って。

「わっ、ちょっ…」

 直後、和泉はまるで猫のように首根っこを掴まれて、事務所の奥へと引き摺り込まれた。並べられたパイプイスに無理やり座らされる。
「なんだよっ」
「いーから。とにかくココで腕、冷やしてろ」
「そんな大したコトない!」
「バーカ。大したことねーヤツがそんなにカオ顰めるかよ。その顔じゃキャッシャーも任せられねー」
「…イタッ」
 サロンの上からそっと触れられる、たったそれだけの刺激が泣き喚きたいぐらいの痛みに呑み込まれる。有無を云わさず、氷袋の中に腕を突っ込まれた。あまりの痛みに視界が涙で歪む。
「い……ッてぇ! このオニ! サド!」
「何とでも云え」
「横暴! 頭デッカチ!」
「いいか。このアイドルタイムが終われば、次はディナーラッシュがくるんだ。オマエは邪魔だから引っ込んでな」
「何でだよ、オレだってレジ打ちぐらいできる!」
「火傷は最初が肝心だ、袋から手ェ出すんじゃねーぞ。氷はまめに補充しろ」
「でも…っ」
「知ってるか? シェフへの返事は三つしかねーんだぜ。イエスか、ノーか、アイドントノーだ」
 んだよ、ソレ? 何処かで聞いたような芝居じみた台詞。
 バカにされてるのかと思ったら一気に頭に血が上った。
「ノー!」
「ふざけんな。いいからオマエはここで大人しくしてろ。オマエがいたところで足手纏いにしかならねーんだよ」
「アイ・ドント・ノー!」
 足手纏いなのは重々承知だ。でもこんな現状でも探せば出来ることぐらい絶対にある。
 それがある以上は引きたくないんだってば! 
 額から滴った汗が右頬を滑り落ちる。
「…ッ」
 まるで不意打ちに伸びてきた指先が、それをそっと拭った。
 視線を上げると、目の縁に溜まってた涙がユラっと揺れた。溜め息交じりに「なあ…」と松下の声が低くなる。

「頼むから、何度も云わせるな」

 尻尾を垂れた犬みたいに、深く項垂れた瞳。
 正面からそれを見て和泉にもようやくそれが解った。ああ、誰よりも自分を責めてるのはコイツの方か…。
 ビニール袋の中で細かく砕けた氷がガシャガシャと鳴る。
 自動ドアの開いた音に反射的顔を向けると、間髪いれず鼻先に指が突きつけられた。
「ココを動くな。返事は?」
「……イエス」
 頷いた拍子、ポンと頭を叩かれて。
 サロンに一滴、涙が落っこちた。
 いらっしゃいませー、とカウンターに向かう背中にはもう何の感情も残ってなくて。チクショウと思う。
 どうしてアイツはスイッチ一つでこんなにも早く切り替えられるんだろう。熱を持った肌とそうでない肌とが袋の中でジンジンと別の痛みを訴える。少し動かしただけでチリチリと神経に障る痛み。
「チクショウ…」
 十分だ。十分だけオマエの云う通り、ここで大人しくしててやるよ。
 でもそれ以上はオマエの懺悔には付き合わないからな。そう心で決めて目を瞑る。
 キャッシャーをこなす声、ホルダーにオーダー票を挟み込むパチンという音、フライヤーに投げ込まれたカゴがガシャンと乱暴に鳴った。パティの焼ける音、冷凍庫を忙しく開け閉めする音、自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませー」
 厨房からフロアに投げかけられる声の頻度が徐々に上がっていく。次第に大きくなるフロアのざわめき。
 過去に一度だけ、坂ノ下で昼ピーに入った日のことを思い出す。商品を出しても出してもキリなく入るオーダーに目が回りそうになったっけ。三人で回しててあれだけ忙しかった昼ピーを、二人で回すこともしょっちゅうだと聞かされた時は開いた口が塞がらなかった。
 それなのに坂ノ下より広い公園通りで、松下は未知の夜ピーを一人で取り仕切ろうとしているのだ。
 チクショウ…、負けてられるかよ。

 イタイ、でも負けたくない。
 イタイ、でもそこまでのヤツだと思われたくないから。
 絶対に負けたくない。

 一分一秒がアホみたいに長くて、進まない時計を何度も確認しながら必死に目を瞑る。
 イタイ、イタクナイ、イタイ、イタクナイ…。油の跳ねる音、ポテトを計る音、コーヒーメーカーのドリップ音、キャッシャーの音、注文を繰り返すアイツの声、引っ切り無しに開閉する自動ドアの音。イタイ、イタクナイ、イタイ、イタクナイ…。
「少々お待ちくださいませ」
 フロアを走り回る子供の声、洗い場に溜まったグラスの崩れる音、パチンパチンと立て続けに鳴るホルダー、電子レンジの音、シェイクマシンの回転音、ガラガラと何度も引き摺り出されては押し込められる冷凍庫の引き出し。イタイ、イタクナイ、イタクナイ、痛くない…!

 電話が鳴った瞬間、頭で考えるよりも先にもう手が動いてた。
 厨房からの剣呑な視線を真っ向から睨み返す。

 自動ドアの開く音。
 わざとアイツの唇に合わせて愛想声を乗せると「いらっしゃいませ」が二重奏になった。
 すぐさま子機の通話ボタンを押す。慣れない左手での操作に思わず取り落としかけたソレを、和泉は無理やり耳元に押し当てた。
「あのー、電話注文お願いしたいんですが…」
「ア、はい、少々お待ちくださいませ」
 チラリと確認した先、ホルダーをぐるりと一周してるオーダー表が見えた。うわ、アリエネエ…。
「申し訳ございません、ただいま少々立て込んでおりまして、お時間いただいてしまうことになるんですが…」
 すらすらと敬語の出てこない自分に腹が立つ。オーダーを断ることなんて滅多にないからこういう時の対応が素早くこなせない。
 モノゴトは臨機応変。応用の利かないヤツはこれだから困るよな。
 いつもアイツに云われてた台詞がいまほど堪えたことはなかった。失意のまま終えた通話をテーブルに置くと、和泉はズカズカと厨房に踏み入った。
 「オイ」と引き止める声は端から無視。すでに半分以上が水になったビニール袋に山ほどの氷を詰め込むと、その冷たさにキリキリと右手が軋んだ痛みをあげた。一気に冷やした所為で感覚がだいぶ麻痺している。
 見上げた時計はちょうど十分が経過したことを告げていた。

 もうオマエの云うことは利かない。

「バカ、オマエがいても邪魔なだけだ。さっさと戻れ」
「うるさい。気に病みたきゃ勝手に病んでろよ。それでも懺悔したきゃ、オレに後でケーキでも奢れ、しこたまな」
 ニヤリ、意図して歪めた唇で笑みを作る。
 アイツが何か云うよりも早く、すかさずそれを満面の営業笑顔に切り替えてやった。
 自動ドアの開いた音。自分でもたまに誰が喋ってんだろうって思うような、高めの声が喉を滑る。
「いらっしゃいませ、コチラでお召し上がりですか?」
 左手でシッとアイツを追いやる。
 ビニールから出した右手の雫をタウパーで拭ってレジ画面の上に乗せる。「あ、持ち帰りで」の一言で「ハイ」と和泉は笑顔で画面をテイクに切り替えた。
 氷で麻痺した指はまるで誰か別の人間の手を扱っているようだ。ヨシ、数分ならこのままでも保たせられる。
「お願いします。ツーパティ、Lポ、テイクで入ります」
「はい、通りました」
 受けた注文をセッターに通しながら、コーヒーメーカーのスイッチを押す。
 レジに張り付いてたオーダー票どおり並べたトレーにミルクと砂糖を二つずつとマドラー、それぞれをセットしながら会計を済ませる。
「こちら、35番でお待ちくださいませ」
 POSの吐き出したレシートと番号札を、笑顔で客に手渡してから踵を返す。
 じわじわと熱を持ち始めた腕が爛れた痛みをいまにも復活させようと試みていた。イタクナイ、イタクナイ…。何度も心の中で唱えながらコーヒーの落ち切ったカップをトレーに並べる。

 イッ………!

 触れた取っ手の熱がそれだけで飛び上がるような痛みを指先にもたらした。
 あーも、だからイタクナイんだってば!
「30番でお待ちのお客さま」
 素早く見回した先、窓際で手を上げた二人連れの女性客の元へと向かう。
 クチ煩そうなオバサン二人組。コーヒー二つにどんだけ待たせるんだと顔中に書いてある。いままで散々カシマシかった井戸端会議が、和泉が近づいた途端にピタリと止んだ。こういう場合は先手必勝。
「タイヘンお待たせいたしました。申し訳ございません」
 相手の口上を遮ってまで詫びを入れても逆効果にしかならないから、タイミングはすごく重要。
 片手間にならないようキチンと頭を下げてから、テーブルにトレーを乗せてもう一度一礼。大概のクレームは応対次第では苦情にも満たずに終わっていただろうことがほとんどだ。
 自分の笑顔一つで、言葉一つで、客の反応がガラリと変わるのが和泉には楽しかった。
 このバイトをやめなかった理由のもう一つはそれかもしれない。この頃ようやくそれを自覚するまでになった。
 だから尚更、アイツにそれを奪われたくなかった。フロアのことなら任しとけ、オマエの出る幕じゃねーんだよって云いたかった。
 ただの意地、でもそこにはイチオウ人並のプライドと誇りがあるんだよ。
「サードまでドリンクは全部、先出しでいってる」
「了解」
 カウンターに入るなり、右手をビニール袋に突っ込む。
 ホルダーをぐるりと囲んだオーダー票、大量オーダーがなかっただけまだマシか…。
 先頭の番号を探してホルダーを回す。これがファーストか? その番号が二十番台だったことに「ワーオ…」和泉は思わず驚嘆の声をあげていた。自分が奥に引っ込んだ時点でオーダー票は一桁台だったハズ。ということは、だ。結局、松下は一人で十数件ものオーダーを捌いてしまったということになる。この夜ピーの。
 ほんとムカツク。
 坂ノ下の深夜帯なら余裕で一人営業をこなしてしまうその腕前は、店長をおして「次期マネージャー候補」と云わしめるだけのモノがある。だが、その松下を持ってしても捌き切れずにオーダー票が一周してしまうとは。
 恐るべし、ディナーラッシュ。
「サードまでアップ」
「あいよ」
 水気を振り切った右手でトレーを掴む。
 左手でウォーマーの下にあったポテトをバーガーの横に乗せてフロアに運ぶ。同じ轍は二度と踏まない。右手を熱源に近づけるのは自殺行為に等しいから、極力熱いものには触れないよう努める。食器類が水でしか洗えないのはこの際しょうがない。空いたトレーを下げテーブルを拭いて椅子を整える。
 自動ドアの開く音、こなすそばから増えていくオーダー票。気付くとフロアは満席になっていた。
「ドリンク全部、先出しでいってるから」
「了解。ファースト、サードアップ。順番前後で頼む」
「あいよ」
 フロアのざわめきで有線がいまにも掻き消されそうになる。
 先のことは考えない。とにかく目の前のものから一つずつ片していこう。松下や他のマネージャーたちのように、自分には何手もの先の未来は見えないから。せめて目の前のコトをベストに運べるように。
 笑顔一つ、言葉一つで足りない部分をフォローしていくしかない。
「悪りィ、テリチ、ロスった…。セカンド、スパチリとポテト先出しで頼む」
「解った」
 いまが夏場じゃなくて心底ヨカッタと思う。製氷機内の氷の量を心配する必要はないから。でも大量の氷を持ってしても、右手がビニール袋の庇護を受けないでいられる時間はほんの数分だ。少しでも無理をすると右手が山火事に遭ったようになる。
 合間を見ては右手を氷付けにして痛みを散らす。だが、だんだんその効果が薄れてきているような気がしてならなかった。額から滴る汗が洗い場の底に落ちる。
 自動ドアの開く音。
「いらっしゃいませー」
 タウパーで汗と水気を拭うと、和泉は小走りにカウンターに向かった。
 尽きることのない来客、減ることのないオーダー。
 フロアは満席、壁際の簡易椅子さえテイク待ちの客でいっぱいだった。さすがにオーダー票がホルダーを一周することはなかったが、ひどくギリギリの線で持ち堪えてる。その実感だけがヒシヒシと押し寄せてくる。時計の針は一向に進まないというのに、オーダーだけは限りなく入ってくる。和泉がキャッシャーに戻ってからまだ二十分しか経っていない。体内時計ではゆうに一時間は経過した気分だった。
「大丈夫か」
「…音は上げないから安心しろよ」
 弱音を吐いたらそこで泣き崩れそうな気がして、クチだけでも強気の体勢を崩さない。
 あー、クソ…。意地でも泣き言なんか云わねーかんな!
「シネマカフェのケーキバイキング!」
「ああ?」
「奢ってくれんだろ?」
「あー…、タラフクな」
 和泉は額の汗を拭うとニコリと満面に笑顔を浮かべた。
「超タノシミ!」
 スマイル、スマイル。気を緩めるとすぐに眉間にシワが寄りそうになる。
 氷に擦れる肌が痛い。ジクジクとした痛みが麻痺した痛覚を喰らい尽くそうとするかのように。
 ヤバイ、氷が効かなくなってきてるのかな…。脳裏をかすめた不安。営業声で押しのけたそれを、和泉は無理やり海馬の隅に押しやった。自動ドアの開く忌々しい音。
「いらっしゃいませー」
 けれど。
 しばらく忘れてた「痛」の一文字がまた脳裏に広がり始めた。
 瞼の裏で点滅してるランプ。チカチカと明滅を繰り返すそれがネオンのような発光を視界に灯した。
 オーダーを取らなきゃいけないのに、目の前の客の姿すらぼやけて見える。イタクナイ、大丈夫、イタクナイ、大丈夫…。
「コチラでお召し上がりですか?」
 胸の内で呪文を唱えつつ、滴る汗を左手で拭う。
 顔の筋肉はいつも通り動かしてるつもりだけど、ちゃんと笑顔になってるかな? なってなくてもしょうがないか…。完璧なんて到底ムリな話だけど、でもどうにかベストだけは目指してるつもりだから。

「客に言い訳は通じないよ」

 目の前の誰かが、低くそう呟いた。
 コンディションの悪いやつがしゃしゃり出てくるなと、一言で断罪された気分だった。
 甘えるな、と注がれる眼差しが語る。そうは云っても、舞台の幕は下りない。緞帳が下がらない以上、観客の前から役者が姿を消すわけにはいかない。暗転して舞台袖に引っ込めればどれだけ楽かって本当は思ってるよ。でも引けないから。譲れないからこうして頑張ってるのに。何でそんなコト云うんだろう?
 キッと見据えようとした出端を挫くように。
「よく頑張ったな」
 ポンと頭を叩かれた。
 緩んでた涙腺からパタリと落ちた涙がカウンターを打つ。

 あ、この声は…。

 カウンター横を抜けた長身がズカズカと厨房の奥に向かうのを慌てて振り返る。
「マネージャー?」
「加勢にきたんだよ、アリガタイだろ?」
「…せめて裏口から入ってきてくださいよ」
「助っ人にデカイ口叩くんじゃねーよ」
「アンタに借りを作んのは不本意ですけどね」
「バーカ。俺は山梨に頼まれたからきたんだよ。オマエに頼まれたってくるワケないだろ?」
「あっそ」
「俺、このまま前はいるからオマエ後ろな」
「はいはい」
 手早く制服に着替えた中澤がキャッシャーに立つ。
「あ、俺…」
「イズミちゃんはバックアップ。冷凍系の補充、頼むよ。それが終わったら腕を冷やすのに専念すること」
「でも俺は…」
「あのね、ベストと精一杯はまた少し違うんだよ」
 痛いコトを云われて口を噤む。
 精一杯であれば許されると思ってたわけじゃないけど、でもしょうがないと諦めてた部分は少なからずあったから。それを埋められる人材がきた以上、出る幕はもうない。
「よく頑張った。もう大丈夫だから」
 トンと背中を押されて厨房への一歩を踏み出す。
 大丈夫って云われた途端、急に体中の力が抜けた。へたり込みそうになった体をアイツの腕が支える。「もう大丈夫だ」繰り返し云われてまた涙腺が緩みそうになった。
「オレ、足手纏いだった?」
「この混雑でクレームが出なかったのは、オマエの接客応対の成果なんじゃねーのか」
 一瞬、腕の痛みも何もかもどうでもいいって気さえした。
 松下の口からその一言が引き出せたのがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
 誰かが自分の価値を認めてくれるって、なんて嬉しい、誇らしい、すごいことなんだろう。
「悪かったな」
「ケーキ食べ放題」
「…解ったっつの」
「ならヨロシイ。で、冷凍系ナニが足らない?」
「あー…パティ二列とチキン、フィッシュ、ロース一列ずつ。ポテト、ナゲ一袋ずつ。あとミネも一袋、解凍な」
「ラジャ」
 冷凍系の補充を一通り終わらせてパイプイスに腰かける。
 ガシャガシャと鳴る氷水に右腕を浸しながら、そういえば山梨が置いていった薬があるはず、と視線を転じたテーブルの上。なぜか開いたままになった携帯が薬の横に置いてあった。
 見慣れないソレは中澤のものだろう。液晶に浮かんだ文字が何となしに目の端を過ぎる。

「え?」

 和泉くんへ、で始まる文章が液晶を埋め尽くしていた。
 火傷の応急処置から効果的な薬の用い方に至るまで、山梨のメールのあまりの事細かさに和泉は思わず苦笑を浮かべた。
 何だ、結局バレてたんじゃん…。今度会ったらお礼を云わなきゃな。
 見上げた時計はいつの間にやら、ディナーラッシュがもう後半に差し掛かっているコトを示していた。
 渦中にいた時はあんなに長く感じたのに、いま思うとあっという間の出来事だった気がする。
 まだ腕は死ぬほど痛いし、この分じゃ明日ビョーイン行くハメになるだろうけど。でもこの痛みと引き換えに得たモノは大きかった気がするから。

 ケーキバイキングの約束も取り付けたコトだしね!
 週末はアイツを連れてシネマカフェで豪遊だ。
 それを考えるだけで胸がワクワクしてくる。
 イタイけどウレシイ、イタイけどタノシミ。
 セッターを切り盛りする背中を眺めながら、和泉は思わず満面に笑顔を浮かべた。


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end


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