PK #2



「関、呼んでるぜ」


 五限と六限の僅かな合間。
 移動の準備をしていた関の襟首にクラスメイトの指がかけられた。
「なに」
「前の扉」
 示されて振り向いた先には、ここ何週間かで急に見慣れた顔が立っていた。
 予鈴が鳴る。
「先、行ってろよ」
「代返は頼まれねーぞ?」
「いーよ、出席日数足りてっから」
 本鈴を待たずに人払いの済んだ教室内に内塚を招きいれる。
 廊下を通り過ぎていく幾つもの喧騒たち。近づいては遠退く足音。やがて本鈴が鳴った。照明の消えた室内に気だるげな薄闇がヒタヒタと満ちる。
「で、何の用だ」
「とっくに察しついてるくせに」
 着崩された制服が包む、成長途上の体躯。
 開いたシャツに緩められたタイ、それでもだらしなく見えないのは背筋が真っ直ぐ伸びているからだろうか。高校棟舎に臆する気配もなく、内塚は手近にあった机にヒョイと腰かけると脚を組んだ。
 灰色のロッカーに背を預けたまま、関は黙ってそれを眺めていた。午後の日差しが翳る。絵筆で色を重ねていくように、室内の陰が濃度を増していった。
「あいつの心変わりなんていつものことなんですよ。いいかげん拘るのやめてくれませんか?」
「おまえに口出しされる筋合いはない」
「それともフラれたことにムカついちゃってるんだ? 色男のプライドが許さないとか」
 あからさまな挑発を無言で流し、関は勢いをつけて体を起こすとポケットに手を入れたまま窓際へと移動した。開け放した窓から吹いてくる風が教室内を抜けていく。
 そんなことを云いにわざわざきたのか?
 窓枠に肘をかけ視線で促すと、内塚は口元に苦笑を浮かべた。
「乗ってはくれない、か」
 チクチクと秒針が時を刻む音。
 ややして机を降りた内塚が関の隣に並んだ。窓枠を背にする関とは逆に、外に目を向け口を噤む。暢気な鳥の声。ビオトープで実習をしている中学生たちのにぎやかな私語がここまで聞こえてくる。
「あいつを泣かすやつは許さない。それが俺の信条なんですよ」
 急に気が削がれたように、ぼそりと内塚が呟いた。そこにいるのは慇懃無礼に関を追い返し、面と向かってケンカを売ってきたあの強気な内塚ではなかった。
 ポーズのうまいやつだ、と思う。いまのいままで、関はあの内塚が素の内塚だと思っていたのだから。知らずに漏れた溜め息が、関の前髪を吹き上げる。
 泣かした自信ならイヤってほどあった。
「これ以上、あいつが泣くのを見るのは耐えられない」
「…………」
 何も云えなかった。何か云う資格があるとも思えなかった。


 関が抱くたびに、詔平は腕の中で涙を流した。
 理由を尋ねても首を振るばかりで何も云わない詔平を、関はただ抱き締めることしかできなかった。泣かしているのは自分。確信はあるのに、その事実に触れることができない。
 上滑りする言葉と感情。もどかしく痛ましいキスと、セックス。
いくら重ねても交わらない心と体。それでも離したくないと思ってたんだ。泣かしてもいいから繋ぎ止めておきたかった。だから罰があたったのかもしれない。でも、それでも。
 これが自分たち二人のエンドロールだとは、どうしても思えなかった。


「先輩、俺と勝負してくれませんか」
 窓枠に両手をかけて内塚が軽く上体を反らす。
 覗き込んできた顔に、躊躇いや後悔の色はなかった。
「あいつをかけて、俺と勝負してくださいよ」
 ゴーっ、と鼓膜に振動が響く。強風が教室を吹き抜けていった。教卓に放置されてたプリントが次々に宙を舞う。
 スローモーションで視界を過ぎっていく白。
「おまえが勝ったらどうする気だ?」
「二度と詔平には近づかないでください」
 厳しい口調と、断罪の眼差しとが関の心臓を射抜く。
 風に乗って斜めに空を切ったプリントが、静かにその身を床に横たえた。死に絶えた数枚の紙。四角く切り取られた床の白さが薄闇にぼんやり浮き上がって見えた。
「もし、俺が勝ったら」
「その時は俺が身を引きますよ」
 一歩も譲らない視線。ここで引いたら男じゃないだろう。
「勝負法は?」
「俺と、あんたの得意分野で」



「なあなあ聞いた? 関がJリーグユースと一対一やってるってさ」
「ハ? 何でまた」
「それが女を賭けてるとか、賭けてないとか…」
 詔平が振り向いた時には、噂をしていた上級生たちはすでに消えていた。廊下を走っていく複数の足音。グラウンドの方へと消えていったそれが、詔平の不安をジワジワと煽りたてた。
(……まさか、ね)
 だが確信に近い予感を抱きながら、詔平は思わずその後を追った。
 中学棟舎を抜けて、体育館横の細道を小走りに進む。
「関、モタモタやってんじゃねーぞ!」
「負けんなよ、中坊っ」
「年上の意地を見せろよ、関ーっ」
 いきなり開けた視界の中で、サッカーゴールを前に攻防している二人の姿が見えた。
「何、やってんの…」
 誰にともなく問いかける。
 授業中だというのに、かなりのギャラリーが好き勝手に周りで囃し立てていた。
「どっち勝ってるって?」
「それがずーっと平行線よ、向こうが入れれば関も負けずに突破するって感じでさ」
「オンナ賭けてるって、アレまじ?」
「あのタラシの関がか? 有り得ねー」
「でも、あの白熱ぶりはどうよ」
 次第に増えつつあるギャラリーが無責任な声援を次々に送る。その野次も歓声もまるで耳に届かないかのように、ムキになってボールを追いかける二人。
 素早いフェイントに関が一瞬引っかかる。だが内塚が抜き去るよりも早く、体勢を立て直した関がすばやくその前に回り込んだ。視線の駆け引き。
「あ…っ」
 内塚がほんの一瞬目を逸らした隙に、関が奪ったボールを前へと思い切り蹴り上げた。
 対応の遅れた内塚の横をすり抜け、ゴール前へとダッシュする背中。滑り込んだ地点にピンポイントで落ちてきたボールを関がダイレクトで決めた。


「これで4−4ね」
 いつのまに並んだのか、詔平のすぐ横に早乙女が立っていた。
「あらあら、焦ると元も子もないわよー?」
 関の強引な突破に対して、内塚が冷静にその身を翻す。巧みなフェイント。だが見切りに関しては内塚の方が上手だった。伸ばされた足先にボールがぴたりと吸いつく。
 攻守の逆転。内塚の素早い切り返しに関の反応が僅かに遅れる。そしてそのまま追いつく間もなく、ボールはゴールマウスへと吸い込まれていった。
「ほーら、ご覧なさい」
 スコアは5−4。内塚のリーチだ。
「しかしよく飽きないもんねェ」
 関が追いつけば内塚がまたリードする。逆もまた然り。
 これで何度目の対峙になるのか、ボールを持った関の足に今度は内塚のタックルが入った。咄嗟に上に逃れた関が、バランスを崩しながらも浮かせたボールを空中でキープする。
「へーえ、なかなかやるじゃない?」
 ワントラップでシュート。ゴールネットが揺れた。また振出しに戻るスコア。
「それでどんな気分? 二人のオトコが自分を争って戦ってるなんて」
 風に乗り、微かに聞こえてくる遠雷の音。
 気づけば雲行きの怪しくなった空がグルグルと頭上でとぐろを巻いていた。雨が降るのは時間の問題だろう。
「――関ね、この二週間で全ての女のストックを切ったのよ。理由は本命ができたから、ですって」
 制服が汚れるのも構わず、土にまみれてボールを追う二人。
 やがて降り出した大粒の雨に、物見高かったギャラリーたちもさすがに一人二人と数を減らしはじめた。
「あの関が恋愛事でここまで熱くなるなんてね」
 ポン、と音を立てて開いた水色の傘を手渡される。
「いま春日と蓮科が派手に大ゲンカしてるじゃない? 関ったらぜんぜん気付いてないみたいだから親切に教えてあげたのに、いまはソレどころじゃないんですって」
「匡平が、大ゲンカ…?」
「あらヤダ、詔平ちゃんも知らないのー?」
 早乙女の声が急に遠く感じられた。
 もう三週間近く冷戦してるのよ、あの二人。少しは周りの身にもなれってのよねー。
 雨風の向こうに消えていく声。
 冷たいはずの二月の雨が、なぜか熱くてしょうがなかった。
 逆転に次ぐ逆転。ひどい土砂降りの中、スコアが10-10になったところで勝負はPK戦に持ち込まれることになった。続く平行線。ひどくなる雨足。関が止めれば内塚も負けずにボールを弾く。
 内塚が右隅に決めれば、関もサイドネットを揺らした。

 その攻防がどれだけ続いたろうか。
 熱戦の末、泥水に座り込んだまま動かなくなった関の上に、詔平は水色の傘を傾けた。
「ったく、誰かサンの所為で泥塗れだぜ…」
 土のグラウンドに叩きつけられた雨が景色を白く煙らせる。勝負が終わって、もうだいぶ経っている。
 グラウンドに残ってるのは関と詔平の二人だけだった。雷の音が近づいてくる。
「手ェ貸せよ」
 差し出された手に、躊躇いながらも手を伸ばす。
 途端につかまれた手を力強く引かれた。もつれる足。転がる傘。
 鼓膜を打つ雨の音が、一気に遠くなった。



「ちぇ、負けたか…」
 はっきり云って勝算はかなりあった。負ける気なんてサラサラなかったのに。
 最後は力で捩じ伏せられた。止められて、決められて。
 目の前で詔平をかっ攫われてった。
 まあ元々本気じゃなかったし、なんて――。いくら口で云っても痛む胸は誤魔化せない。
 でも、それよりも大事なことがあるから。
「おまえが幸せならそれでいーよ」
 ズブ濡れの制服を引き摺りながら、内塚は体育館の扉を開いた。



「やっと、捕まえたぜ」
 倒れ込んだ体を有無をいわさず抱きすくめられる。
 熱い腕の中で、詔平は身じろぎ一つ許されなかった。
「もう逃がさねェ…」
 二月の雨で冷え切っていた体が、密着した部分から急激に熱を持ちはじめる。
 火傷しそうな錯覚に思わず身を捻じるとさらに腕に力を籠められた。
「この二週間、おまえのことしか考えてなかった」
 項に押しつけられた唇が囁く。眩暈を誘発するような熱い吐息。甘い囁き。
「どうすればおまえを取り戻せるかって、そればっか考えてた」
 押し付けられた胸の鼓動がダイレクトで伝わってくる。詔平はつかんだシャツを思わず握り締めた。
「俺を嫌いなら嫌いだって云えよ。そしたら大人しくフラれてやっから」
「……っ」
 嗚咽を堪えて必死に首を振る。関のシャツに詔平の涙が新たに沁み込んでいった。
「なら、そばにいろよ」
「先輩…」
「考えてみたら、ちゃんと好きだって云ったことなかったよな」
 耳元で何度も囁かれる台詞。
 繰り返し吹き込まれる、甘い痺れ。
 止まらない涙をシャツに押し付けながら、詔平も縋りつく腕に力を込めた。
 好きな人が自分を好きだと云ってくれる奇跡。
 いまならどんなことだって出来そうな気がした。
 冷たい雨の中、のぼせそうな熱が二人を支配する。激しい雨に遮断される景色。もう何も目に入らなかった。
「おまえが信じるまで何度でも云ってやる」


 繰り返されるキスの甘さに、詔平は気の遠くなるような幸福感に包まれた。


prev / << )


end


back #