Endless Summer #2



「そろそろ起きろよ、春日」


 遠いところにあった意識が、誰かの声でハイエースの中まで引き戻される。
 例によって例の如く、俺はすっかり寝込んでいたらしい。車中にいるのはすでに自分一人だった。目覚めを促したのが水柳の声だったことに気づいて、あたりにぐるりと視線を巡らせる。
 一体いつ目的地に到着したんだか、まるで覚えがなかった。とても駐車場には見えない草っ原のど真ん中に停車しているハイエース、その車体を夕暮れ時の温んだ空気が鬱蒼と取り囲んでいた。寝付くまでの喧騒がまるで嘘みたいに静まり返った車内。
「それにしても…」
 開け放したドアから流れてくる水柳の呆れた視線が痛かった。
「冷房切れの車内でよく寝てられんな」
「あー…どこでも寝れんのいちおう特技だから…?」
 窓の外で夏草を揺らしてた風が、ふわりと寝起きの肌を撫でていった。暮れはじめた日が窓の外の風景をセピア色に塗り変えている。
「つーか、俺ハブられた?」
「や。よく寝てるから起こすなって、蓮科が」
「ああ…」
 まあ、俺の寝不足の原因はいつだってアイツが作ってるからな…。おかげで今日もウッカリ人目に晒せない箇所が体のあちこちにいくつもあった。特に首筋とか、首筋とか、首筋とか…。
「で、蓮科は?」
「買い出し隊。王子の眠気覚ましに何か買い行ったみたいだぜ?」
「ふうん…アイスティー希望…」
「いや、俺に云われてもな」
 まだ頭のどこかが覚醒してないのか、思考の端々にモヤがかかっているような気がする。とりあえずここにいてもしょーがねーよな。窮屈だった車中からずるずると這い出したところで、俺は「んーっ」と思い切り縦に体を引き伸ばした。さらさらと風に揺れている夏草がサンダルの足元にくすぐったい。
「あ、潮の匂いする」
「そりゃーもう海ですから」
 そう云って示された方向を見た途端、ザザーン…と急に波の音が聞こえた気がした。ようやく意識が状況をきちんと把握したんだろう。なんだか急に眠気が醒めた気がした。
「海だ」
「うん、海だね」
「やっべ、走りてー…!」
「何? 春日ってわりと熱い系?」
「や、走るだろフツウ?」
 海を見て走らずして何が青春! すでにスタート体勢に入っていた体を引きとめたのは、「はい、ストップ」背後から子猫よろしく首根っこをつかんできた誰かの手だった。
「海は逃げねーからそう焦んな?」
 引っ張られて開いた襟首に、硬くてつるりとした冷たい感触を滑り込まされる。
「う、わ冷たっ」
「レモンなかったからストレートな」
 慌てて背中でキャッチしたボトルが、たぷんとした水の揺らぎを掌に伝えた。さっすが俺のお抱えシェフ、このへんの好みは掌握してますね、と。
「何、おまえら以心伝心? なんかヤラシくねー?」
「つーか、水柳が云うとほんとヤラシく聞こえるから不思議だよなぁ」
 ハイエースにもたれてたアディダスのTシャツが目に見えてガクンと肩を落とした。
「…春日にしみじみ云われるとなんか堪えるなぁ、それ」
 そりゃ日頃の行いが悪いせいだろう。水柳の双子といえば五組の野宮と並んで、学年では最悪の女癖を誇る救いようのないタラシの一人だ。一卵性双生児の利点を悪用し、兄弟で近隣の女子を軒並みたらし込んでいるのは中学の頃からすでに有名だった。これに比べれは蓮科の八方美人ぶりなんて可愛いもんだ。だからといって許容できる問題じゃあ勿論ねーけどな、蓮科の悪癖も。
「そーいや最近大人しいな、オマエらも野宮も」
「俺らも少しは大人になったのよ?」
「へーえ。枯れたの間違いじゃなくて?」
「春日くーん、そういう減らず口叩いてっと実地で解らせちゃうぞー?」
 不穏な申し出に、すかさず蓮科の右手が飛んだ。水柳の側頭部がボコンと間抜けな音を立てた。
「実行したら差し歯じゃ済まねーぜ?」
「うわ、拳が飛ぶって? 友基の二の舞はゴメンだね」
 そう云いながら、水柳が左の頬を片手で押さえる。
「あー殴られたんだっけ?」
「違う、回し蹴り」
 女遊びが過ぎた結果、学校に他校の女子が乗り込んでくることも去年はたびたびあった。残念ながら俺は一度もその場に居合わせたことはないのだが、その際に見事な回し蹴りを食らい差し歯になったのはどうやらもう一人の水柳の方らしい。ということは、いま目の前にいるのは二組の方の水柳か?
 可愛い女の子を共有したい、というしょーもない野望の元、お互いを似せている双方の努力も根底にはあるんだろうが、さすがはDNAの神秘。たとえいま友基の方が友哉を騙っているんだとしても、きっと今日のメンバーでは誰もそれを暴くことはできないだろう。
 ましてやこんな夕暮れ時の、薄闇フィルターがかかった海辺ならなおさらだ。
「ま、火遊びも程々にしとけ?」
「つーかそれはお宅の彼氏に云っとけ?」
 反射的に見てしまった蓮科の顔が「とばっちりだし…」と苦笑で歪む。それがなんだか妙に子供じみて見えて、俺は思わず笑ってしまった。


「ちょっとー、ごはんタイムよー!」


 波の音にかぶさるように、どこか遠くの方から早乙女の張り切った声が聞こえる。そういえば早乙女のカバンにレジャーシートやら何やら、たくさん詰め込まれていたのを思い出す。
 暑さの引いた海辺でピクニックとは、また洒落た試みだが…。
「まさか早乙女のおむすびで…?」
「いや、ちゃんと神奈川がコンビニでいろいろ買い込んでた」
「あ、よかった…俺いま想像だけで寿命縮んだもん」
 早乙女の傍迷惑な趣味「料理」は、二年に進級したいまも現在進行形で周囲の人間を恐怖に陥れている。学園祭や音楽祭など、イベントごとに強烈なプロパガンダを行った結果、いまや全校中の人間に漏れなく知れ渡っていることだろう。早乙女の料理がバイオハザード級にヤバイということは。
「食いっぱぐれても知らないわよー!」
「いま行くっつーの!」
 ハイエースの鍵を抜いた水柳に続いて、再三呼びかけられる早乙女の招集に、俺たちも大人しく従うことにする。さっきよりもずいぶん濃くなった闇が海辺を取り巻く中、夕日をそのまま浜辺に取り分けたような焚き火がパチパチと小さくはぜているのが見えた。


 

 サンダルを脱ぎ捨てて踏んだ砂は、まだほんの少しだけ温かい。昼間の名残りをゆっくりと踏みしめながら波打ち際へ向かうと、急に足の裏が冷たくなった。濡れて硬くなった地面にクッキリと残る足形。やがてその一つを、打ち寄せた波がキレイにさらっていった。
 そしてまた打ち寄せる波。
 思ってたよりも温い水温が足首までを満たしていた。去りゆく波を足の裏で感じる。きつく踏みしめた指の間から、逃げていく砂と水の感触。    これって何かに似てるなって唐突に思った。
 何だろう…。

    逃げていく、留まらない、止めようのない、少しだけ悲しい気持ち。

 見上げた空には、もう月が浮かんでいた。雲ひとつない真っ黒な夜空に、ぽっかりと一人取り残されたような月。でもそれが寂しく見えないのは、さっきから背後で賑やかな酒盛りが繰り広げられているからだろう。
 けっきょく浜辺に残った葛井を交えて、砂浜では不思議なメンバーでの酒宴が続いていた。未成年の飲酒に何も云わない教師ってのもどうかと思うが、よく見てみれば一人だけ酒を飲まずにさっきからウーロン茶で苦い顔をしているのも神奈川だった。何かあった時に車を動かせるのは自分だけだという自覚があるんだろう。鞭と飴の使い分けが人とはちょっと…いやだいぶ違うだけで、神奈川は神奈川なりに教師という仕事を楽しんでいるのかもしれないと思うこともある。妙なところで面倒見いいしな。

「変な教師…」
「ホントにね」

 気づいたら缶ビールを手にした早乙女が、俺の少し後ろで笑っていた。
 パシャパシャと近づいてきた水音が隣りで止まる。
「こんなコトに付き合ってくれちゃうしねェ」
「ホント。つーか、よく動いたなアレが」
「ああ。あたしね、アイツの弱み一つ握ってるのよ」
「まじで?」
「でもすごく些細なことなのよ。はっきり云って弱みでもなんでもないようなコトなの」
 なのに…と言葉を切った早乙女が、俯き加減に足元の波を見つめる。
 どこから流れてきたのか、小さな水中ゴーグルが波に煽られてプカプカ揺れていた。それを拾い上げた早乙女が、レンズに溜まってた海水をざらっと波間にあける。月の光を浴びた水滴が、キラキラと踊りながら宙に舞った。
「ねえ、春日はアイツの長所ってなんだと思う?」
「へ? 神奈川の? んー…精神年齢が俺たちと同じぐらい、ってとこ?」
 むしろそれは短所だろう、と六組の人間なら声を揃えて大合唱することだろう。そのテの苦労話は夏目からも若菜からも重複してよく聞かされている。でもそれはそれで楽しそうじゃねえか、というのはやはりあくまでも部外者の意見なんだろう。まあうちの担任も食えないからな…。担任の苦労話なら、三組も何気に負けてはいない。つーか、そこ張り合うところじゃないし。
「まあそれもそうなんだけど、あたしが一番救われたのはね」
早乙女が摘んだレンズを片目にあてて、ニッと歯を見せて笑って見せた。
「人を色眼鏡で見ないこと」
「…ああ」
 早乙女がけして嘘だけはつかないのに似て、神奈川も建前という言葉の存在すらを知らないらしい。だが傍若無人に見えるあの言動も、すべては本音からくるものだと思えばそれはそれで誠実さの現れと云えなくもない。キツイことも散々云うけれど、神奈川の言葉には常にどこか温かみがあった。
 本音で、本当のことしか云わないから。
 なんだかんだ云われながらも、生徒の絶大な信頼を得ているのだろう。
「諸刃の剣だけどな」
 受け持たれてる生徒しか云えない台詞を零しながら、蓮科が波間に足を浸す。寄せては返し、また寄せる波が、少しずつ水位を上げているような気がした。
 まだ少し温いような、けれどずっと浸かっていると冷たいような。不思議な感覚。
 これも何かに似ているなって思った。
 ぬるま湯で甘やかされているような、少しずつ世間の冷水を浴びせかけられているような…。

 ああ、これは学校に似てるんだ
 いま俺たちが、置かれている状況に。

 いつまでもここにいたいような、けれどいつまでもいるわけにはいかない場所。
 そういう所に俺たちはまだほんの少しだけ、留まることを許されているんだ。ぬるんだ水中に足を浸して、はたして前に進むのか後退するのか。あるいは横に進むのか、もしくは空に飛び立つことを夢想するのか。ずっと先だと思ってた未来がそこにあるのを、俺は初めて明確に意識した。
「ねえ、知ってた?」
「え?」
 悪戯を思いついたような顔つきで、囁きを耳打ちした早乙女がするりと踵を返す。
 直後に、背後であがった騒がしい歓声。見ると何色もの炎が暗闇に細い筋を焼きつけていた。
「ちょっと! 主催のあたしナシではじめるなんて!」
 持ってた水中ゴーグルを渾身の力で浜辺に投げ込んでから、それを追いかけるように早乙女がバシャバシャと波を蹴り上げながら走り出す。


『いまこの瞬間があたしたち一番若いのよ。一秒ごとに、一瞬ごとに年を取ってるの』


 囁きの余韻に被さるように、足元で砕けた波がザザン…と鳴いた。
 体のどこかに残ってたアルコール分が、すっと後頭部から抜けていったような気がした。
 左手に触れた熱い体温が、ぎゅっと俺の手を握り締める。怖いような嬉しいような、楽しみなような残念なような…混ざりきってよく解らなくなった気持ちが、いつのまにか俺の頬を静かに濡らしてた。
 自分の外側を、内側を、いままでに行き過ぎていった思いがどれだけあったかなんて知らない。握り締めた指の隙間から零れ落ちていったものも数え切れないだろう。でもたった一つでもつかめたものがあるならそこに意味はあるし、それはいつか自信に、誇りに、そして指針になるだろう。
 俺はいつまでもここに立っていたいわけじゃないから。
 波に攫われる砂のように流れ続けるこの時間を、止めたいなんて思わない。
 変わらないことに価値があるんじゃなくて、変われることにこそ意味があるんだ。その可能性にこそ。だから。

「来年は二人でこようぜ」
「…ん」
 かすれた返事は蓮科までちゃんと届いただろうか。
 その答えを繋いだ左手に感じながら、俺は拭いた涙を波間に散らした。


 思いがけず溢れてしまった涙をどうにか引っ込めたところで、俺は蓮科の後について砂浜に戻った。濡れた足にまとわりつく砂が妙に温かく感じる。
「はい、コレ春日の」
「…え、袋ごと?」
「そ。一人二袋以上あるから」
「…………」
 見ればレジャーシートには、まだまだ花火が山のように積まれている。オイオイいくらなんでも買い過ぎだろう…。そう思いつつも、心の一部が逸って動き出すのを止められなかった。こんなにも大量の花火を消費するのなんて、たぶん後にも先にもこれ一度きりだ。どうせならこの夜を胸に刻みつけておきたいから。
 薄っぺらい先端をロウソクの火に近づける。手持ち花火から噴き上がった炎が鮮烈な緑色を暗闇に焼きつけた。緑から赤、赤から黄色へと、移り変わる色合いが乾いた砂地の微妙な陰影を浮き上がらせる。
 ほんの数十秒間のレビュー。
 勢いを失った炎が最後の悪足掻きのように青い閃光を辺りに撒き散らした。


 燃え続ける花火がないように。
 明けない夜がないように。
 終わらない夏も、どこにもない。
 時間を止めることなんて誰にもできないけれど。


 この夏が胸のうちで褪せることはないだろう。


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