アンチテーゼ #9



Finale eternal to the chest pain set free.
解き放つ胸の痛みに永遠のフィナーレ。


下りてくる唇を一秒だって待ちきれなくて。
「ん、ン…ッ」
南は爪先立つと倉貫の首筋に両腕で縋った。何度も唇を入れ替えるうちカクンと膝から下の力が抜ける。それでも両手でブレザーにしがみつくと南は与えられる熱を欲望のまま素直に受け止めた。閉じた瞼にチラチラと光が乱反射する。うっすら目を開けると辺り一面に白い花が降ってるのが見えた。ややしてそれが紙ふぶきだと気付く。白光に満ちた世界に絶えず降り注ぐ白い紙片。外界から隔絶されたようなその光景に南は意識が飲み込まれていくのを感じた。
「んっ、あっ、あ…ッ」
制服の上から体中を撫で回されて、思わず外れた唇から甘い声がもれる。意識の芯がドロドロに溶けていくみたいだ。逃げた腰をつかまれてさらにキツク抱き寄せられる。押し付けられた体で熱をこすられ悲鳴に近い声が上がってしまう。それをまた唇で塞がれ、舌で制圧される。
「んッ、んン…っ」
限界にきてた握力が倉貫の背を滑り、力の抜けた体がその場にへたり込んだ。倉貫の手がなかったらその場に蹲っていたことだろう。倉貫の腕の中、整わない呼吸に胸を喘がせる。右頬を滑っていた指先がツイと南の顎を持ち上げた。片目だけ眇めた視線が落ちてくる。
「すげえヤラシー顔」
「んなの、誰の所為だと思って…」
「無理やり五回はイカされたって顔してるぜ?」
倉貫って絶対セクハラ大王だと思う。でも気分的にはソレに近いかも?顎を逸らして指先の拘束を逃れると南はシャツに右頬を埋めた。倉貫の匂いがする。ブルガリブラックとほのかに煙草の入り混じった匂い。それがこんなにも落ち着くなんて…。その香りに包まれながら、南は白い花が絶え間なく降るユメのような様をぼんやり眺めた。
「…ずいぶん痩せたな」
大人しくなった南のボディラインを倉貫の手が左右からまさぐる。それこそ誰の所為だと思って…。緩んだ腕に離されたくなくて、南は倉貫のシャツをもう一度きつく握り締めた。風に煽られた紙ふぶきが上昇気流に乗ってはまた舞い降りてくる。まるで花の嵐のようだ。
「誰が紙ふぶきなんて」
「さっき上にハルがいたからアイツの仕業なんじゃねーの?」
瀬戸内の名前に南が押し黙る。沈黙の意味に気付いたらしい倉貫が声のトーンをさっきより少し落とした。
「云っとくけどハルとはあの日以来ヤッてねーよ」
「…ホントに?」
「ああ、誓って云う」
「じゃあ頑張って信じてみる」
「あのな、頑張らないでも信じろっつーの」
耳元でカサカサと音を立てて散っていく紙ふぶき。南の髪に埋もれた紙片を倉貫の指が振り払った。見上げると倉貫の目の中にいるジブンが自分を見下ろしている。唇が重なる直前になって「アレ?」南の口から疑問符が零れた。
「つーかコレ、衆人環視っぽくない?」
最後のクエスチョンマークを柔らかく啄ばんだ唇が低く「散れ」とギャラリーに呟く。
「見世物じゃねーんだよ」
舞台中央に陣取りながらの勝手な云い分。だが口を挟める輩がいるはずもなく。五秒後、ステージはすっかりフェイマス・ラヴァーズのものになっていた。



「聞いた?」
「いや、聞くまでもなく知ってるよ」
ピンであれだけ有名なヤツらが二人も揃えば当然周囲の関心度も高い。今頃は育ちすぎた縁日の金魚ばりに無駄に長い尾ひれがついて回っている頃だろう。如月からもたらされた話はまだ切敷の知る範疇を超えてはいない。出所がより当事者に近いところというわけ。もしくは当事者本人。パンと乾いた音がして視界が前方から右に切り替わった。
「泣いてたわよ、あのコ」
「そりゃ泣かしたんだから当然なハナシ」
「あら、重荷になったってワケ?」
「ハ、まさか」
五年もの長い間、重荷を抱えるほど酔狂ではない。ただ「友人」「保護者」「従者」いずれの定義にも自分はけっきょく当てはまらなかった。そんな定義に縛られること自体、無意味だとは思うけれど。しかし「セフレ」にだけはピッタリ当てはまるってのもちょっとな。最初に誘われたのは高一の六月くらいだったろうか。裏庭の合歓の木が花をつけていたのをよく覚えている。
「切敷、俺とヤんない?」
何の脈絡もなく告げられた台詞。あの時、清には彼女がいたから消去法で自分に振られた話だったんだろう。南の突飛な言動には中学の三年間でだいぶ免疫ができてたから、軽く承諾してそのままどっかの準備室に潜り込んだような気がする。手馴れた所作にへえコイツ男いるんだと妙に感心したっけ。異性相手のソレとは違い、同性を相手にするのは想像以上に勝手が違った。けれどもっと想像を絶したのは、オトコ慣れした南のカラダと痴態だった。免疫と抗体がなかったらあのカラダに溺死していたかもれない。幸い、自分にも清にもその抗体があったから事なきを得たが、たぶん南を抱いてるもう一人の人間はアウトだろうな。思っていたらやっぱりその通り、完全にアウトだった。けれどそれよりも確実にアウトだったのが南自身。
「如月はいつから気付いてた?」
「ナミが憂いをまとい始めてすぐにね」
甘やかすばかりが愛情じゃないとはよく云ったもんだ。家族も含め、周囲にスパルタがいなかったおかげで丹念に育まれた天然はいつのまにやらあんな難儀な性格になっていた。愛されることに慣れすぎていたのかもしれない。
「俺はついさっき、方程式を解いたところでね」
「友人失格ね」
その通りだ。だからせめて最後に友人らしいことをしてやりたくなったんだよ。定義にこだわるのはもうヤメだ。自分は自分、アイツはアイツ。はじめっからそうしてりゃヨカッタんだろうケドな。
「俺は終わりよければ主義なんでね。結果ナミのためになってればそれでイイと思ってるよ」
「あたしの敵はナミを泣かすヤツなの」
「筆頭はアッチじゃねーか」
「あっちは放っといてもナミがボロボロにしてくれるわよ」
「…俺ってけっきょく貧乏クジ」
「アンタはそういう星の下」
パン、乾いた音に続いて今度は視界が左に寄った。南を泣かすと当然のようにどっからか如月が出てくるのはもう何年も同じ。南は如月のことを「親友」と呼ぶけれど切敷にとってはいつのまにか「断罪人」の定義がピッタリになっていた。南自身が干渉を断ち、取り組もうとしていた問題とはいえ一年半見殺しにしてた罰。
「サンキュ」
予定通りの懺悔を済ませると切敷は片頬にだけエクボを浮かべて第二会議室を出て行った。



「あ、れ?」
気付くと南は薄暗い部屋の中にいた。覚醒し切らない意識を抱えたままグルリと周囲に首を巡らせる。ココはどこだろう?照明の落ちた室内を照らし出しているのはごく僅かな月明かりだけで、窓から差し込んだそれが長テーブルを淡く浮き上がらせてるのを見て「ああ、第四会議室だ」ぼんやり呟くと南は背後の心地よい温もりに体を預けた。体中がだるくて指先一本、動かす気にならない。馴染みのある倦怠感と残滓。それは行為後のあの気だるさによく似ていて。ああそっか、考えてみれば今日は二回もヤッたんだっけ。その感覚に付随して少しずつ明らかになっていく記憶を緩やかに辿りながら、南はもう一度室内を見渡した。エート、それから何があったんだっけ?
「起きたのか?」
すぐ後ろから聞こえてきた声。吐息にフワリと毛先をくすぐられて南は思わず身を竦めた。途端に背後の声が少しだけかすれる。
「…っと、そんな締め付けんなよ」
「え…、倉貫?」
「なんだよ」
背後から回された腕がシッカリと南の体を固定している。身じろぐと体の奥深い部分がジンと痺れた。つーかコレ真っ最中と違う?リアルな感触がそこに収められているのを感じて南は慌てて自分の体を見下ろした。ウッワ、何この格好!上半身は制服のまま、けれど下半身には何も身につけていない。そんな格好のまま、制服のそこだけを寛がせた倉貫の上に乗せられている現状を見て、南は思わず絶句した。
「わ…っ、何して…ッ」
「暴れんなよ」
「ちょっ…これ強姦…ッ」
「オマエなぁ、そっちがシテって云い出したんだぞ?」
「ウソッ」
「嘘じゃねぇって」
緩く突き上げられて、途端に官能の筆先が南の背筋をゾロリと舐め上げる。
「あっ、あっ、あ…ッ」
湧き上がった快感に追われながら、南は急速に意識が明確になっていくのを感じていた。
ウワ、そういえば云ってる…つーか、云った。云ったよ。自分からシテって倉貫に縋りついたんだ。倉貫がほしくてしょうがなくて、子供みたいにせがんでねだったんだ。ステージの上で。してする後悔としなくてする後悔。だってあの時は断然、後者の方が大きいと思ったんだもん!でもいまはむしろ逆。云わなきゃヨカッタって心から思ってる…。ケド。
「サクラ」
耳元で名前を呼ばれるともうダメ。自分から腰を押し付けちゃったりして。歯止めが利かなくなる。追い上げられる感覚に背筋が引き攣った。
「コラ、まだイクなよ」
「…ッ」
寸前で奔流を堰き止められて南はヒュ…ッと息を吸い込んだ。少しだけ先から出たのが解る。ビクビクと揺れた体を突き上げられて南は声もなく泣いた。涙の気配を察したのか深いストロークが浅く緩やかなものに切り替わる。
「イキたいか?」
低い問いかけに何度も頷くと、前の拘束がほんの少しだけ緩んだ。また少し出る。けれどすぐ元に戻ってしまう拘束。
「やッ、ちゃん…っと、最後まで…ッ」
「なら俺の質問に答えろよ」
子供のように首を振る南に倉貫のすこぶる甘い囁きが落とされた。
「オマエ、切敷と何回ヤった?」
「そんなの…解んな…ッ」
「正直に云わないともっとツラくするぞ?」
「えっ、たぶん…ッ、十八回くらい…ッ」
やけに具体的な数字を叫びながら南が背を反らす。
「清とは?」
「三回…っ」
「フウン。切敷とはいつからヤってる?」
そうしてけっきょく全ての質問に答え切るまで、南は一度も射精を許されなかった。



「オマエなんか大ッ嫌いだ!」
「あーだから悪かったって」
確かに手段は姑息だったと我ながら思うよ。さっきからまるで止む気配のない悪口雑言を聞き流しながら、倉貫は南のタイを緩く結んだ。白い頬にはまだ朱色の名残りがある。前触れもなくその頬に触れると長い睫毛が小刻みに震えた。潤んだ瞳の中に一瞬、揺れる恍惚。それを見た途端、倉貫は胸の内に波のような安堵感が広がっていくのを感じた。
「気安く触んなよっ」
口を開くと恐ろしく可愛げがないのは相変わらずだが、体は嘘をつかない。尖らされた唇に親指を添え、残りの指で頬を撫ぜるとテキメンに赤い唇が震えた。
「触んなってば…」
「なんで?オマエ俺のモンになったんじゃないのかよ」
「そ、そうだけど…でも気安く触っちゃダメなの!」
「ふうん」
前言撤回。どうやら少しは可愛げも出てきたようだ。とは云え、自分がどれだけカワイイことを云っちゃってるかの自覚はないらしい。つーか、これはますます性質が悪くなったのと違うか?
「南サクラは誰のものだ?」
わざとくりかえしてやると、ピンク色だった頬が今度は真っ赤になった。
「…倉貫トオルのもの」
伏せた睫毛がまた小刻みに揺れる。倉貫は持ってかれそうになった意識を全身全霊でその場に押し留めた。自分はもしかしたらトンデモナイものを手に入れてしまったのかもしれない。今更ながらそんな畏怖が胸をかすめる。けれど。
「サクラ」
沈んでた視線を囁きで元に戻す。焦れたように瞳の縁が潤んだのを見てから倉貫は添えてた親指で唇を割った。無理やり開いた隙間に舌を差し入れる。甘い桃の香り。
「ん…ゥっ」
この先、何があろうと南を手放す気はない。醜く汚い独占欲。中学時代にさんざん自分を悩ませたそれが恋心というカテゴリーに入るらしいことを倉貫が学んだのはあの日、華奢な背を見送った瞬間だった。体だけじゃなく心だけじゃなく、存在がほしいと思う。これはすでに狂気の沙汰なのかもしれないな。
「さて、メシでも食い行くか」
「ん」
唇を外して濡れた顎を拭ってやる。背もたれにグッタリとよりかかった南に覆いかぶさるように肘掛に手をつく。スピーカー上に設置された大時計はちょうど七時になったところだ。ピークの食堂に自分が南を連れて入ればどんな騒ぎになるかぐらいは容易に想像がつく。花ふぶきの噂も今頃ワールド・フェイマス級ってやつ?
コンコン。ノックに続いて「倉貫先輩?」扉の向こうから二年の真田の声が聞こえた。ああ、リスト持ってきたのか。切敷の明け渡した部屋をそのまま機材本部として使う承諾はすでに得ている。大して広い部屋でもないが学祭終了までの夜をココで過ごすのはなかなか悪くない。会議室は第一から第五までその全てが防音設計になっている。
「おう、開いてるから入れよ」
「失礼しまー…」
扉が開くと同時。
南の手が倉貫のタイを思い切り下に引っ張った。重なった唇にペロリと甘い舌が這う。
「し、失礼しましたッ」
パタンと閉じた扉の向こう側。バタバタと二匹目の金魚が駆けて行く足音を聞きながら、倉貫は折れていた南の襟元を正した。金魚なんかいくら泳いでたところで痛くも痒くもねーんだよ。モノ欲しげな口元をあやすようにもう一度唇を落としてから、倉貫はおもむろに「オイデ」と両腕を開いた。立ち上がった体がスンナリ素直に収まってくるのは一種、快感だ。さらにいつも切敷にそうしていたように、ブレザーの裾を細い指にキュッとつかまれると驚くほどの充足感がヒタヒタと胸に打ち寄せてきた。
「倉貫、いますっごくワルイこと考えてそう」
「ヒトを越前屋のように云うな」
口を開けばこの通り可愛げはないが。引き寄せた細い腰に両腕を回してグッと持ち上げる。ピクンっと両肩が揺れて目元がほんのり色づいた。体の反応はすこぶる素直。
「オマエ、あとでまた覚えてろよ?」
「えっ、ダメッ。さすがに一日、四回はムリ!」
「あー?」
待てコラ。回数が合わねえじゃねーかよ、このクソガキッ。今日も眼鏡とヤリやがったな!
「決定。今夜オマエ一晩中、俺のおもちゃな?」
ニッコリ笑顔でそう告げると南の頬がキレイな朱色に染まっていった。



恐ろしく派手なウワサを振りまいた一夜が明けて。
切敷はいつも通り食堂に向かうと、ここ数日すっかり定位置と化しているテラス横の長テーブルにパン定食のトレーを置いた。ついクセで二人分の食券を買いかけて思い直したのが数分前。なのに気付いたらトレーには二人分のお茶が乗っていた。身についた習慣とは恐ろしいものだ。今日からはやれ人参を食えだ、ほうれん草を残すなと口酸っぱく云わなくてもいいのだと改めて思う。あまり実感は沸かないが、自分の皿を見ていてさえ「アイツこれ嫌いだったな」と即座に思ってしまうこのクセが抜けるには恐らく相当の月日が必要になるだろう。五年もかけて培われた習慣は日常と呼ぶに差し障りのないものだから。
こんなに静かな食事を学校で摂るのはいつぐらいぶりだろう。窓ガラスから差し込む朝日が長テーブルの上に柔らかな陽だまりを作る。それを眺めながら切敷は忘れかけてた感覚に新鮮な感慨を覚えていた。もくもくと食事を進めながら、何とはなしに食堂内を眺める。学祭二日前とあって寝泊り組もだいぶ増えたのだろう。なるべく早めにきたつもりだったが、切敷が手に入れた食券ナンバーは限定枚数により近いやや後半の数字だった。行事前は得てしてこんなものか。ザワザワとした喧騒が高い天井にわだかまる。
バターナイフですくったジャムをトーストに塗り広げながら、いつだったか「なんでピーチジャムを常備しないのか」とひたすら憤慨する南の横で同じようにマーマレードをすくっていた自分がいたことを思い出した。南がいないだけで食事とはこんなに穏やかなものなのか。切敷は五年目にしてとてもささやかな、けれど重要な新発見を得たような気分を味わっていた。
「そういえば聞いた?倉貫先輩と南先輩がサ…」
背後を通った下級生らの会話。その切れ端を耳にしてそういえばアイツも学校に泊まってるはずだなと頭の隅で思い出す。耳を澄ませばあちこちから聞こえてくる南と倉貫の名前。どちらもウワサを気にする性質ではないからこの喧騒を嫌って食堂に現れないわけではないだろう。南の気に入っているおにぎり定食はそろそろ売り切れ間近なはずだ。知れずそんな心配をしている自分が我ながらオカシかった。存外、自分は世話好きだったのだろう。余計な忠告をしないで済む分、食事も早く終わる。子守り役から解放されたいま、お茶を啜りながら味わうはずの開放感が気付けば違う名前の感慨になってて、切敷は思わず苦笑を浮かべた。俗に云う手持ち無沙汰というヤツ。まぁ、一週間もすればこんな生活にも慣れるだろうが。無論、南との関わりがまるで消えたわけではない。クラスも同じなら選択授業もほとんどが被っている現状に変化はないから、現実的にはウルサイ食事の割合が少し減る程度のものだとは思うが。けど責任という名の手綱を持たなくていいのはやはり気が楽でいい。しかし切敷の静かなひと時はそう長くは持たなかった。
「…やっぱりきたか」
入り口付近が急にザワつき始める。その様子に観念すると切敷は努めて無関心な風で視線を動かした。人波の間から観月と瀬戸内、続いて南がヒョコリと顔を出すのが見える。真っ直ぐに自分を捉えた視線が突き刺さるようだ。
「キリシキーッ」
そう広くもない食堂内を南が転がる子犬のように慌しく駆けてくる。周囲のざわめきが一際大きくなった。券売機近くの人波を掻き分けて不機嫌一色の倉貫が顔を見せる。
「聞いてキリシキっ、ひどいのアイツ!」
向かいの席に腰を下ろした南が当然のように切敷のトレーからお茶を取って一気飲みする。コトンッと乱暴に置かれた茶碗が続けざまトレーに当たって硬い音を立てた。
「食器の扱いは丁寧にだろ?」
意識するよりも先に言葉が滑る。やれやれ保護者はもう卒業したはずなのに、自分の意識はまだ子離れできていないんだろうか。身についた習慣、そのフレーズをもう一度頭に思い浮かべる。
「それより聞いて、倉貫ってホントひどいんだよ!」
紅潮した頬が南の興奮ぶりを物語っている。この状態で何を云っても聞き届けられることはない。切敷は大人しく耳を傾けることにした。
「解った、聞いてやる」
「あのね!倉貫ったら昨日も遅くまで俺のカラダ弄ってたくせに朝になったらまた発情しちゃったらしくてさ、せっかく着た制服また脱がされて俺、アンアン云わ……ムグっ」
切敷がその口を塞ぐより先に、後ろからきた倉貫がよく喋る口を掌で覆った。
「よう、切敷。いい朝だな」
「つい数分前までは確かにそうだったな」
「子守から解放されて清々してるだろ…って、イテッ」
南に噛み付かれたらしい手を倉貫が咄嗟に外す。その隙を突いてまた機関銃のごとく繰り出されそうになった話題を今度は切敷の手がスッポリと覆い隠した。
「解った。あとでちゃんと聞いてやるから、とりあえずいまは黙っとけ?」
南にTPOを諭すのはこれで何回目だろう。たぶん今回も成果は上がらないだろうが、いずれ誰かが云うべきことなのだから仕方がない。「な?」とダメ押しに頭を撫でれば南はいちおう口を噤む。だが手を離した途端に今日は「でも倉貫ってほんとヤラシイんだよ?」非難がましげに尖った唇から不平が零れた。どうやらかなりの勢いでご機嫌ナナメらしい。いままでだって散々ヤりまくってたくせに何か勝手でも違うんだろうか?思わずそうマジメに考えてから、切敷はガラス玉みたいな瞳の中にうっすらと浮かんでる不満に気がついた。要するに南は拗ねているのだ。この機嫌は傾けた本人にしか元に戻せない。
「オマエ何か心当たりある?」
「知らねーよ。朝っぱらからずっとこうなんだよ」
「あ、ヒドイ!倉貫は覚えてないんだッ。俺あんなに云ったのに!ゼリーよりローションの方がいいって!」
「何だよ、それで拗ねてやがるのか?ったく、ないもんはないんだからしょーがねえだろ。少しぐらい我慢しろ」
切敷はトレーを持って立ち上がると足早に返却カウンターに向かった。どうやらこの二人が揃ってる限り、爽やかな朝とはおよそ縁遠い話題しか出てこないようだ。ただでさえ有名人なくせにそれ以上ワル目立ちしてどうするコトやら。そんな頭があの二人にないことはもはや明白。プイっと横を向いた南がテーブルに顔を伏せる。一度始まると呆れるほどしつこい全面シカトに早くも敗れ去った倉貫が心底不愉快そうな顔でこちらに向かってくる。しょうがねーな、免許皆伝するか?
「目覚めのキスがないと拗ねるんだよ、あーやってな」
「なんだそりゃ…」
「まあ、身についた習慣ってやつ?」
秘策を耳打ちして「行けよ」と猫っ毛の方に掌を差し出す。倉貫の背がゆっくり歩き始めたのを尻目に切敷は足早に食堂を後にした。さーて、まずは会計の係長代理と打ち合わせをして…と。
ややして食堂内のどよめきが切敷の背に追いついてきた。しばらくは金魚だらけの生活が続くだろう。恐るべきフェイマス・ラヴはまるで留まるところを知らない。



「これじゃ計算合わねーんだよな…」
カタカタとキーボードを打ちながら倉貫が眇めた目で液晶を眺める。カタカタカタ…。その音に混じってたまに聞こえてくる、ガシャンガシャンと何かを振る音。
「倉貫、アーン」
開いた唇に南が粒ガムを一つ放り込む。天気がいい、という理由で第四会議室からテラスに本拠地を移した倉貫がパイプイスに腰かけているのを生徒たちが遠巻きに眺めている。その膝の上、チョコンと人形のように横座りになった南が倉貫の首筋に両腕を回していた。そしてたまに思い出したように倉貫の口にガムを放り込むのだ。
「あのね、倉貫にイイコト教えてあげよーか」
「何だよ」
「俺ね、もう倉貫としかキスしないよ。嬉しい?」
「あーそりゃ名誉なことだ」
まるで取り合う気配のない倉貫に南が頬を膨らませてあからさまに拗ねる。ちぇ、せっかく教えてあげたのに!ツマンナイの!ディスプレイに夢中で倉貫はさっきからぜんぜん構ってくれない。王子はすっかり手持ち無沙汰だった。意外に太い首筋につかまりながら抜けるような青空を振り仰ぐ。ゆっくりと棚引く白い雲。
「ねー、学祭当日も晴れるかなー?」
「晴れるだろ。何しろこの俺サマが関わってるんだからな」
倉貫のタイを引っ張って「退屈してるぞ」の合図を送る。重ねられた唇にそっと歯を立てると、不遜な王が喉の奥で低く笑った。もう本当に倉貫としかキスしないつもりなのにな。倉貫がその本当の意味での名誉に気が付くのは。
まだまだもうちょっと先の話。


prev / << )


end


back #