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in everyday scenery



#5 Hideshi Hachisuka


 俺がそれに気が付いたのは、枕元でしつこく鳴る携帯に出た瞬間のことだった。
「朋章、テメェふざけんじゃねえよ!」
 耳元で叫ばれた台詞を完全に脳が理解するまでにはもう数秒を要したけれど。遠ざけた画面に表示された名前「サエ姉」から推察するに、電話向こうの相手が想定してるだろう人物には一人しか心当たりがなくて。
「夏目のお姉さんですか?」
 どうやら昨夜、携帯を取り違えてしまったらしいことを説明すると「あっそ…」電話口のテンションが一気に下がって、やがてそれは細い溜め息に変わった。弟への怒りの伝言を預かったところで一分三十三秒の通話を終わらせる。途端、待ち受け画面に浮かんだカワイイ女の子と正面から目が合って「なるほど…」ようやく鮮明になってきた昨夜の記憶を、俺は苦々しく奥歯で噛み潰した。
 手の込んだコトするじゃねえかよ。夏目と同じ機種を使ってたのが何よりの敗因。ホロ酔い加減だったのも要因の一つかな。夏目が席を外した際に「うちの澪チャンを待ち受けにするがイイワ!」などと俺の携帯を勝手に操作してたのも作戦の内だったんだろう。恐らくは自分のいない間、夏目にも同じシナリオを披露していただろうことは、いま目の前にある携帯を見れば一目瞭然な話で。なんでこう無駄なイタズラに労力を費やすのかね、あのオネエは。思いつくとやらずにはいられないという早乙女の悪癖をそろそろ誰かが正してもいい頃なんではないだろうか? せめて店を出てから一度でも携帯を開いてればヨカッタな。携帯のデジタル表示が告げる時刻が正しければ自分に残された時間はそう多くない。
「済んだこと云っても始まらねーか」
 曽祖父の四十九日だというのに誰一人法要に赴くことなく、仕事に出払っているこの現状は傍から見たら嘆かわしい状況なのかもしれない。だが曽祖父の遺言にそうある以上は誰もそれに背くことは敵わない。シャワーを浴びて汗を流したところでいつものジーンズを穿いて一階に下りる。めずらしいことにリビングのテーブルで母親がノートパソコンを開いていた。
「せめて上に何か羽織りなさいよ」
「何、最近オトコ日照り?」
「アンタ、あたしを誰だと思ってるのよ?」
「四十三の年増オンナ」
「云っとくけど、あたしは永遠の【age35】なのよ」
「そりゃご立派?」
「ケツの青いガキはお呼びじゃないの」
 や、呼ばれても困るしね。濡れた髪をタオルで掻き回しながら共用冷蔵庫からスポーツ飲料を一本拝借する。飲み下した中身がダクダクと体の中心を流れ落ちていく感触。昨夜の酒はほとんど抜けたようだ。母親から再度のブーイングが起きないうちに自室に戻ると俺は迷わずその一枚を上に羽織った。俺なりの追悼の意をその色に込めて。
 どうやら渋谷にいるらしい夏目に時間と場所を指定してホームに上がる。四十六分の各停に乗るつもりでいたところ、四十一分の急行に乗れたことで、俺は夏目の携帯が五分早く時を刻んでいることを知った。おかげで約束の時間よりもだいぶ早く待ち合わせ場所の細長いビル前に辿り着いてしまう。昨夜以降、自分の携帯に入ったメールは全てこちらに転送してもらった。その中に急の変更を告げるモノはなかったから現れることは確実だろうが、なにしろ時間にルーズな男だからな…。長期戦覚悟で階段の中途に腰を下ろしたところで「オイ」それは意外にも俺の背後から降ってわいてきた。上段から降りてきた男に父親から預かってきた封筒を無言で渡す。すると同じく無言で中身を確かめていた長身がそのまま階段を立ち去ろうとするので「…待てよ」俺は思わずその背中を呼び止めていた。
「礼の一言もなしかよ」
 考えてみればこうして顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだった。六時半にマルキュー前、などという唐突な一言で弟を使い走りにさせる根性は相変わらずで、振り向いた笑顔の性質の悪さにはむしろ磨きがかかったんじゃないだろうか?
「駄賃だ。取っとけよ」
 台詞と共に飛んできた何かを右掌で受け止めると、俺は今度こそ無言でダークスーツの背中を見送った。イヤミのつもりか、イヤガラセの一種か。俺の手には25セント硬貨が一枚だけ残された。薄暗くなり始めた辺りの景色に紛れた背中はもう探せない。昔から何を考えてるのか今ひとつ掴めない兄だったけれど、今日だけは同じコトを考えていたようだ。あの兄が黒いスーツを纏っているのなんて初めて見たから。血は争えないものなんだろう。いつもは絶対にシルバーしか身に着けない母親の耳にも今日はオニキスのピアスが留められていた。
 照りつける太陽はもう身を潜めたというのに、街の熱気はまだまだこれから上昇する一方だ。ジットリとかいた汗が黒いTシャツを背中に貼り付ける。設楽との約束までにはまだ間があった。道中、何度見返したか知れないメールをもう一度開くと、俺は順にその文字を追った。こんなメールが送られてくるんなら、早乙女の下らないイタズラにも多少は目を瞑ってもいいかと思う。「オマエのことばっかずっと考えてんの疲れるんだよ…」なんて。誰も俺のことばかり考えてくれなんて頼んでないぜ? 青になった横断歩道を見慣れたシルエットがこちらへと渡ってくるのを見下ろす。
 そんなにお前ん中って俺でいっぱいなワケ? 無防備に立ち尽くしてた体を背後から抱きすくめると、ビクっと揺れた体が腕の中に収まった。
「よう」
「ハ、ハチスカ?」
 慣れた体温が腕の中にジンワリ広がっていく。平熱が36度を下回るという体はいつ抱いても俺より少しだけ冷たくて。37度から落ちたことのない俺の体温を少しずつ奪って春日の耳元が色づいていく。硬直した春日の手から落ちた荷物を設楽が笑って拾い上げる。
「もともと今日は蓮科と待ち合わせてたんだよ、ここでね」
 設楽の今更な種明かしに「ならもっと早く云えよ!」憤慨した春日がジタバタと腕の中で暴れ始める。こりゃさらにガソリンを注ぐハメになるかな? 夏目との携帯取り違え事件を続いて告白すると「……んだよ、それ」今度は呆れ果てたのか、急に大人しくなった体がクタリと俺の両腕に体重を預けてきた。少し俯き加減の首筋が僅かに震える。回した手でサンバイザーの角度を深くすると、俺はもう片手で春日の体を強く抱き締めた。
「そういや夏目、姉ちゃんから伝言。家の敷居は二度と跨がせない、だってさ」
「うッわ、もうバレてんのかよ?」
「しばらくは家帰んねー方が身のためだと思うぜ」
 無駄口で三人の気を逸らしてるうちに春日の涙が引けばいいと思う。泣くとは春日自身も思ってなかったらしく、腕の中で戸惑ったように震える体。こんな状況でなけりゃいますぐにでも何処かに連れ込んでしまいたい愛しさと欲望とを胸の内で飼い殺しにする。何もオマエばかりじゃねーよ。俺もオマエのことばっか考えてるっつーの。…つーか、理性の限界がそろそろ秒読み状態なんですけど。
「あ、なあ蓮科も行くよな?」
 夏目の一言で俺の今夜は売約済みになってしまったけれど「俺、買い物あっから後から合流するワ」それまで少しの間、見逃してくれよ。春日の手を引いて駅とは逆方向に親指を向けると、察しのいい設楽が「了解」と一度だけ頷いてそれから右手の人差し指を一度立てて見せた。オーケイ、一時間もありゃ充分涙も乾くだろう。設楽たちに背を向けて道玄坂を上り始めたところで、堪え切れなかったらしい涙が一滴、春日の頬を伝った。
「…目にゴミが入ったんだ」
 そんな言い訳までしてくれる春日がどうしようもなく可愛くて。「心配かけて悪かった」俺は盗むようにその頬にキスを落とした。


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