山崎統和の場合。 #5



 きょとんとした顔の白石を背中にかばいながら真正面から対峙すると、二人組は困惑したような表情を浮かべつつも退散していった。


「び、ビックリした」
「あのな…」
 これはもう白石が悪い。
 誰がなんと云おうとも、全面的にコイツが悪い。
「ありが…」
「っのバカッ、何云ってるかも解んねーのにイエスとOKを連発すんな!」
 ファックぐらい聞き取ってくれよ、頼むからよ…。
 脱力感と安堵感がないまぜになって統和を襲いくる。
 制服相手にナンパかけてくる向こうも向こうだが、その誘いに対して白石は満面笑顔で「OKよ」と云っていたわけだ。頭痛ェ…。
 だがいきなり浴びせられた叱責の声に、わけの解らない様子で白石が目を丸くする。
「アノヒトたち、なんて云ってたの?」
「…3Pなんて怖くないよ。朝までたっぷりかわいがってあげるよ、コネコちゃん」
「げ」
 ようやく事態が呑み込めたのか白石の顔から血の気が引いていく。
 遅いんだよ…。自分のくるのがもう少し遅れていたら、まさに台詞通りの運命を白石はたどっていたことだろう。二人掛かりで車に連れ込まれたら一溜まりもない。
「もしかして危機一髪だった…?」
「かなりな」
「よ、世の中ってコワイ」
 神妙な顔つきで白石がそんなことを呟く。
 コイツほんとに事態解ってるのか? 思わずそう訝しんでいると、白石の手が肩に乗せられた。わずかに震えている。それは統和の手も同じだった。
 ホント、心臓に悪い奴…。
 華奢な背中をたたき深呼吸を促すと、ややして大きな溜め息をつき白石がその場にしゃがみ込んだ。
 反省でもしているのかと思えば。
「オレって女に見えるのかなぁ」
「…………」
 かなり深刻な悩み口調だったが、いくら外国人でも制服着た奴を女と間違えたりはしないだろう。更衣室の一件を気にしているのだろうか。
「顔のイメージが先行するのかもな」
「嬉しくない…」
「いいじゃん、顔がカワイイってのもさ」
 しまった。思わずスルリと失言が出てしまった。「カワイイ」のフレーズに反応して白石が顔をあげる。そういえばよく勇馬にもカワイイと云われて食って掛かってたっけか。目が合う。平静を装っていると、しばらくして白石がいきなりこちらに手を差し向けてきた。
「起きれない。手ェ貸して」
「甘えてんなよ」
 そう云いつつも手を差し出すと、細い手がそれをキュッとつかんだ。ようやく震えは治まったようだ。
 白石が照れ隠しのような笑みを浮かべる。
 呟かれた台詞。それは小さかったがわずかに統和の耳まで届いた。
「山崎ならいーや」
 どういう意味だ?
 ますます照れたような白石の視線が統和にも伝染して、繋いでた手をどちらからともなく慌てて離していた。


 白石が落ちついてから学校に戻ると、教室に克久と勇馬の姿はなかった。内田に買物袋を渡すと、二人で学校を後にする。
「あ…」
 だがしばらくして急に降りはじめた夕立に追いたてられるように、通りかかった児童公園に足を踏み入れた。カラフルに塗り立てられたゾウの滑り台下へと潜り込む。
「うわ、ビショビショ」
「派手にやられたな…」
 突然降り出したわりにはかなりの雨量で、雨ざらしだったのは短時間にも関わらずあっという間に濡れネズミのようになってしまった。バケツをひっくりかえしたような雨とはこのことを云うのだろう。
 細い雨の線が視界いっぱいに降り注ぐ。耳鳴りのように鼓膜に響く水音。
 灰青のフィルターがかかったように、辺りの景色が色を変える。
 誰もいない児童公園。
 雨に打たれるカラフルな遊具たち。
 風に木立が揺れる。
「止みそうにないね」
 太い鼻を砂場に下げて、ゾウは水飲み場を見つめている。
 その右後ろ足の下にしゃがんで白石が無人の風景を眺める。あの真っ直ぐな目には何が映っているのだろう。左前足によりかかりながら、統和はその背中を眺めていた。
 ゾウの下は意外に広く、しばし雨をしのぐのに不便はなかった。しかし急に二人きりだという実感が沸いてきて統和は胸のざわめきを覚えた。ずっと持て余している感情が音もなくコップから零れ落ちていくような感覚。だがそれを明るみに出すわけにはいかない。
 あんな仕打ちをしておいて今更どのツラ下げて云えるというのか。
 白石の中では、自分も克久も大差ない友人としてカテゴライズされているだろう。だったら自分の気持ちはあまりに不適切だ。級長としても友人としても。
 気の迷いだと忘れてしまえばいい。
 忘れられるものならば。
 しゃがみ込んだ小柄な体。雨に濡れた髪からは何滴もの雫が滴り落ちている。白いシャツが透けて、細い体のラインを如実に物語っていた。華奢というにはしなやかなバネを感じさせる体。無理に反らせて撓らせてみたくなるような。
 雨足は弱くならない。白石が口ずさむ鼻歌が砂嵐のような雨音に紛れて、途切れ途切れに統和の所まで聞こえてくる。
「ジムノペディ?」
「うん。…母さんが好きでよく口ずさんでた」
「ふゥん」
 拙い鼻歌を聞きながら、胸の中のコップからつぎつぎ感情が溢れ出していく。
 この沈黙がいけないのだ。なにか喋ろうとして、けれどけっきょくなにも言葉にできず黙り込む。
 何度かそれを繰り返していると「あのさ…」と白石が独り言のように小さく呟いた。
「なに?」
「さっき車に押しこまれそうになった時、オレ咄嗟に山崎のこと胸の中で呼んでたんだ」
「…………」
「だから本当に山崎がきてくれた時、すげー嬉しかった」
 ホントだよ、とこちらを振り返って素直な笑みを見せる。
 どうしてこう屈託がないのだろう。
 返答に逡巡していると、思いきったように続けて白石が口を開いた。
「オレ、山崎のこと好きだ」
 背中を向けられたままの告白。
 明日の天気を告げるように淡々と告げられたその台詞は、雨音にも負けず統和の耳にダイレクトに響いた。
「え……」
 告白の内容はもちろんだったが、それよりも白石のあまりに無防備な素直さが統和の胸を刺し貫いた。
 なんでそんなに素直でいられるのか。
 虚飾の仮面で優等生を演じ慣れてきた自分には到底できない芸当だ。それを白石はサラリとやってのける。それはもはや脅威にも近い。
 素直さは時に諸刃の剣だ。自分をも傷つけてしまう刃にもなりうる。
「それは like? それとも love?」
 気がつくと思ったよりも冷静な声でそう告げていた。
 濡れた背中が微かに揺れる。訪れた沈黙を丹念に雨音が埋めていってくれる。
 どうして自分なんかを好きだと云えるのか。
 統和には理解できなかった。
 いままでの仕打ちの中でも傷つけた手応えは幾度も感じていた。数週間前まで、それはささくれ立った統和の神経を慰める唯一の薬にもなっていたのだ。それなのに。
 真っ白な白石。自分はそれを汚してしまうだろう。
 コップの中の水がさざめく。
 白石に触れる他人の手、すべてが憎らしい。醜い嫉妬。
 あのしなやかに撓む体を自分の下に組み伏せてみたい。汚らわしい劣情。
 手に負えない感情。
 統和は急に自分の気持ちが怖くなった。
 自分ではまた白石を傷つけてしまう。
 この素直さを踏みにじってしまう。 
 いまならまだコントロールがきく。白石の気持ちを断ち切ってしまおう。
 だが、統和が決意を固めた瞬間。
「loveだよ」
 予想外の至近距離で声が聞こえた。俯けていた顔をあげるとすぐ近くに白石の顔があった。真摯な眼差し。真っ直ぐに見つめてくる瞳の色に統和は吸い込まれるような錯覚を覚えた。
 一瞬の間。それから唇に冷たい感触。
 気がつくと、白石の唇が統和のそれに重なっていた。
 触れるだけのキス。それは数秒だったが、永遠にも近い余韻を統和に残した。
「ゴメン…」
 囁くようにそれだけを云うと、白石は雨の中に飛び出していった。
 それを追いかけるように反射的に一歩踏み出してから、統和はその場で立ち止まった。追いかけて何を云うというのだ。震えていた声。それ は雨音に混じり、いつまでも統和の鼓膜を震わせ響き続けた。
 何も云えない、そう思うのに。
 どうしてだろう。統和は水溜りを蹴りながらどしゃ降りの中を全力で走り始めた。追いついた制服の手を取り、向き直らせた体を強引に抱きすくめる。冷たい体。コントロールなんてとっくの昔にきかなくなっていた。逆らえない衝動。
 抱き締めると統和の唇にちょうど白石の右耳が重なる。
「…好きだ」
 耳元に囁くと腕の中の体がじんわりと温かくなった気がした。統和の腕の中にじっと収まりながら、白石の囁く台詞が耳元に返される。
「それは like? それとも love?」
 両腕を解くと白石が泣き笑いのような表情を浮かべてこちらを見ていた。
 その瞬間、胸の中のコップが海へと変わった。
 また強引に抱き寄せて、その冷たい唇が熱くなるまで統和は深いキスを何度も繰り返した…。



 雨の中の恋愛劇のおかげで三日三晩、熱にうなされ続けた統和は初めての病欠を体験した。さすがに三日も休むとクラスの治安なんかが気になってくる。まだ少しふらつく体をおして統和はいつもの通学路をたどった。寝てばかりいたおかげで今朝はかなり早くに目覚めてしまった。
 開いたばかりの学校にいるのは部活の朝練組ぐらいで、校舎内はシンと静まりかえっている。
 教室に荷物をおくと統和は屋上に続く階段を昇った。
 去年の夏前に克久が鍵を壊したおかげで出入り自由になっている屋上だったがその存在を知る者は少ない。一向に修理されないところをみると教員さえもまだ気がついていないのだろう。
 低い音をたてて開く扉の向こうに真っ青な空を見つけて、統和はやがてくる夏の気配を如実に感じ取った。青々と繁る緑。
 雨の季節を経て、熱気に咽るような夏がやってくる。
 冬も好きだが、圧倒的な存在感で他を制圧しうる夏の威力も嫌いではなかった。
 抜けるような青い空。快晴上々、雲一つない。
 どこまでも青く澄んだ広い空を給水塔にもたれて振り仰ぐ。
 ふいに、クシャンというくしゃみの音が聞こえて統和は丸い給水塔の向こう側を窺がった。もう一つの給水塔の陰から白石が鼻を擦りながら現れる。統和よりは軽い風邪だったらしいが、病み上がりにひいた風邪だ。体力が心配される。そのうえあんなことまでしてしまったのだから。
「具合は?」
「だいぶイイよ」
「…あっちの方は?」
「ん。まだちょっと痛いけど、でももう大丈夫」
 白石の頬が心なしか赤くなる。瞬く間に伝染してきた照れをごまかすように、統和は勢いよく給水塔から飛び降りた。
 お互い同性相手は初めてで、結果的には失敗してしまったけれど、次はきっともっとうまくいくだろう。感情の昂ぶりに任せて細い体を組み伏せた記憶。しなやかな体は思った通り、若木のように統和の体の下で撓った。
「山崎は…」
 云いかけた言葉をそこで止めてしばし躊躇うように口を噤む。その先を視線で促すと思い切ったように白石が言葉を続けた。
「山崎のこと、統和って呼んでもいい?」
「いいよ」
 パッと白石の顔が花が開いたように明るくなる。素直というか単純というか。
 考えてみれば統和も白石のことを名前で呼んだことはなかった。
「じゃ統和もオレのこと、雪乃って呼んでね」
「いやだね」
 即答すると、今度は絵に描いたように白石が拗ねた表情を浮かべる。
 どこかシュンとしたこの表情がさらに悪戯心を煽って仕方ないのだが、白石はまるでそれを解っていない。
 瞳の色を曇らせて唇を尖らせる姿を素知らぬふりで堪能していると予鈴が鳴った。学校中にリンゴーンという大音声が響く。
 一限目は選択授業だ。
 俯いたままの白石に手を差し出すと、統和は早口に云った。
「行こうぜ、雪乃」
 驚いたように目を丸くする白石の手を取り、引き寄せて思わずキスを盗む。


 給水塔の陰に隠れて。
 本鈴が鳴るまでの間、二人は何度もキスを繰り返した。
 すぐそこに息づく、夏の気配を感じながら…。


prev / << )


end


back #