口笛とメンデルスゾーン



「今日はずいぶんゴキゲンだな」


 昼休みの廊下、担任に云われたこのヒトコトを足せば今日はもう五回も周囲から同じ指摘を受けたことになる。部活仲間の大沢とクラスメイトの福西、それから三限の数学教師・播磨と一個下の後輩、坂上。
『今日は朔田、上機嫌だなぁ』
『ウワなに先輩? ずいぶん機嫌よさげじゃない?』

「まァーね」

 俺がこの台詞を繰り返すのもコレで五度目ってわけで。
 いーかげん相槌打つのも面倒になってきてんだけどね。っていうかそうですか、俺はそんなに上機嫌に見えちゃってますか。
 まあね、今日はもう朝から笑いっ放しだからね。箸が転がっても笑い転げたいお年頃っていうか。
「陽気にハナウタなんか歌いやがって。彼女でも出来たか?」
「へへー、ノーコメントー」
「けっ。とりあえず廊下はスキップ禁止だから覚えとけよ」
「やだなー、そんなスキップだなんて」
「云ってるそばからやってんじゃねーよ」
「イテっ」
 パカンと叩かれた頭を斜めに傾げて見せながら「フヘヘー」浮ついた笑みを再び浮かべて見せる。
 気が緩むとすぐにハナウタを口ずさんでしまいそうになる唇。レパートリーはさっきから結婚行進曲を行ったり来たりしてて、おかげで福西には「デキチャッタ結婚?」なんていらない突込みまで頂戴してしまったんだけど。もちろん俺からは情け容赦ないパンチをお返ししといたよ。
「じゃ、五限サボるんでよろしくー」
「おーう。六限には帰ってこいよー?」
「ん? 六限って何だっけ?」
 再度、参考書の表紙で叩かれた頭がパコンと間抜けな音を響かせる。
「俺の授業だろうが」
「あ、さいでしたか」
「忘れんなよ。……でもま、こんな天気いいとな、教室で授業なんかしてんのが勿体なくなるよな」
「ホントになー」
「あースロットやりてェ…」
「天気関係ねーし」
「あー…クソまじスロットやりてー…」
「しょーもねえ教師」
 第一校舎の端まで連れ立って歩いてきたところで「じゃーな」階下に降りていく担任の背を階上に上りながら見送る。昼休み終了まで秒読み態勢、5・4・3…。
 重い鉄扉を思いっ切り蹴り開けたところでちょうどキリよくチャイムが鳴った。

 一面の快晴。目の前が一瞬で青一色に塗り替えられる。

「……上々天気、か」
 この胸とは裏腹に澄み切って晴れやかな空。
 うーん、いー天気だなぁ。
 金網に手をかけながら条件反射的、メンデルスゾーンを口ずさんでると。


「ずいぶん機嫌ワリーじゃねーかよ」


 タバコを片手、いつのまに現れたのか背後に佇んでた覚島と目が合った。そういやおまえも屋上サボリの常連だったもんな。なんとなく会うような気はしてたよ。つーか、むしろ。
「それ、一本くれ」
「吸うんだ、メズラシ」
「半年に一回くらいはな」
「何の周期だ、それ」
 貰ったラキストを唇の端、斜めに咥えてそれからようやく口元の半笑いを解く。
 ハナウタの代わり唇から零れたのは、朝からずっと封印してた灰色の溜息だった。フェンスを背に細く吐き出した煙が無風の屋上にしばし留まるのを虚ろに眺める。

 ハナウタで、笑顔で、メンデルスゾーンで、誰が気分ドンゾコだと思うだろう?

 だから、口ずさむんだけど。周囲を、というよりは自分を欺くために。
 落ち込んでなんかないって。滅入ってなんかないって思い込むために。一種の自己暗示法。
 なんでよりによってオマエがそれを見破ってくれるかな。
「泣くんなら俺の胸、貸してやろうか」
「いらねーよ」
「なんだよ、元カレの厚意はありがたく受け取っとけ?」
「意味わかんねー」
 俯いた視界、涙で滲んだ足元には相変わらず「1−Cサメジマ」の文字が躍ってて。いーかげんソレ、どうにかしろっつーの。……ちぇ、そのテの軽口でやり過ごせると思ってたんだけどな。
 フェンスに手をかけ、水の抜かれたプールを眺める背中に顔を埋める。
 本当はここに来ればオマエに会えるんじゃないかと思ったんだよ。いまさら彼氏でもないオマエにどうこうして欲しいってんじゃなくて。
 でもいまは、いまだけでいいから。
 こうしてて欲しい。

「フラれた?」
「…ビーーーンゴ」
 優しくされてその気になって。でもけっきょくその気だったのは俺一人だけで。
 空回りの一ヶ月。でもほんの少しの間だったけど好きだったんだ。
 持ってかれてたんだ、心が。
 だから、あの人に持ってかれた分の心が足りなくて切なくて。
 胸のど真ん中にまるで穴が開いてるみたいに風が通り抜けていく。

「ま、俺の後がアレじゃあ、顔のグレードがな」
「バーカ、てめーの百倍優しかったよ」
「でも泣いてんじゃん、オマエ」
「ハッ、俺を散々泣かしてたヤツがよく云うぜ」
 目頭が熱くなって零れた涙が頬を滑った。
 時折吹く秋風の冷たさが身にしみる。無言のままそれを受け止めてくれる覚島の背中がありがたかった。
 俯けた視界の端で灰の伸びたラキストがジジ…っと小さな声で鳴いた。
 額を押し当てた背中の体温が心地いい。

 しばらくして聞こえてきたメンデルスゾーンの口笛が鳴り止むまで。
 覚島に甘えるのはその間だけと決めて。
「…サンキュ」
 俺はブレザーの背に縋りながら湧き上がる嗚咽を噛み殺した。


end


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