悪童日記



 果ててしまえば快感もそこまで。
 上がった息を宥めるように胸に手をあてると「大丈夫?」下から細い手が伸びてくる。
「大丈夫はそっちの方でしょ?」
「まあね」
「HR、行かなくていいの?」
「行くわよ。でもまだ予鈴も鳴ってない」
 少し汗ばんだ肌に張り付いた髪を手入れの行き届いた指先が丁寧に引き剥がす。弛緩した体をマットに放り出すと、入れ違いに起き上がった体がそこらに放ってあったヒールを爪先で転がした。
 コトン、固い床の上、パールピンクの合皮が面を上げる。
「素足にヒールって、色っぽいよね」
「キミがそうさせてるのよ」
「それは光栄」
「まったく、こんなコト教えた覚えないのにね」
「あ、鳴ったよ予鈴」
「アナタも出席なさいね、出席番号21番・宮沢シンくん」
「はいはい、担任の先生には逆らいませんよ」
 待ってるわ、そう云い置いて出ていく背中を見送る。
 ついさっきまでココで、ゴムに阻まれた生殖活動に勤しんでいたというのに。過ぎた快楽は何も齎しはしない。なんか、学校でするのも飽きてきちゃったカナ。持続して与えられるものは刺激とは呼ばない。また何か別の方法を考えなくちゃいけないのかな…。それもメンドウな話。

 帰りのHRが始まってしばらく経った教室の戸をそっとスライドさせる。黒板に明日の全校集会の連絡を書き付けていた教師の視線が一瞬こちらをチラリと舐めた。
「開始から十分を過ぎています。出席とは認めません」
「ハイ、すみませんでした」
 素直に下げた頭をすぐに持ち上げると、シンは静かに自席へと腰を下ろした。額に被さる前髪を右手でかき上げる。心持ち両端の吊り上がったメガネの一瞥を無表情にかわすとそれはすぐに黒板へと向き直った。抑揚のない声が注意事項をいくつか読み上げる。
「これ、配られたプリント」
「あ、サンキュ」
 前席の小科が全校集会に関するプリントをそっと隠れるように手渡してくれた。
「佐久間ってホント陰険でやんなるわよね」
「ま、遅刻してきた俺が悪いから」
 プリントのだいぶ下の方まで目で追って、ようやく担任の読み上げてる箇所がどこか合点がいく。抑揚も感情も何もかも削ぎ落としたような事務的な声。それがさっきまでどんなに艶かしく、この鼓膜を震わせていたか、それは誰も知らない。
「気にしない方がいいよ」
「うん、そうする」
 ニコ、と少しだけ口角を上げると、はにかんだように小科が目元を赤らめた。でも俺、面倒だから同級生には手を出さないことにしてるんだよね。だからサービスはここまで。逸らした視線をフイと窓の向こうに据える。秋晴れの高く澄んだ空に綿菓子みたいな雲が浮かんでいた。机に頬杖をつきながら、ぼんやりそれを眺めていると。
「イテ…っ」
「どうかしたの?」
「ううん、何でもない」
 急に滲んで見えなくなった視界。一瞬のハレーション。そして痛み。
 顎を支えてた掌で俺は庇うように右目を覆った。
 ケガしやがったな、アイツ…。
 右目と同時に痛み始めた右の足首。こっちは捻挫だろうか。身動ぎせずそのままの姿勢を保ちながら開いた左目で時計を眺める。五分で引いたということは大したケガではないのだろう。

「あ、あの宮沢くん、よかったら一緒に帰…」
「ゴメンね。約束があるから」
 HR終了と同時、カバンを引っ掴んで教室を出る。廊下に上履きを引き摺りながら3クラス分過ぎたところでヒョイと教室の中を覗く。だがその中に見慣れた背中はなくて。
「リン、何かやった?」
「あー、脚立から真ッ逆さま。いま保健室に行ってるよ」
「サンキュ」
 見知った顔が指先で階下を示すのに片手で答えて踵を返す。
 カツカツカツ…と教室から出てきたパールピンクと廊下の真ん中ですれ違った。言葉も視線も何も合わせない。それが暗黙のルールだから。大人って楽でいいよね。
「シン、今日部活出る?」
「あー悪い。リンが怪我したから家まで送り届けてくるワ」
「キャーッ、禁断の兄弟愛?!」
「バーカ、云ってろよ」
 部活仲間の冗談を鼻であしらいながら突き当たった角を曲がる。一段抜かしに下りた階段。まだほんの少しだけ痛みの残っている右足。こりゃ思ったよりかは重症なのかな? ったく、不注意にも程があるっての。もし歩けない状態であれば迷わずタクシーを呼んでもらおう。ノック二回、引き開けた扉の向こう。自分とまったく同じ顔が、陰鬱な表情でベッドに腰かけていた。

「ずいぶん大仰だな」
「…そっちはずいぶん嬉しそうだね」
「まあね。リンの弱ってるトコなんて滅多に見られないし」
「余計なこと、母さんに云うなよ」
「それはソッチの態度次第なんじゃない?」
「…ちっ、足元見やがって」
「見られる方が悪い」
 右目には眼帯、右足首は包帯でグルグル巻きだ。予想以上に重症だったのか、ただ単に装いが過剰になっているのか。これはたぶん後者だろうな。
「保険医は?」
「臨時の職員会議」
「で、その芸術作品は誰の手によるモノ?」
「クラスメイト」
 ベッドに腰かけたリンが前後にブラブラと足を揺り動かす。ゆるゆるの包帯はそれだけでクルクルと床にその末端を引き摺らせた。白く伸びた緒が、規則正しく床を這いずり回る。まるでそれ自体が生命体であるような奇妙な躍動感。
「まだ痛いの?」
「それは身をもって体験してるんじゃないの?」
 右目と右足の負傷。たとえ軽症であったにしろ、部活動への差し障りは少なからずあるだろう。そしてそれ以上に。母親の神経質な眼差しを思い出す。
「しかし、不用意にも程があるよね」
「シンに云われると三割り増しでムカつく」
「なら弱味なんか見せんな」
 スルスルと少しずつ伸びていく包帯。自分とリンとの間、距離にすれば数メートルだろう、その間を埋めるように白い蛇が次第にコチラへと近づいてくる。
 右足首に鈍く、熱い痛みが走る。

「つーか、HR中に激痛はマジ勘弁して」
「こっちは数学の時間に勃起させられて難儀したっつの」
「アレ? ソッチにもいっちゃってた?」
「あんなチャチな快感のために、わざわざ授業サボってんじゃねーよ」
「だってしょーがなくない? 男の悲しいサガっていうか」
 解けた包帯の端を拾ってくるくると右手に巻き取る。やがて到達した足先を持ち上げて掌に包み込むと、熱のこもった足首がじんわりと手の中で燃えた。

 同じ熱、同じ身体、同じ脈動。
 剥き出しの足の指をソロソロと撫でると、自身の背筋に慄きが走った。
 繋がった身体、繋がった意識、繋がった感覚。

「まだ処理してないんだ?」
「んなヒマあるかよ」
「コレ、手伝ってあげようか?」
「俺はオマエと違って学校でするような趣味はないの」
「おや、云ってくれるね」
 右手で巻き取りきった包帯を宙に放る。
 ヒラヒラと弧を描いたソレが床に落ち切るその前に。
「触るだけでこんな感じてるクセに」
「…おまえが蒔いた種だろ」
 服の上から摩っただけでたまらない快感が下腹部に押し寄せてくる。リンの快感が、そのまま自身の快感となる。同じ遺伝子から作られた細胞なのだと、いまほど実感する瞬間はない。

 喜びも悲しみも愉しみも憂いも。
 全てを等しく、共に分かち合える半身。
 いつからなんて知らない。気がついたらもうそうなってたんだ。
 まるで一つの体を共有しているかのような感覚。
 意識はまるで相反だというのに。

「鍵…、閉めたのかよ」
「カーテン閉めとけば大丈夫だって」
「アホ、信用できるか。おまえの出任せはもう信じねーぞ」
「へえ。一度でも信じてくれたことがあるんだ?」
「ウルサイ、この減らず口…っ」
「痩せ我慢は体に良くないって。ね、そろそろ素直になったら?」
「…早く、イカせろ」
「じゃあリンも俺を気持ちよくしてよ」
「シーツ…汚すなよ…」
「そんな手抜かりはしないって」

 ドコからドコまでが自分の快感で、ドコから先が相手の体なのか。
 それすら解らないほどに深い酩酊。
 先にイッたリンの絶頂に触発されるように、シンもガーゼの中に吐精した。
 快感の二乗、そんな言葉では足りないぐらいに圧倒的な絶頂感。
 たぶんこの世の誰も手に入れることの出来ない快楽。
 自分たち、二人だけの秘密。

「いま、何考えてる?」
「たぶん…オマエと同じこと」

 整わない呼吸をそっと重ねて舌先に乗せる。
 同じ顔と体、同じ血に同じ感覚。
 性格だけはキレイに振り分けられたみたいだけどね。
 根っ子は一緒。雪と見せかけて墨の黒さだから。
 こんなにも胸が騒ぐんだろうか。
 もしもあの時一つのままだったら、こんな深い充足を知ることもなかったろう。
 この幸せを、いったい誰に感謝したらいい?

「でも可愛ーいリンが怪我したなんて知ったら、母さん涙に暮れるだろうな」
「まじウザ……なあ、一週間でいいから家交換しねえ?」
「見返りによる」
「週二でカテキョにきてくれてるお姉さん、フェラめっちゃ上手いよ」
「…水曜と金曜の夕方にクるのはそれか」
「そーゆこと」
「こっちはアレだな、木曜に父さんが愛人連れ込むからちょっとウルサイぜ?」
「また違う女?」
「今度は人妻だって。ったく、よくやるよ」
「なんで知ってんの?」
「ピロートークで聞いたから」
「盗み聞きってワケじゃないよね。なら俺にもお楽しみがあるってコトだ」
「ま、そーゆこと」

 リンを溺愛してる母親の過保護攻勢を思うと気は重いけど、父親の愛人にチョッカイかけられて休む間もない身としてはここらで一息入れるのも悪くはないか。「この悪童め」と父親にはよく云われるけど、その悪童を生み出したのは他でもないアンタ自身なんだぜ?
 鏡のように同じ笑みを浮かべたリンにもう一度口付けると、指の先にまで充実感が行き渡る。


「なあ、いま何考えてる?」
「オマエとまったく、同じことだよ」


end


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