聖夜祭実行委員反省会



 吐く息が空気中で白に染まる。
 そのまま空に同化してしまいそうな、雲の白さが目に痛かった。


 三階の生徒会室から見渡せる木々はどれも葉を落とし、あとは雪化粧を待つばかりの身だ。
 開け放した窓から手を出すと、冷たい風が指の間をすり抜けていった。
「まだ雪は降らないんじゃないかな」
 書類をまとめる手はそのままに、榊が眼鏡の視線を少し上げて云った。
「そうでしょうか…」
 雛人は、いまにも地上に白いベールを引き擦りそうな空を見上げた。凍るような空気は故郷を思わせる透明度を持つ。いつ、羽が舞い落ちてもおかしくない、そんな色を空は広く湛えていた。
「今年は帰るつもりなの?」
「いえ。家族は妹の所で新年を迎える予定なので、僕は残ります」
「そうか。イギリスの冬は厳しそうだな。アキちゃん、元気にしてる?」
「大晦日に発表会があるから、練習で大変みたいですよ」
「雛くんも行けばいいのに」
「外国のニューイヤーは苦手なんです」
 背中にキーボードを叩く音が聞こえてくる。
 風に運ばれてきた木の葉が目の前を通り過ぎて行った。
「じき一段落するから。雛くん、悪いんだけどコーヒーいれてくれるかな」
「桐島さんたちの分もですか?」
「いやあいつらはまだ当分かかるだろうから、とりあえずは二人分」
「解りました」
 窓を閉めて歩き出すと、雛人は室内が意外に冷えていたことに気が付いた。自分はともかく、寒がりの榊がこれで平気でいられたとは思えない。にもかかわらず、榊は涼しい顔で机に向かっていた。
 熱いコーヒーに温めたミルクを入れて戻る。
「どうぞ。徹夜続きの身体にブラックは堪えますから」
「悪いね、気を遣わせて」
「いいえ。いまあなたに倒れられたら、ここまでたまった仕事を他に誰が期日までに片付けられるのか、思いつかなかっただけですから」
「それは俺への評価と受けとっていいのかな?」
「柔和に責任追及したつもりですが」
「それは有り難いお言葉だ」
 清凰学院は名門進学校にもかかわらず月に一度は何かの催しがあるほどに行事の多い学校だった。
 そしてその都度、実行委員会を設立しそれを指揮、運営するのが生徒会の大きな仕事のひとつである。代々の生徒会はそのすべてを成功におさめ、どんな障害も見事に乗り切ったという栄光を持つ。清凰の生徒会に失敗の二文字は許されないのだ。しかしその重圧をものともせず軽々とこなし、さらに前年にないほどの盛況ぶりを見せ、平然と歴史に名を残すのが現会長、榊 犀児であった。
 根っからの祭り好きが功を奏したいい例、だと雛人は思う。
 ――幼なじみとして。
「聖夜祭は近隣からの苦情もなく、珍しく穏便に済みましたね」
 先日の聖夜祭では、スケジュール的に11月の音楽祭からあまり日がないため、規模を縮小する案も出ていたのだが、それを押し切り会長責任で全てを遂行、そして大成功をおさめたのは記憶に新しいことだった。たとえそのしわ寄せが方々に出たとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。
「ああ。あれはね、そういう手を打ったんだよ。この忙しい年の瀬に、解らず屋の相手をするのはただの体力の消耗だからね」
「いつもこうでありたいものです」
「気が向いたら善処するよ」
 視線は画面に向けたまま、榊はコーヒーに手を伸ばした。
「ところで、きみのクリスマスの予定は?」
「いくつかありますよ。クラスと、あと先輩方からも誘いを受けてます」
「そう。実は聖夜祭の反省会を開こうと思うんだが、二十四日にしようと思ってるんだ。雛くんは出席、無理かな?」
「僕よりも、他の役員がまず無理でしょうね」
「そうだろうなァ」
「あなたこそ、引く手数多の身じゃないですか。清女の人たちに後輩、それに…」
「妬いてくれてるの?」
「妬いてほしいんですか?」
「……相変わらずだな。昔とちっとも変わらない」
「あなたも全然変わりませんよ」
「それは誉めてるのかな」
 扉が開いて、事後処理に駈けずりまわっていた役員たちが次々に戻ってきた。
「榊、これ助かったワ。おかげで金沢もあっさり頷いてたぜ」
「それはよかった」
 どうもあまり穏便でない用途に用いられたらしいそれを、榊はあっさり懐にしまった。
 目が合うと悪びれずに笑みを見せる。理科教師・金沢の弱みは榊の私物のひとつであるらしい。
「ご苦労さん。悪いね、事後処理が多くて。ああコーヒーは各自でどうぞ。あと戻ってきてないのは水嶋兄弟か。なんか手間取ってるかな。宮前くん、悪いんだけどちょっと様子見てきてもらえるかな?」
「構いませんよ」
 承諾して生徒会室をあとにすると、帰り支度を終えた桐島が後ろからやってきた。
「怖いぐらいに穏やかだな。凪いだ海とでも評すべきか」
「何の話ですか」
「別に俺はいいんだケドね。しかし、反省会に参加する気はないぜ」
「強制ではないでしょう。気にすることはないですよ」
「…百も承知でそういうこと云うからなァ」
 桐島は年下の無敵のポーカーフェイスを前に苦笑しながらも、しかし難攻不落の姫などと称される少女めいた容貌がどこかはかなげな線をもってそこに立っていることに気付くと、まるで子供にやるそれのようにポンポンと雛人の頭を叩いた。
「何のつもりですか」
 微妙に戸惑いと怒気とを含んだ声音を聞いて、ようやく少し安心したように桐島が笑った。だが、雛人の問いには答えず、桐島はじゃあな、と短い挨拶を残し二年の教室に向かう階段を降りて行った。
「何なんだ、あの人は…」
 思わず独り言を呟いた自分に気付くと、雛人は強く目をつむった。
 不甲斐ない自分を律するために。


 第一校舎を出てプレハブ校舎に向かう渡り廊下に差し掛かったところで、雛人は後ろから呼びとめられた。
「ああ、いい所で会った。あのな、今度の二十四日に天文部で観測会をやることになってさ。まあ観測ってのは名目で、ほぼ飲み会なんだけど。宮前はどうする?」
「…悪い。誘いは嬉しいんだけど、その日は生徒会で反省会を開くことになってるんだ。瀬川からも部長に謝っといてくれるかな」
「それは構わないけど、自分でもフォロー入れといた方がいいかもな。あの人、拗ねると長いからサ」
「だね。了解したよ」
 一番あたりさわりのない口実を使い、雛人は部活仲間の誘いを断った。それからプレハプ校舎に着くまでに何度かそうした誘いを持ちかけられたが、生徒会がらみとあってはしつこく食い下がるような輩もいなかった。
 プレハブ校舎の中では、龍二と体育会長が平行線の話し合いを続けていた。
 が、横柄な口調も雛人が現れた途端に軟化し、適当なところで雛人が折り合いをつけると、向こうはあっさり引き下がってくれた。
「アイツ、宮前がきた途端に態度変えやがって。最初からおまえがきてりゃ話も早かったろうに」
「会長のお守りがしたかった、って云うんなら喜んで譲ったけど?」
「…謹んでお断りするよ」
 龍二の不平を一言で切り伏せて、雛人は龍二に用件を付け足した。
「知さんが音楽科から、まだ戻らないんだ。悪いんだけど龍二、途中で寄ってみてもらえないかな?」
「どうせ、和やかにお茶でも飲んでんだろ。いいけど、終わったらそのまま帰っていいよな? 時間外労働だぜコレ」
「好きにしていいよ」
「OK。じゃな。…ああ、年内に会うのはこれで最後か?」
「今年はこっちに残るけどね」
「じゃあ年明けにでもどっか行こうぜ。嵐とか各務とか誘ってさ」
「うん。ありがとう」
 龍二とは渡り廊下で別れた。
 桐島のみならず龍二にまで気を遣わせてる自分が。
 雛人は情けなくて仕方なかった。


 第一校舎の生徒会室まで戻ると、榊がひとりでキーボードを叩いていた。ほかにはもう誰もいない。
「終了したとこからみんな帰ったよ。こっちも、もうすぐ終わる」
「そうですか。こちらの方も、龍二がヘルプに行ったのですぐに終わると思いますよ。これで多少のしわ寄せが片付きますか」
「今回は珍しく穏便に行ったからな」
「はい。いつもこうでありたいものです」
 再びタイプキーの音が戻って、雛人はまた空を見上げた。白く重たい雲が一面に垂れ込めている。
「やっぱり雪は、降らないんでしょうか」
 ぽつりと呟いてみた。タイプの音は止むことなく、耳の奥へと響いてくる。
「雪を待ってるの?」
 木枯らしが枯葉をどこかへと押し流して行く。
 それは、いまの自分の心に少し似ていた。
「いいえ。雪ならどこでだって見られるじゃないですか」
「でもこの街で見たいから、きみは残るんだろう?」 
「…………」
 何も云わずに、雛人は白い巨きな雲を見ていた。
 いつのまにか冬の感傷が胸を占めていた。秋の感傷は涙を誘うが、冬の感傷は心に滲みていく。
 冬は人を一人ぼっちにする。
「何時からなんですか?」
「そうだな。夕方からにしようか。きみには是非、ワインを頼もうかな」
「反省会に、ですか?」
「もちろんだよ。会長命令だからね」
「…解りました」
 祈るような気持ちで空を見上げる。
「イブにはきっと、雪が降るよ」
 タイプの合間に榊の声が聞こえた。


 白い雲の谷間の向こうに、雛人は天使の梯子がかかるのを見た気がした。


end


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