天使が空から降ってくる



「ただいま」
 一応、そう声をかけて玄関に入ると、居間からスーツ姿の哉子が現れた。入念に施された化粧がこれから外出する旨を物語っている。
「碧は?」
 スティックを壁に立てかけバッシュを脱ぐ嵐と入れ替わりに、哉子はシャネルを香らせながらハイヒールコレクションの中から今日の一足を選び出していた。
「寝てるわ。三日くらい前から具合悪くなってね。昨日、医者にきてもらったら軽い風邪らしいんだけど、ちょうどあの眩暈も重なってるみたいで今日も起き上がれないの」
 ヒュっ、――と。
 風を切る音がして、哉子の顔の横三センチの所に嵐の右手が勢いよく打ち込まれた。
 無言でほつれた髪の毛を指で直しながらヒールを履くと、哉子は伸ばされた腕をかいくぐって一歩踏み出した。そこで振り返る。
「あの子が云ったのよ、あんたにだけはぜったい云うなって。でなきゃ、あたしだって黙ってやしないわ。見くびらないでほしいわね」
 そう云いながら、笑みを浮かべて扉に手をかける。
 嵐も何事もなかったように、伸ばした腕でスティックをつかむと壁にもたれて青いスーツの背中から目を逸らした。
「…帰りは何時に?」
「そうね。明日中には帰るつもりよ。向こうで梗平と会うことになってるの。だから碧のこと、よろしく頼むわね」
 扉が閉まって、ややしばらくしてから鍵をかける音が聞こえた。ヒールの音が遠ざかると、家を占めているのは重い静寂だけになっていた。
 五日も家を留守にするともう他人の家のような気がする。嵐は階段を上がると自室に荷物を投げ、その足で隣りの兄の部屋に向かった。
「碧?」
 返事はない。だが扉を引き開けようとすると内側から圧力がかかり、薄い扉はびくともしなくなった。
 病身でさらに無理な力を使えば命を削ることにもなりかねない。現状ではこれが力の限界なのだろうが…。
「オイ、いいかげんにしろよ」
 扉に拳を打ちつけると一瞬だけ圧力が弱まった。その隙に扉をこじ開け、部屋の中へと身を滑らせる。嵐の後ろで勢いよく扉が閉まった。
「くんなよッ」
 窓際のベッドに碧は毛布を頭からかぶり、うつ伏せていた。誰も触れないのに飛んできた枕を片手で受けとめて、嵐はベッドの方へと近づいていった。
 文庫本が宙に浮かび上がる。それだけでもかなりの負担になるのに。
「やだっ、触んな…、こっちくんな…ッ」
「誰が聞くかよ、そんなこと」
 毛布を引き剥がすと触れた所から痺れるような痛みが走った。
 両腕の間に顔をうずめて、碧はあくまでも嵐を拒む体勢でいる。宙に浮いていた本が重力にしたがって次々と落下していった。
 パシャマの下の薄い胸が激しく上下しているのが見える。黒い髪が汗に濡れてカーテンが引かれたままの薄暗闇の中で光っている。碧の身体は嵐に触れられるのを恐れていた。
 五日前、嵐が抱いた華奢な身体が小さく震えている。
 泣き顔も、細い肩も、背骨のラインも、腰の窪みも全部覚えている。忘れようとしても忘れられない。
「もう、ヤ…なんだ、おまえなんかに、好きにされん、の…」
 聞き取れないほどの小さな声で碧がつぶやいた。泣いているのだろうか。だからといって、自分に何ができるわけでもない。嵐は毛布を足元に落した。
「仕方ないだろ。そうしなきゃツライのは碧の方なんだから」
 突き放すような口調でそう云うと、碧が悔しそうに唇を噛み締めた。
「別に、俺だって好きでやってるわけじゃない」
 涙が一滴、頬を流れる。碧は声もなく嗚咽を始めていた。それを何もせずに嵐はただ眺めている。
 仕方がない、と心の内でも繰り返しながら。
「俺だって、好きでこんななんじゃない…ッ、おまえなんか」
「大嫌いなんだろう?」
「そうだよっ、大っ…嫌い、だ」
「それでいいんだろ? 気が済んだかよ」
 碧が涙に濡れた顔を上げた。何度も顔をしかめて眩暈と頭痛に耐えながら身を起こし、放心したように嵐を見つめている。あるいはこの時、嵐は碧の異変に気付いていなければならなかった。
 額に触れるとかなりの高熱を出していることが分かった。触れた箇所に意識を集中して熱を冷まそうとする。
 なぜもっと早く自分を呼ばなかったのか。自分を拒んだ碧と、その意志を尊重した母親とが恨めしかった。
 放心から、されるがままの碧の身体を抱え首筋に唇をあてる。そこから熱を吸い出すように吸うと、碧が軽く身をのけぞらせた。熱い身体を胸に抱いて、汗に濡れたパジャマを脱がせにかかる。首筋から少しずつ下に唇を下げて、順に熱を吸い出していく。
 碧のパジャマを肩から落とすと、嵐は鎖骨に舌を這わせた。濡れた感触に碧が身もだえするのを柔らかく押さえつけ、さらに下へと移動させていく。
 しばらく大人しくしていた碧がふいに身じろぎし、おもむろに身を起こした。
「あ…ら、し…?」
 ぼんやりと焦点の合わなかった目を上げて、嵐の黒髪を確かめるように軽くつかむ。
 力ない指に掌を重ねて強くにぎると碧が子供のような笑みを見せた。その笑顔に一瞬目を奪われた隙に、碧が両手で嵐にしがみついてきた。まるきり子供のような仕草で、捨てられた子猫のような濡れた目を上げる。 
 嵐の中で警告の鐘が鳴り響いた。
「きてくれたんだ、俺…合宿中だから呼んじゃいけないと思ってた。でも、帰ってきてくれたの…?」
 明かに熱に浮かされた口調で、碧がたどたどしく言葉をつなぐ。
「好きで帰ってきたわけじゃない。さっきもそう云ったろ」
 つとめて冷たく声をかけると、しがみつく腕に力がこもった。
「おまえって、なんでそう冷たいの…? 俺、おまえに嫌われんのヤなのに…。おまえは俺のこと嫌いかもしんないけど、小さい頃からずっと嫌いかもしんないけど、俺はおまえに嫌われんの、ヤ…なのに」
「自分が云ってること分かってるのか、碧?」
「なんで、俺にだけ冷たいの、嵐…。どうして、俺にだけ優しくないの…?」
「感情だけでものを云うな。一時の感情に押し流されるんじゃない」
「だって、ホントに俺は…、俺は…」
 自らしがみついていた腕を解いて碧は無表情に下を向いた。ぽろぽろと涙をこぼしながら、拭いもせずにうつむいている。
 その姿から、嵐は目を逸らせなかった。
 生まれた時から心の底からほしいと思ったのは実の兄以外に存在しなかった。
 十一で引き離されて諦めようとしたその時に、再び自分の前に現れたこの存在をもう一度手放すことなど、もう考えられもしなかった。モラルも常識もとっくにどこかに捨ててきてしまっている。
「い…た、…ィ」
 当然のように襲ってきた痛みに、疲れやすい身体が小さく震えた。
「はや、く…」
「楽になりたい?」
 こくん、と力なく頷く。腕を開くと自分からその中へと入って、碧は嵐の首に両手を回した。脱ぎかけだったパジャマはそのままに腰に手を入れると碧の口から吐息がもれた。碧が自らの意志で嵐を求めたのはこれが初めてだった。
「ヤ、つめた…」
「すぐに熱くなるよ」
「…は、んん」
「目をつむって。…何も考えなくていいから」 
 体内に蓄積された病魔のエネルギーが嵐の手に、唇に、癒されていく。脚を開き、その間に嵐を受け入れて、碧は目まぐるしい快感に耐えていた。身体中の傷みという傷みが凝縮されて下半身に集まっていく。
 焦らされて、急かされて、それは耐え難い快感にほかならなかった。体内に指の圧力を感じて、思わず腰が浮き上がるとそこから引き攣れた痛みが走った。その痛みさえも嵐が吸えばたちどころに消えてしまう。痛覚を感覚から切り離されて、目の前にあるのはめくるめく快感の幾重にも重なる波だけだった。
「…ッッ、…ッ!」
 声もなく吸い上げられて、腕の中で碧の身体が跳ねあがった。あとに残るのは疲労と過ぎた快楽の余韻。痛みはすべて消え失せている。
 荒い呼吸を繰り返しながら、碧ははっきりとしていく意識を感じていた。
 自分が何を云ったかまでは覚えている。嵐の冷たい声も。でも、いま肌に感じている嵐の腕は、指は、唇はこの上なく優しく碧を包み込んでいる。
 もう少しだけ、もう少しだけこのままでいたい。
 互いに腕を絡ませながら呼吸が静まっていくのを無言で待つ間。
 泣きたくなるような暖かい沈黙が続く。
 嵐の手が碧の髪に触れた。
「…俺、は」
「云うなよ。…何も云うな」
 唇に嵐の指を感じて、碧は続く言葉を失った。嵐の指がかすかに震えている。
 とうに日は沈み、冷え切った部屋の中で互いの体温だけを感じていた。
 カーテンの隙間を、ちらちらと白いものが絶え間なく舞い落ちている。


 祈るように目をつむって。
 嵐は腕の中の温もりを強く抱きしめていた。


end


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