もし雪が降ったら



 この冬一番の冷え込みを見せた天気のおかげで、窓ガラスは一面に白いカーテンを身につけていた。
 掌をワイパーにして外を眺めると、視界いっぱいに厚い雲が垂れ込めている。隣の家のリースの赤が白い空気に、にじんでいるように見えた。
 雲がここまで降りてきているのだろうか。そんなメルヘンな想像をしてみる。


「知、伯母さんがつくっといてくれたミートパイ、どこにあるか分かるか?」
 龍二が階段を降りてきた時、知は居間の窓から外を眺めていた。その手には靴下が握られている。どうやら、飾り付けの最中に集中力が途切れてしまったものらしい。
 付けっぱなしのテレビが今夜の空模様を告げている。関東の天気図が表示されたところで、龍二はテレビのスイッチを切った。
「そんなことしてると、いつまで経っても終わらないぞ」
「あ、龍二」
 そう言って振り向いた知の視界に、すぐ後ろの飾りかけのツリーが映った。
 まだ机にはオーナメントと電球、それに頂上の星が残されたままだった。   
「ワルイ。今やるから」
 龍二に小言を言われる前にと、知はあわてて電球に手を伸ばした。
「そろそろ料理のほうも準備しないと間に合わなくなるぞ」
「分かってるよ。でもこの電球がうまくかからないんだ。イスもぐらぐらだし…」
「じゃ押さえてるから知、かけろよ」
 それまでぐらぐらと不安定だったイスを容易く固定して龍二が促す。
 知が乗っても微動だにしないところが癪に障るところだ。天井近くまであるツリーに電球コードを巻きつけながら、つくづく神様は不公平だと思う。
「あ。そういえばこの電球、音楽鳴るんだよな?」
「そうだよ、ウレシイ? お子サマ向けの仕掛けだもんな」
「…うるさいなー」
「あれ、誰も知のことだなんて云ってないのに」
 腹立ちまぎれに取りつけた星が短気の結果として床に落っこちる。
「あーあ、どいてな知。俺が付けるから。危なっかしくて見てらんないや」
「ア、そ」
 そう云って交代した龍二が、あっという間に飾り付けを終えたのを見て一瞬、感心しかけてからますます知の頬が膨らむ。
「なに拗ねてんの?」
「別に」
「ま、適材適所ってことだな。知に飾り付けを頼んだ俺が悪かったってコトだ」
 その云われようにも、またカチンとくる。あからさまにむくれて横を向いた知に、龍二が必死に笑いをこらえてるのが分かって、やり場のない憤りが知の中に渦巻いた。
「それよりも。雪、降りそうじゃん」
 ポンと知の頭に手を乗せて龍二が云った。
 実は知もさっきからずっとそう思っていたのだが、とても素直に同意できる気分にはなれなかった。これが龍二なりの謝罪なのだと気が付いていたとしても。
「まさか、降るわけないだろ? この辺でホワイトクリマスなんて聞いたことないもん。雪なんか降んないね」
 くだらない対抗心のまま、つい口を滑らせてしまう。それを受けて、龍二が浮かべたシニカルな笑みを、背を向けていた知は見逃してしまった。
「じゃあ、賭けようぜ。降るか降らないか。負けた方が勝った方の云うことを聞く。で、俺は当然、降るに賭けるから」
「俺は降らないに賭けりゃいーんだな。いいよ、やろうぜ」
「自分の発言には責任持てよな」
「あたりまえじゃん」
 云った直後にかなり後悔していたが、もうあとには引けなかった。それにここ何年もホワイトクリスマスには恵まれてない。そう簡単に雪が降るとは思えなかった。
 もちろん、シチュエーションとしては、雪が降るに越したことはないが、兄として弟のいいなりになる、などというのは、
「プライドが許すもんか」
 それが常からの知の本音である。
「何か言った?」
「ううん別に。えーと、ミートパイは確かオーブンに入ってたような気が…」
 まだ窓際にいる龍ニをそのままに、知は小走りにキッチンへと入っていった。


 六時になって、ケーキとシャンパンが届いた頃にはすっかり料理も出来上がり、あとは晩餐の開始を待つばかりとなっていた。運悪く出張の重なった伯母はNYでクリスマスを迎えるのだという。
 その伯母が作っておいてくれた特製ミートパイは兄弟の好物でもあった。
 買ってきたターキーとローストビーフ、それに知の好きなエビフライ、龍二特製のシーザーサラダ&ヴィシソワーズ。それに知の作った少々見てくれの悪い鮭とほうれん草のグラタン。デザートはこれもまた知の好物である苺がふんだんに使われた大きなタルト。おなかの方もちょうどいい空き具合だ。
「じゃあ、始めるか」
 シャンパンの栓が飛んで、ふたりだけのクリスマスが始まる。
「なんかこういうのって久しぶりだな」
「ちゃんとツリー買って、っていうのはあれ以来だもんな」
「あの時はまだ、父さんも母さんもいたんだよな…」
「ツリーの星は父さんが付けたんだぜ。今じゃあ俺のが高いくらいなのに、父さんのイメージっていつまでも大きいままでさ」
「俺もそれある。あと、母さんも大きくてあったかいイメージあるなァ」
「そりゃあ、知はあの時点で誰より低かったもん」
「…そういう話じゃなくて」
 昔あった出来事、この家にきた当時の思い出。父と母のこと。
 とりとめないことを話しながら食事を終えると、龍二が台所からケーキを持ってきた。
「はい、お待ちかねのケーキだよ」
「あ、イチゴ?」
「しつこく云われたからね、さすがに覚えた」
「…別に、おまえの好きなヤツでもよかったのに」
「いーんだよ、知のが甘いもん好きなんだから」
「…………」
 素直にありがとうと云えなくて、知は黙ったままうつむいた。近づいてくる気配に顔を上げると龍二の顔がすぐそこにあった。知を不思議そうに見つめてから「ナイフ取ってくる」と立ち上がりかけた龍二の服のはしを、知は思わずつかんでいた。
「何…」
 云いかけて察した龍二が、ゆっくりと知の後頭部に手を添えた。あわせた唇の冷たさに、竦んだ知の唇を割って舌をすくいとる。ついばむような軽いキスを望んでいた知の明らかな戸惑いが心地よくて、さらにその気にさせたところで龍ニは突き放すように唇をはずした。
「知、ツリーのコンセント抜けてるよ」
「え? あ…」
 汚れた食器を片付けに龍二が台所に消えた間に、知はコンセントを元に戻した。しかし、龍二が戻ってきたところで、ふいに部屋の電気が消えた。
 一気に視界がなくなりその場を動けないでいると、少し遠くから龍二の声が聞こえた。
「停電みたいだな。辺り一帯、真っ暗んなってる」
 ライターの摩擦音がしてケーキのろうそくに火が点った。ようやく龍二の顔が向う側に見える。照明は細いろうそく一本きりで、室内は本当に真っ暗だった。
「大丈夫か、知」
「うん。平気だけど」
「なにもこんな日に停電しなくてもな。どうせだからこれ、全部火ィつけるぞ」
 一本ずつ、ケーキの上のろうそくが増えていく。
 炎の引力をまぶたに感じる。
 ヒーターの止まった部屋の中で、熱源はこの炎だけだった。揺れる光の向うに龍二の顔がある。それだけでなぜか安心できた。ろうそくの小さな炎が、こんなにも頼もしく見えるとは。空気が暖かくなったように感じた。
 全部のろうそくを点し終えると室内は意外に明るくなっていた。
「なあ、外見てみろよ」
 促されて窓辺に立つと、龍二が窓ガラスに大きく視界をつくった。
「俺の勝ちだぜ」
 辺り一面が真っ白に染まっていた。
 明かりの消えた真っ暗な世界に、ちらちらと白い雪が降っている。限りなく深い海の中を、彷徨い漂うプランクトンのように。
 それはいつか見た宗教画にも似た風景だった。
「う、わぁ」
 窓を開けると、闇の世界に次々と舞い降りる雪が知の掌にもふわりと乗った。
 体温で、すぐに溶けて消えてしまう結晶。
 静かだった。
 そばにいる龍二の息遣いだけが聞こえてくる。その他の音、すべてが消えてしまったかのように、広がる世界はどこまでも静謐だ。
 雪で冷えた知の手に龍二の温かい掌が重ねられた。
 耳元に暖かい息がかかる。
「……だな」
「バカ」
 白い息が空に溶けていく。後ろからあごを取られて、横を向いたまま龍二を迎え入れた。凍った空気が頬を滑っていく。熱を口移しされて身体の奥に細やかな火が点った。うずく熱がある。
 唇を離したあとの濡れた感触が恥ずかしくて知はうつむいた。肌を刺すような外気を締め出して、熱い頬をガラスに押しつける。
 そのすぐ横に龍二が手をついた。揺れる明かりがふたりを照らしている。
「何、してほしい?」
「どうせ、おまえの好きにするんだろ」
「責任をとる、って大事なことだからな」
「…おまえ、結果知ってたんだろ?」
「ノーコメント」
「ちぇ」


 柔らかいじゅうたんに頬を押しつけ目をつぶっている知の横顔に、いとおしげに唇を落とすと龍二は耳元に唇を寄せた。
「俺を、暖めてよ…」
 まぶたの裏の光りが消えて、かすかにろうそくの燃える匂いがした。耳元で急速に空気が冷えていくような気がして、目を開けると部屋が真っ暗になっている。
 闇から伸びた手に腕をつかまれて小さく悲鳴した。力強い腕に抱き込まれて、噛みつくような口づけを受けて、知は手探りでつかんだ龍二の髪に必死でしがみついていた。耳の裏をくすぐられて声が上擦る。
 せっかちな指が背筋を滑り降りて、確実にポイントを攻め込んできた。
 はだけられた服の内側に吐息を感じて、知は身体を竦めた。
「やっぱ、や…め、よ」
「なにを今更。車と男は急に止まれないの」
「だっ…て、なんか、コワ…っ」
「怖くないよ。何が怖いの。暗闇が? それとも俺が?」
「ば、か…っ」
 濡れた感触が少しずつ下がっていく。首筋から下へ、途中より道して声を上げさせてから、大きな掌が胸にあてられた。触れられて泣きたくなる。身をよじっても腕の下からは抜け出せそうになかった。
「おま…、根性悪…い」
「生まれつきだよ。よく知ってるくせに」
 よく動く指が服に忍んで、肌の上を丹念になぞりあげた。突起にかかった指に力がこもる。とっさに唇を噛むと、龍二の指がそれを抉じ開けた。
「声、出さないとよけいツライよ?」
 隙をついて両手首を捉えられる。押さえ込まれたまま脚を開かれ、知の必死の制止も聞かずに龍二が間に顔を寄せた。内腿にあたる髪の感触。
 嗚咽混じりの声を押さえきれず、知は羞恥と悔しさとそれを遥かに上回る快感との間で次第に理性を失っていった。
「やっ、そこ…んっ、あ…ッ」


 電子音が「ジングルベル」を歌い出していた。ツリーの電球がチカチカと明滅を始める。
 涙で膨張した視界に赤や緑のランプが弾けた。
「……すごいタイミング」
 息が上がったまま、だらしなく沈んだ身体を返されて、まともに龍二と目が合ってしまった。いたたまれずに両腕で顔を覆う。だが、その腕を優しく解かれて、知は思いがけず真摯な眼差しにぶつかった。
「大丈夫か? 俺、キツかった?」
「…ンなこときくな、バカ」
「でも知の『イイ』なんてセリフ、初めて聞いたけど…」
「実感込めて云うな…ッ」
 上がった息をそっと吸われて、浮いた汗を優しく拭われる。先ほどとはまるで別人のようなそのしぐさに驚きつつもなぜか嬉しくて、知はけだるい半身を起こすとふと龍二の前髪に手を伸ばしてみた。
 汗に濡れたその様子がどこか子供っぽくて、思わず笑みがもれる。
「なに、笑ってんだよ」
「…別に。弟もけっこういいなーとか、ね」
「ハ。なんだ、そりゃ」
 どちらからともなく笑い合うと唇を合わせ、知は大人しく龍二の腕の中におさまった。耳元で聞こえる規則正しい鼓動が、知の気持ちを落ち着かせてくれた。近しい体温が何よりも快かった。
「さて…。もう、ギブアップかな?」
 ややしてかけられた悪戯っぽい龍二の問いに、先手とばかり知は目の前の肩口に軽く噛みついた。それを返されて、再びじゅうたんになだれこむ。
 赤と緑の明滅の中で、溺れそうなほどに深い夜が始まる…。


 なにはともあれ、「メリークリスマス」!



end


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