初戀
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君とおもひけり……
「島崎藤村?」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、級友の榊が重そうなファイルを抱えて知の手元を覗き込んでいた。よいしょ、と知の前の席にファイルの山を作り、傍らの椅子へと腰を下ろす。
「何だよ、チャカしにきたのかよ」
唇を尖らせ、拗ねたような口調で知がそう云うと、榊は苦笑してその柔らかい猫っ毛に手を伸ばした。ポンポンとニ、三度たたいて慰める。
「まあまあ、そう落ち込みなさんな。折口の現国でよそ見するなんて自殺行為に等しいんだから。これぐらいで済んだのは、むしろ奇跡に近いかもよ」
「…………」
知はノートに書きつけられた詩の一群を、ため息混じりに眺めた。
握っていたシャーペンを右手ごと机にパタリと倒す。
六限目の現国、よそ見をしていた知に課せられた罰は折口気に入りの藤村の詩の暗唱だった。それも放課後五時までに国語研究室に披露しに行かなければならないというオマケつきで。
現在、三時四十五分。
暗記を大の苦手にしている知にとってこれは死活問題でもあった。
「なに青くなってんだよ」
「だってオレ、暗記とかめちゃめちゃ苦手なんだよーぅ…」
「ふうん。じゃあもっと青くなるようなコト云っちゃおうかな。実はこれ云いに戻ってきたんだけど、この前の英語の要提出プリント、期限今日までなんだよ」
聞いた途端、目に見えて青ざめる知に「やっぱりね…」と呟くと、榊はファイルから取り出したプリントを机に広げた。
「忘れてるんじゃないかと思ったけど、案の定だったな。ほら。サトルなくしたとか云ってたから、さっき新しいのもらってきといてやったぞ」
「…う、そ」
「現実問題だよ。出してないのは知だけ。これ出さないと単位、けっこう危ないってさ」
「まじで?」
「ご愁傷さま。タイミング悪かったなァ」
榊がわざとらしく目の前で合掌してみせる。
もうヤだ…、小声で呟いて知はノートに青ざめた頬を押しつけた。
「しかし、なんだってよそ見なんかしてたんだか。あの折口でそんなコトすんの知ぐらいじゃない? まったく度胸あんだか、ないんだかなぁ」
「人のことは放っとけよ。……あーあ」
組んだ腕の隙間から細い声が漏れる。
やれやれ、と榊は肩をすくめた。そのまま現実逃避している知の下から、のぞいていた現国のノートを引っ張り出して何の気なしにページを繰る。
乾いた紙の音が教室に響いた。
その音と外からの歓声に似た声が「放課後」の空気を色濃くしている。
この、学生だけに許されたモラトリアム。
ふいにその音があるページでピタリと止んだ。
「そういえば六限って、龍二のクラスがグラウンド使ってるんだったな」
窓際の知の席からは外のグラウンドがよく見渡せる。
榊はノートの隅に小さく書き殴られた、知の字を見逃さなかった。
「龍二といえばあいつ今日、裏庭で下級生に告白されてたらしいぜ。俺は現場にいなかったから詳しくは知らないけど、桐島が目撃しててね。龍二がその子を抱き寄せるのまでは見えてたらしい。その後は野暮になるから退散したらしいけど」
「…………」
云われなくても知はそのことを知っていた。
移動教室の時。桐島と一緒にいたのはほかでもない自分だったのである。どうもわざと云っている節のある榊の口調に、知は意地でも顔を上げなかった。
「なるほど。それでコレってわけね」
榊は藤村の書かれたページを開くと、微動だにしない知の上にそれを被せた。
しばし、二人して放課後の音に耳を傾ける。
ややあってから、その沈黙を先に破ったのは、榊の静かな声だった。
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
「……か。なかなかイイ詩だよな」
榊が目読で覚えてしまった一節を暗唱すると、のろのろと知が顔を上げた。
こころなしか目元が赤い。泣いた痕のようにも見える。
知が誰に恋をしているのか、榊は知っている。
好きになってはいけない人物。
なぜそんな人間がこの世には存在するのだろうか。
「片思いはつらいよな」
「…………っ」
ばさり、とノートが床に落ちた。
間の悪い沈黙がみるみる教室を満たしていく。
やがて。
机の下まで滑ってしまったそれを拾おうと榊が身をかがめた時、ひゅっとかすれた、小さな嗚咽が聞こえてきた。
そっと顔を上げると、知が声を押し殺して泣いていた。
しゃくりあげる声さえも堪えようと掌で口を覆い、泣くまいと必死に攻防している。だがそんな努力も空しく、涙は次々あふれ出ては、はらはらと頬を滑り落ちていった。
榊自身、初めて見る知の涙に少なからず動揺していた。
勝気で明るい性格の知だが、こんなふうに泣くこともあるのだと。
人は恋の前では無力に等しい。
世の中に人の気持ちほどままならないものもないのだ。ましてや知の思い人は…。
「…っく……ッ」
榊の前でこんな醜態を晒すまいと、知は最後まで必死にプライドにしがみついていた。しかし歪んだ視界に榊の姿を捉えながらも、絶え間なく襲いくる感情の波に抵抗しつづけるには、知はあまりに非力だった。
「……っ」
ふいに。
視界が真っ暗になって知は一瞬、思考を中断させた。
思わず涙も止まる。顔を上げると黒い視界の隅に榊のワイシャツがゆっくりと近付いてくるところだった。
「泣ける時に泣いておいた方がいい。そのうちイヤでも泣けなくなるから」
それが大人になるというコト。
榊はブレザーの上から知の頭に手を置いた。
「でも五分以内には泣き止んどいてくれよ。英語のプリントに誰か、助っ人呼んでおくから。服は机の上に置いといてくれればいい。生徒会の後、こっちに寄るから」
知の返事を待たずに、榊はきた時と同じようにファィルを抱えると出口に向かった。
立て付けの悪い戸を開けてから、思い出したようにもう一度声をかける。
「そうだ、右のポケットに飴が入ってる。オナカ空いてると必要以上に悲観的になりやすいから、とりあえずそれでも舐めとけよ」
じゃあな、と云って榊は教室を出ていった。
廊下に響く足音が静かに遠退いていく。
「…………」
知が被っていたのは榊の黒いブレザーだった。
袖口で拭った目元がヒリヒリと痛む。涙の方はさっき驚いたおかげか、すっかり引いてしまっている。その代わり、子 供の頃に味わったような罰の悪さが胸に残っていた。
机の上にはきちんとノートが乗っている。その隣りに榊のブレザーをたたんで置いた。するとその拍子にポケットから滑り落ちた何かが机に転がった。
薄紅色の飴。
知は素直にそれを拾い上げると、セロファンを剥がして口に入れた。
「薄紅の秋の実に、か…」
甘酸っぱい林檎の味が口中に広がった。
わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の杯を
君が情に酌みしかな……
「島崎藤村?」
既視感のように降ってきた声に顔を上げると、そこにいたのは榊よりすこし小柄な、よく見知った人間だった。
「龍二…」
見慣れた顔。得意の片眉を引き上げるシニカルな顔で、いまや知より十センチ以上高い身長で知のコトを見下ろしている、年子の弟。
思わず名前を呟いてしまってから知はあわてて顔を伏せた。さっき泣いたおかげで知の目は真っ赤に腫れ上がってしまっている。覗き込まれればすぐに見透かされてしまうに違いない。深く追求されては困る事柄だ。どうにか平静を装うと、知はぶっきらぼうに云った。
「何しにきたんだよ」
龍二は手に持っていた鞄を近くの机に放ると、知の前の椅子に腰掛けた。
「何って英語のプリントやりにきたんだけど。生徒会室にいたら榊さんにとっ捕まってサ、ここに派遣されてきたっつーわけ」
「…あいつ」
してやられた。知は傍らのブレザーにパンチをかました。
「書記がいなくて会議できんのかよっ」
「会長命令だろ? いいもなにもあったもんじゃない。ああ、コレ?」
龍二は知の机からプリントをすくい上げると、ひょいと知の手からシャーペンを奪って机に向かった。ため息まじりに知が筆箱から新しくシャーペンを取り出す。その間もさらさらと、龍二のシャーペンは休むことなく動き続けていた。
この分ならすぐに終わってしまうだろう。龍二は英語に限らず、昔から勉強ならたいがいの科目を平均点以上でこなしてしまう人間だった。
それに比べて知は、体育と理系以外は毎回ぎりぎりでセーフというこの体たらく。本来ならそんな知でさえも、優しく励ましてくれたであろう両親は知が十歳の時に帰らぬ人となってしまっていた、
永遠の離別。その時でさえ、しっかりしていたのは一つ年下の龍二の方だった。それ以来、何かと頼る癖がついてしまったのかもしれない。
もしかしたらこの思いさえ、その勘違いの延長線上なのではないだろうか。
「考え事かよ?」
気がつくと目の前に座っていた龍二がすぐ隣りに立っていた。
知はとっさに目元を隠す。しかし龍二は別段気にする風もなく、プリントとレポート用紙を知の机に並べて置いた。
「終わったよ。筆致が違ってバレるとまずいから、レポート用紙の方に答え書いといた。今のうちに写すんなら写せば?」
「…早かったな」
「そりゃあネ。お礼は?」
「…………アリガトウ」
知がプリントに取りかかると、龍二はそのまま隣席に落ち着いてしまった。現国のノートを興味なさげにパラパラとめくる。あるページでピタリとそれが止まった。龍二の目の色が少しだけ変わる。
「へーえ…」
しかし解答を写すのに忙しい知は、その僅かな変化に気づかなかった。
プリントがあと少しで仕上がるというところで。
「知?」
静かに呼ばれて、知は思わず顔を上げてしまった。
すかさず龍二の長い指が知の顎をとらえて、クイと持ち上げた。
「目がウサギ。珍しいね、知が泣くなんて…」
目尻をそっと指でなぞられて、知の背中をぞくりと何かが這い上がった。
「や、めろよ…」
逃れようともがく、がなぜか指は外れない。触れるか触れないかという微妙なタッチで、龍二が知の顔を撫で上げる。
低い笑い声。
「ねェ、誰に泣かされたの?」
間近で囁くように問われ、知の体がひくりと震えた。
その異様な感覚の正体を知って。
次の瞬間、知は思いきり龍二の頬を張り飛ばしていた。
「お、まえには関係ないだろ…ッ」
治まらない動悸。知は初めての感覚に激しい戸惑いを覚えていた。
叩かれた頬を押さえて、龍二はしばらく考えるように口を噤んでいたがもう片方の手でポケットから何かを取り出すと知の机に放り投げた。
なくしたと思っていた生徒手帳。
「落ちてたよ。裏庭に、ね」
目の前に投げられたそれを見て、知の血の気がにわかに引いていった。
「覗きとは随分、いい趣味じゃない?」
青ざめた知に龍二は得意の笑顔で微笑みかけると云った。
「誤解してるようだから云っとくけど、俺は別にあの子と付き合ってるってわけじゃないよ。転校するんでその前に思い出が欲しかったんだと。俺が抱いてたのはそういうわけだ。知、なんか勘違いしたんじゃないの?」
その時になって、知はノートに殴り書きした事柄について思い出していた。
「別に、そういうわけじゃ…」
「そう? ならなんでタラシなんて書かれなきゃならないわけ?」
「だって、それは事実だろ…っ」
「俺がいつも不誠実だってコト? それを云うなら俺に云い寄ってくる奴らだって、充分浅ましいじゃないか。ったく、どいつもこいつも…。ずっと見てましたとかって、初めて面と向かった人物にいきなり思い出なんか要求してくるかよ、普通? ハっ。なーにが片思いだよ。笑わせんナ」
「………っ!」
振り上げた手は龍二に当たる前に、ぐいと捕まれて捩じ上げられてしまった。それでも知はどうにかしようと、もう片方の手で龍二を突き飛ばそうと抵抗する。しかしその手も空しく押さえ込まれてしまい、知は悔しさのあまり切れるほど唇を噛み締めた。
「おまえみたいなヤツに片思いの気持ちなんて解るもんかッ。いつも好かれる立場のおまえに…、おまえなんかに片思いの苦しみが解るわけないッ!」
止まっていた涙がまたほろほろと頬を滑り落ちていった。両手をつかまれて拭うことも出来ず、知は込み上げる嗚咽に耐えていた。
こんなヤツの前で泣くもんか。そう思って堪えようとするのだが、一度陥落してしまったプライドはことごとく知の心を裏切り続ける。
「……知」
腕の下で泣きじゃくる知に、龍二は両手を解放すると濡れた頬にそっと手を伸ばした。
涙を拭いながら顔を上向かせる。
「違うよ。知のは片思いじゃない…」
すっと龍二が近付いてきた。
だんだん顔が近付いてきて。そう思った時にはもう唇が重ねられていた。
一度目は触れるだけ。
驚きのあまり抵抗するのも忘れて、知は二度目のキスを受け入れていた。
深く、浅く。
弱く、強く……。
知の見開かれた目がふわりと揺らいだ。
ゆっくりと唇をはずされる。知は焦点の合わない目で呆然と前を見ていた。
「知、林檎のアメ舐めてたろ?」
くすりと笑われて濡れた唇を拭われる。浮かされたように上気した知に龍二は優しく微笑むと、その柔らかい猫っ毛を撫でた。
知の濡れた下唇を軽くつまんで。
「初恋は林檎の味、か。なかなか悪くないね」
……もしかしなくても。
謀られごとに、知はようやくのことで気がついた。
一気に沸点に達した羞恥に、知はとっさに両腕で顔を覆った。そのまま顔を上げようとしない知に、龍二が笑って背中を叩く。
「ばっ…かやろ」
「悪かったって。だから泣くなよ、もう」
「ンなこと云ったって…っ」
「ほら。泣き止まないと」
龍二の指が背中から下へと滑り降りていった。アヤしい所に指を滑らされて、知はあわてて顔を上げた。
「こゆことされてもいいの?」
「りょ、龍二ッ」
「お望みならこんなことも…」
「っの、バカ…ッ。……っあ」
知の体をアヤしい痺れが駆け抜けていった。
時計は午後四時半を示していた。
林檎畠の樹の下に
おのずからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問いたまふこそこひしけれ……
「島崎藤村?」
研究室の前で待っていた龍二に、再度訊かれて知は力なく頷いた。
結局十ぺんほどやりなおしたのち、ようやくのことで教師から帰宅許可を得た時にはすでに時刻は五時半を回っていた。
「それがどうかしたのかよ?」
「いや、島崎藤村だったってことは知、折口に気に入られてるんだなぁと思って」
「なにそれ?」
「アイツ、気に入らない奴の場合『人間失格』の一場面を暗唱させるんだってサ」
「……知らなかった」
秋口とはいえ外は冷える。知は早々にマフラーを巻いて校舎を出た。
龍二が自転車を取りにいく間、裏門の雪柳のそばで空を見上げる。
ちょうど見上げた空の下に、生徒会室の窓があった。榊が大きな出窓に腰掛けている。
知に向かって榊は親指を立てて見せた。その後ろから桐島も顔を出す。
どうやらすっかり謀られていたらしい。知は苦笑して親指を立てて見せた。
「行こうぜ」
自転車を引いた龍二に促されて門を出る。龍二はその前に、窓に向かって立てた親指を逆さに振って見せた。
「命知らずだな」
「別に。あの人達なんて怖くないよ。怖いのはもっと別のこと」
なにより好きになった相手が一番コワい。好きな人に嫌われるのが…。
龍二は後の言葉を飲み込んだ。
「あの子にはなんて云ったの?」
ぼそりと知が呟いた。
「断ったよ。気持ちは嬉しいけど、好きな人がいるからって。でも知が桐島さんと歩いてきたのが見えて、思わず抱いてた」
「自分から抱いたのかよッ」
「知こそむやみに触らせてんじゃねーよッ。くっつき過ぎてたろ」
「……あのなぁ」
知は脱力して歩を止めた。
裏門から続く緩やかな下り坂は林に囲まれてひっそりとしている。葉擦れの音、自転車の音、呼吸の音、聞こえる音は数えるほどしかない。
二人の頭上には秋の月が輝いていた。暗くなり始めた林道を月明かりが照らす。
「しかし、またオーバーな格好してるな」
遅れた知を気遣い、立ち止まった龍二が知のマフラーを指してそう云った。
「寒いんだから仕方ないだろ」
「なら、暖めてやろうか?」
ぐいと腰を抱き寄せられてあわてて龍二の腕から逃れようとするが、力強い腕に押さえ込まれて、知は敢え無く降参した。
「…何する気だよ」
「何してほしい?」
マフラーを解かれて首筋に龍二の息がかかった。くすぐったくて思わず身をすくめる。冷えていた体の中心に、ポッと灯が点ったような感覚。
龍二は器用に、自転車と自分との間に知を挟み込むとそっと顔を近付けてきた。
「……んっ」
舐められて竦んだ唇に割り込まされる。
ゆっくりと、時間をかけて陥落させられて…。気がつくと知は龍二の服に縋りついていた。
「ん…っ!」
「暖かくなった?」
シニカルに笑いかけられて。知は言葉もなかった。
口の中にいつのまにか飴が入っている。榊にもらったあの林檎の飴。
「初恋は実らない、ってあれ嘘だね」
龍二はそういうと自転車を引いて歩き出した。
知の胸いっぱいに、甘酸っぱい林檎の味が広がっていった。
end
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