キスまでの距離



「そっちの方は終わったか」
 天窓の曇りを拭き取りながら、階下にいるはずの知に声をかける。
 不安定な脚立の上でバランスを取りながら、龍二は窓の半分までを拭き終えたところで返事のない知にもう一度呼びかけた。
「知?」
 仕方なく脚立を下り、さきほどピカピカに仕上げたばかりの階段をスリッパで踏みしめる。知がいるはずの応接室を覗くと、伯母の飼っているヒマラヤンが龍二の足元をすり抜けて行った。とりあえず龍二の視界に収まる範囲に161センチの身長はない。
「いるのか?」
「…いる」
 テーブルの向こう側から聞こえてくるくぐもった声。
 上から覗き込むようにすると、どうしたものかフローリングに無様にへばりついている知の背中が見えた。
「何してるわけ」
「……見て解んない?」
 心底憔悴しきった顔に見上げられて、龍二はようやく現状を理解した。
「また?」
「ん。瞬きしたら落っこちてきた」
 先日作ったばかりのコンタクトレンズを、器用にも瞬きで落とすのがここ数日の知の特技だった。おかげで二週間は持つはずのコンタクトレンズが日を追うごとに確実に減ってきている。こんなことならせめて、一日使いきりタイプを購入時に勧めておくんだったな…。
 今日なんてこれで二度目の捜索だ。さすがの龍二も一日に二回も同じ過ちを繰り返すとは思っていなかった。知らしいと云えばらしい話ではあるが…。
「探してやろうか」
「イヤだ…。人に頼るぐらいなら自分で踏み割る…」
「あ、そ」
 意地っ張りの知の決まり文句に、龍二は仕方なくその場に立ち尽くすと事の次第を見守ることにした。こんな苦労をしてまでも知がコンタクトにこだわる理由。そのワケを龍二は知らない。


「まだ見つからねーの?」
「…も、いい」
 ややしばらくしても発見されないコンタクトに自分でもイヤ気が差してきたのか、知は急にその場に立ち上がると靴下のままペタペタと応接室を出て行った。めずらしく諦めが早いなと思っていると、案の定、本日三組目のコンタクトを嵌めた知が戻ってきた。この諦めの悪さは母親譲りだろう。
 と、ふいに目の端に映った物。
「おまえそこ動くなよ。もっぺん探すから」
 そう云ってまたしゃがみかけた知の腕を、龍二は思い切り上につかみ上げた。
「イタ…っ、な、何すんだよっ」
「いーからじっとして」
 知の細い首筋に鈍い光を放つものが乗っている。知がじっと身を固めた隙に龍二はそれを指の腹に乗せた。
「ほらよ」
「…あ」
 その瞬間の知の顔はまさに、豆鉄砲を食らった鳩のようだったと龍二は思う。


「伯母さんが帰ってくるまでに終わらしとかねーと」
「解ってるって」
 手分けして大掃除を片付けながら、同時に夕食の献立を頭の中で組み立てる。
 なんかすっかり主夫化してねーか自分…と思いつつ、飾り棚の埃を払っているとその埃が目に入ったのか知がうめきながら背後の絨毯にしゃがみ込んだ。
「イタイ…」
「大丈夫か? …つーか、なんでそこまでしてコンタクトなんだよ」
「だってオマエ、眼鏡のやつとキスすんのヤだって…」
「え?」
 勢いで云ってしまったとばかり、知が慌てて口を押さえる。俯いた目元がみるみるうちに赤く染まった。
「そんなこと云ったか?」
「……云ってたろ。三年くらい前に食堂で誰かと話してた」
「盗み聞きか」
「た、たまたま聞こえてきただけだよっ」
 だいたい三年前って中坊の頃の話だろーがよ。そんなこといつまでも覚えてたってわけか?
「べつに眼鏡があろうとなかろうと、するけど俺は」
「う、わ…っ」
 逃げる間も与えず隣に膝をつき、首筋を捕える。
 ……こりゃ大掃除、終わりそうにねーな。
 あがこうとした体をやんわり押えつけつつ、龍二は堪え性のない自分の体を呪った。


end


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