柔らかい雨



「ねえ一ヶ月経ったよ。早く別れてよ」


 絶え間ない水音。アスファルトの上を黒々とした水が流れていく。
 六月の雨は夏を目前にしてるというのに驚くほど冷たくて、俺は濡れた服の中でいまにも凍りつきそうな体をひたすら直立不動にすることに専念していた。ごくたまに通る車のヘッドライトが、真っ暗な陸橋下を一瞬だけ照らし出す。伸びた影が一秒とかからずフェンスの向こうに消えていくのを何度見送ったことだろう。
「ヤダって、云ったら…」
「どーなるかはナルが一番解ってるでしょ?」
 初めての日、半ば無理やり抱かれて泣き叫んでるビデオ。あれが出回ることになるんだろう。そんなコトしたら自分だってただじゃ済まないクセに。でもここでノーと云ったら確実に明日の朝には学校と家とに一本ずつビデオテープが届くことになる。
 陸は嘘をつかない。そしてヒトにも嘘を許さない。
「不祥事は部活に響くんじゃないのかよ…」
「だから何?」
「おまえだって…学校にいらんなくなるかもしんねーんだぞ…ッ」
「だから何ってば。僕はナルを手放さなくて済むんなら何を切り捨てても構わないよ」
 ヘッドライトが濡れたアスファルトを光らせる。赤く染まった水溜りの真ん中で白いスニーカーがズブ濡れになってるのが見えた。足の指が悴んでて動かない。握り締めた指もいつのまにか開けないぐらい硬くなっていた。もうどれぐらいこうしてるんだろう。
「ねえ、いつまでそうしてれば気が済むの?」
 俺が黙り込んでからさらに三台の車を見送って。やがて呆れたような声が頭上から降ってきた。三年前までは確実に俺より十センチ低かった身長。それがいまでは逆の立場だ。
 親同士が仲良くて家も近くて。自然、兄弟のように一緒に育った。二つ下の陸のことを俺はずっと弟のように思っていた。陸も兄のように慕ってくれているんだと思ってた。でも違った。


 小さい頃から何でも俺の真似をするのが好きで、中学に入って始めたテニスを陸も二年遅れで始めた。俺はそれから程なくしてやめてしまったけど、陸の方は殊のほか才能を発揮して早くも有名校からスカウトがきているらしいことを話には聞いていた。だから陸が自分と同じ高校を志望しているのを知った時、少なからず驚いた。オマエならもっといくらでも選択の余地があるだろ? 向こうの両親と一緒になって説得したけど、陸はどうあっても自分の意見を曲げようとはしなかった。
「ナルと一緒の高校に行きたい」
 無邪気にそう告げる陸の意見はいつしか尊重される運びとなった。陸ももう中三だ。さすがにそろそろ兄離れしといた方がいいんじゃないの?と頭では思いつつも、陸が自分に寄せるその好意と信頼はひどく心地よくて。それを拒もうなんて気は俺にはさらさらなかった。聞き分けがよくて、礼儀正しくて。成績優秀、スポーツ万能、加えて顔もイイときては妬みの対象になってもおかしくないのに。性格のよさも誰もが認めるところで、陸はずっと自慢の弟分だった。
「今度の大会。僕、シングルスに選ばれたんだよ」
「マージで?」
「ウン。選ばれるとは思わなかったんだけどサ」
「すげーじゃんっ。つーか優勝しちゃったりすんじゃねえの?」
「さすがにそれはないでしょ。でも、もしもさ…」
 その後に続いた台詞。
「万が一優勝できたら、何か僕にご褒美くれる?」
 滅多にワガママを云わない陸の言葉に、俺は笑顔でそれを請け負うことにした。たまにはカワイイ弟のワガママを聞いてやっても罰は当たるまい。そう思ったんだ、あの時は。
 まさかあんなコトになるなんて考えもしなかったから。
「いーよ、俺にあげられるもんなら何でもやらー」
「本当に何でも?」
「あー何でもだ」
 軽く云った。そう答えた自分をその後どれだけ悔やんだか、憎んだか知れない。


「ナルのすべてを僕にちょうだい」
 シングルスで見事優勝した陸を労いにいったアイツの部屋で。
 ニッコリと告げられた台詞に俺は体を硬直させた。
「な、に云ってんだよ…冗談だよな?」
 震える問いに返ってくる言葉はなくて。それが何よりの返答。陸が下らない冗談を云わないのは知ってる。何をするにも力を惜しまず、そして本気で挑んでくるということも。
「ねえ、約束だよね?」
 近づいてきた体から咄嗟に逃げようとして捻じり上げられた腕。年の差なんて体格差の前には何の意味もないんだってことをイヤって程思い知らされた。後ろ手に縛られて半裸に剥かれて。ベッドに転がされたところで暴れ叫ぶ耳元に「無駄だよ」とヒトコト吹き込まれた。
 どうして今夜、ナルを呼んだんだと思う? 父さんも母さんも今夜から三日間、旅行に行ってていないんだ。ナルの家にはもう連絡してあるから安心してイイヨ? 三日ほど泊り込みで勉強教えてもらう約束だって云ってあるから。だからナルが今日も明日も帰らなくても、誰も心配しないんだよ。
 ねえ、まさか逃げられるなんて思ってないでしょ?
「約束、破ったりしないよね」
 頷かない俺を手ひどく抱いて処女を無残に蹴り散らしてから、陸は同じ質問をもう一度繰り返した。今度は泣きながら頷いた俺を、陸はまるで壊れ物を扱うかのように優しく、そして時間を置いて何度も抱いた。二日目の朝にビデオカメラの存在を知らされて、自分には従属しか道がないことを改めて悟らされた。
 聞き分けのいい弟も、礼儀正しい幼馴染みも何もかもが虚像。
「ずっとナルが欲しかったんだ。ナルを手に入れるためなら何でもするよ」
 自分の隣りですくすくと狂気が育っていたことを、俺は三日かけて教え込まれた。


「自分で云えないんなら僕が云ってあげようか」
 伸びてきた手がカーゴパンツに滑り込んでくる。その手が携帯をつかんで出て行くのを俺は無言で見送った。指先一本動かすことができなかった。俯けた視線の上端で携帯を操る左手が見える。すぐに遠いコール音が聞こえ始めた。
「もしもし、中村先輩ですか? 夜分にスミマセン。急の伝言なんですけど佐々木先輩、もうアナタとは付き合えないそうです。今後、見かけても声はかけないでくれって云ってました…ええ」
 電話の向こうで眉を顰めてるナツコの顔が思い浮かぶ。やたらプライドの高い女だから、こんなフラレ方をすれば二度と向こうから近づいてくることはないだろう。
 相手の機微を的確に捉えた上で繰り出される陸の別れ話に、応じない女はいままで一人もいなかった。一ヶ月ごとに繰り返される儀式。ホモなんて気持ち悪い、オトコ同志なんて吐き気がするって云ったら。じゃあ女の子と付き合ってもイイヨって陸は笑って云った。けど一ヶ月以上はダメだよ。一ヶ月経ったらどんな女とも切れるコト。これが守れるんなら女の子と付き合うのも許してあげる。
「許す? フザケンナ! オマエ何様のつもりだよッ」
 口答えするたびに自分が誰のモノなのかを体で思い知らされた。言葉で、態度で服従を誓わされた。俺が態度を改めるまで初めはこっぴどく、素直に隷属を受け入れてからは泣きたくなるほど優しく、咽ぶほどの快楽を味わわされた。
 陸の県大会優勝から三ヶ月後、俺は年下の幼馴染みに逆らうことを諦めた。
 優等生でソツがなくて、心優しい学年主席。礼儀正しくて品行方正、男女年齢問わず周囲に慕われてて、信頼の篤い生徒会長。この容れ物のどこに、こんなにも残忍で冷酷な容赦ない人格が隠れているんだろう?
 パンっ、と軽い音がして右頬を打たれた。
「いちいち断るの、メンドくさいんだよ。お別れぐらい自分で云いなよね」
 ナツコと付き合い始めて今日でちょうど一ヶ月。陸がくるのは解ってたから家には帰らず、ずっと街中をブラブラしていた。携帯もメールも全部シカトしてゲーセンで時間を潰してたら、八時過ぎになっていきなり陸本人が現れた。
 ナルの行動範囲なんてたかが知れてるんだよ。優しい微笑を浮かべながら「手間かけさせないでよね」と、陸橋下まで引き摺ってこられてそのまま雨の中、濡れた芝生の上で二時間も犯された。
 死んだ方がマシなんじゃないかって思った。ズブ濡れになったシャツが体に張り付いて剥がれない。精液が飛び散った跡も、殴られて滲んだ血の跡も、枯れるほどに流した涙の跡も。降り続く雨に紛れ、いまはもうすっかり解らなくなっていた。
 寒くてしょうがなくて自身の手で濡れた体を抱き締める。
「ほら、帰ろう」
 そう云って片手を取られる。ゆるく首を振ると呆れた溜め息がまた一つ落ちてきた。
「帰ろう。おなか空いたでしょ? 母さんがロールキャベツ作って待ってるんだ」
「……ッ」
「ねえ、なんで泣くの? 悪いのナルでしょ? ナルが云うこと聞かないからイケナイんでしょ?」
「…ッ、……っゥ」
 首を横に振るばかりで動こうとしない俺の体を陸が軽く突き放す。
「あんまり聞き分けがないと本当に知らないよ」
 最後通牒に似た通告。ここでノーと答えれば全てが終わるんだ。陸に従属を誓うことと世間に後ろ指差されること。どっちの方がマシなんだろう。天秤が傾くのはいつも僅かの差で年下の幼馴染みへの隷属だった。けどソレを選ぶたびに、心のどこかがひしゃげていくようで苦しい。
「もう…やだよ俺…」
 おまえなら他にいくらだって相手いるじゃねーか。片手をつかまれたままその場に蹲る。肩から提げてたカバンがずり落ちて水溜りにビシャリとハマった。
 濡れて黒々としたアスファルトが、街灯の僅かな明かりで鈍くウロコのように光る。
「なんで俺なんだよ…ッ」
 オトコで、取り立てて何の取り柄もなくて。
 頭だって悪いし、体力だってないし、だからオマエが何を考えてるのかなんて解らないし、いつだってオマエの暴力には抗えなかった。
「もぅ、やだよ…」
 苦しいし、もう疲れたよ俺…。オマエは俺を好きだって云うけど、それってホントに恋愛感情?
 遠いクラクションの音。ヘッドライトがアスファルトを舐めて彼方へと消えていった。
 俯いて開いた首筋に雨粒が滑り込んでくる。冷たい、つめたい、ツメタイ…。
 このまま凍え死んでしまえればいいのに。


 パタっと掌に熱い感触が落ちた。


 悴んだ指に熱が浸透していく。
「助けて、ほしいのは…」
 掠れた呟きに顔を上げると、またポツンと雫が落ちてきた。
 冷たい雨に紛れて降ってくる涙。
「タスケテほしいのは僕の方だよ…」
 次から次へと溢れる涙が陸の頬を濡らす。熱い雫が立て続けに俺の手の甲を打った。
「り、く…」
「なんでナルなのかなんて知らないよ、僕が聞きたいくらいだよ。気付いたらナルが欲しくて、ナルしかいらなくって…他の事なんて全部どうでもよくなってた」
 俺の手をつかむ指に力が入る。痛かったけど、声が出なかった。
 陸の涙なんて初めて見たから、その泣き顔から目が離せなかった。こんなに辛そうな陸の顔なんて初めて見たんだ…。いつだって笑顔を絶やさず、どんなに辛くたって弱音なんて絶対吐かなかった陸が。
 いま俺の目の前で声を殺して泣いている。
「僕が悩まなかったと思う…? オトコの、しかも幼馴染み相手に…あんなコトやこんなコトしたいって思う自分に嫌悪を感じなかったと思う?」


 記憶の断片。脳裏をよぎるフラッシュバック。
 あれは陸が中学に上がってしばらくした頃だったろうか? 陸が部屋に閉じこもって出てこなくなった日があった。オバさんに様子を見てきてって頼まれたけど、受験を控えてた俺はどうしても塾が休めなくてけっきょく陸の家を訪れることはなかった。でも次の日にはいつも通り笑顔で学校に行ってる陸がいたから皆、安心したんだっけ。「一日反抗期」なんて云われて、いまでもたまに話題に昇る。過去にあった笑い話として。
 そうたぶん、あの日から。
 陸の手首を包むようになったリストバンド。
「りく…?」
 腕から完全に抜け落ちたカバンが水溜りに倒れこむ。ビシャリという音を聞きながら俺は立ち上がらせた体を一歩、前に進めた。俺の手をつかんでる手首に緑色のリストバンドがへばりついている。濡れたそれを苦労してズラすと癒えた傷痕が見えた。癒えて尚、深い傷痕。
「リク…」
 つかまれてない方の手で濡れた頬に触れる。利き腕じゃないから少しだけ鈍い動きで俺の手が陸の頬を包んだ。
「陸」
 落ちてきた視線が絡んで揺れた。堪え切れなかったように嗚咽が漏れる。
 なあ、そんなに俺が欲しいの?
 自殺未遂を引き起こすぐらい、オマエの中で俺が占める割合って大きいの?
「云えよ、陸」
 素直に気持ちを云ってみろよ。俺にオマエを曝け出してみろよ。
 何もかも全部かなぐり捨てて、俺が欲しいって云ってみろよ。俺だけが欲しいって。世の中の何を捨てても、誰を殺しても俺が欲しいんだって。そう云えよ。

「ナルが欲しい…他には何もいらない」

 この身を縮めて仕方なかった畏れが、例えようのない優越に切り替わる瞬間。浮き立つような高揚が足元から這い上がってくる。優等生で綻びがなくて、将来の何もかもを約束されたようなオトコが俺を欲しいと云って泣くのだ。子供のように泣きじゃくって俺の手を引いて。
 絶望感に瞳の奥を真っ黒にしてるんだ。
 ヘッドライトの光を遮るように、俺は背伸びして陸に口付けた。この瞳の中に光を差し込むのも、永遠に陽光を遮るのも俺次第。


 柔らかくて、温かい雨が俺の手を打つ。
 もう寒くなんてなかった。


end


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