フェンスの向こう
別れようって決めた途端、どうしてこんなに愛しく思えるんだろう。
「ほらよ」
放り投げたタイがひらひらと空を舞い、コンクリへと着地する。
乾き切っててヒビ割れた地面。
踵の潰れた上履きがそれをギュッと踏みしめた。
アホかってくらい汚い字で書かれた「サメジマ」の四文字。どうせ水性で書いたんだろう。滲んで見えなくなってる数字とアルファベット。よーく見ると1-Cって書いてあるらしい。進級してもうだいぶ経つというのに、そういうとこがコイツらしいというか。
「なんだ朔田ん家にあったのか。じゃあ見つかんねーわけだよな」
「よく云うぜ、探してもいねーくせに」
「つーかオマエ、人のもん放り投げんなよ」
「持ってきてもらえただけでも、ありがたいと思え」
片手をポケットに突っ込んだままのものぐさな態度でタイを拾い上げると、覚島はバネのように勢いよく体を起こした。すぐ隣りで空気が揺れ動く。
覚島の匂いがした。
「他に忘れモンねーよな」
「さあな。あってももう知らねーよ」
空をふり仰ぐ。
澄み切った空がやけに目にしみて、俺はすぐにまた俯いた。
ボロボロの上履きに目を落とす。つーか俺のもいいかげん代えねーとだな。
「もうすぐ夏だな」
「あー?」
「早く、泳ぎてェ」
「…能天気なヤツ」
一昨日、掃除を終えたばかりのプールがグラウンドの隅できらきらと水面を反射させている。光の粒子がチラチラと目に刺さる。
すぐそこに迫る夏の気配。
肌を撫ぜる風が、訪れる灼熱の季節を狂おしいまでに予感させる。
じわじわと熱を蓄えてるコンクリート。
真夏に備えて、トラックの端には逃げ水たちがスタンバイしてることだろう。
「体育、水泳になんのっていつからだっけ」
「来週からじゃなかったっけ」
「ってことは、D組のが先に水泳になんのか」
「そーゆこと」
揺れる水面が鮮やかな残像を瞼に結ぶ。
夏前に終わるとは思ってなかったけど、どっちかっつーと三ヶ月もったことの方が驚きだよな。ハシカにしては長過ぎだけど、恋だとか云うには短か過ぎた三ヶ月。
英語の高畑が、どっかのクラスで声高に授業を進めてるのが聞こえてくる。二限のチャイムが鳴るにはまだ間がある。
「羨ましーだろ」
「別に。どーでもいいよ」
聞くたびにムカついてたコイツの口癖も、なんだかいまは懐かしいくらいだ。
時おり吹きつける風が覚島の黒髪を宙に踊らせる。風が止むとさやさやと揺れてたそれが、遠くを見つめる覚島の視線を隠すように覆い被さった。ただでさえどこを見てるのか解らない眼差しが完全に遮断される。
この眼差しを俺に向けたいって思った。
それが最初。
遠くに聞こえる喧騒は自習クラスのものだろうか。微熱を孕んだ風がシャツの中を通り抜けていく。夏前の空気ってどうしてこう落ち着かない気にさせるんだろう。腹の底がザワザワしてしょうがない。
覚島がフェンスに手をかける。
ガシャン、と素っ気ない音が空気を震わせた。
「白状すっとさ」
「なんだよ」
「俺さ、オトコ抱くの初めてだった。二人目ってったの、あれ嘘」
「…へーえ」
そんなこと、とっくに知ってたっつの。
勝手が違うって感じのオマエ見てればすぐに解ったし。
まあ、あん時ヤりまくったせいか、二回目からは散々泣かされたんだけどな…。
「じゃあ、お互いさまってやつだな。俺もハジメテっての大嘘だから、オマエで三人目」
「そーなんだ?」
マジかよとも、やっぱりとも云わねーんだな。薄々気付いてたくせに。
さらさらと黒髪が揺れる。
覚島の視線は変わらずプールに向けられたままだ。
二年前、当時の彼女に貰ったとかいうピアスが今日も耳元に嵌まっている。
節が太いわりに長いからか、細く見える指先。たまにかすれる低い声。薄情なハナウタを口ずさむ唇。たまにしか俺を見ない真っ黒な瞳。
空が青いからって理由で待ち合わせに二時間も遅刻してくるところとか、テメェが勝手に飽きたからって映画の途中で帰ったりするところとか。
いちいちムカついてたらキリがないってくらい、オマエは俺を怒らせる天才だったけど、でもあんなにもイヤになってた覚島の全てが、いまはこんなに愛しく思える。
手が、指が、声が、唇が。
いちいち懐かしくてしょうがないんだ。
そういえばこんな仕草が好きだったなとか、フェンスをつかむ手の揃った爪先が貝殻みたいでキレイだとか。懐かしくて、なのに妙に新鮮で。
何とも云えない感慨。
こんなにも優しく、オマエを許せる瞬間がくるなんてな。
それはたぶん、俺の中でオマエが完全に終わった証拠なんだろう。
「え?」
突風が覚島の声を攫った。
さやさやと黒髪が風に揺れる。
その向こうから現れた眼差しは、驚くほど真っ直ぐ俺のことを見つめていた。
「俺、さ」
「ウン」
「生涯で、オトコはおまえ一人だと思う」
恥ずかしげもなくそんなことを云ってのけて。
「…………」
繋いだ視線を外しもしない。
そんなところが限りなくコイツらしいとか思ってしまう。
好きだったよ、俺。
たぶん、いまでもまだ好きだ。
だってオマエも俺のこと、まだ好きだろ?
別に俺ら、嫌い合って別れるわけじゃねーもんな。
でもそれだけじゃ、やってけないことがあるんだって。
俺たちは初めて知ったんだ。
二限目終了のチャイムが鳴る。
間伸びしたそれが視線を断ち切った。
「じゃーま、廊下で会っても無視すんなよな」
「それはこっちの台詞だっつの。オマエぜってー、シカトしそー」
「しねーよ」
「嘘つけ」
「だから、しねーって」
そういう無駄に頑固なところとか、時々妙に生真面目なところとか。
真っ直ぐ伸びた背筋の潔さだとか、抱き締めてきた時の腕の強さだとか。
たまに見せる笑顔がどれだけ俺の胸を締め付けてたか、オマエ知らねーだろ。
「じゃーな」
「おう」
背中を見れば、ああまだ好きだなって思う。
ズルズルと踵を引き摺って歩く、ものぐさな足音が遠のいていく。
覚島のもたらした全てのドキドキはもう思い出に変わっちまったけど、でもこの思い出が色褪せることはきっと一生ないだろう。
ゴゥン、と重い音を立てて鉄の扉が戸を閉ざす。
振り仰いだ空。目の端で水面が乱反射する。
「あーあ…」
滲む青。
上等じゃねーか。
俺は生まれて初めて、失恋の涙の味を知った。
end
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