花の記憶



 これが最後じゃない、って何度も自分に云い聞かせてた。


 あの時「友達でいよう」って云ったのは俺の方なのにな。ともすると大泣きして、いまにもおまえの腕を引き止めてしまいそうになる。
 高校に上がっても、児島は変わらず隣りにいてくれるんだと思ってた。そう信じてた。
「東京に行くよ」
 昨夜の電話でおまえから直接、そう聞かされるまで。


 ハラハラと花の舞う並木道を、児島の背中が歩いていく。
 俺は立ち止まると、そっと手の甲で涙を拭った。
「なんだよ、卒業式なんかじゃ泣かないんじゃなかったのか?」
 振り返った児島が意地悪げに片目を眇める。
「煩いな…」
「佐伯は昔っから泣き虫だもんな。小6ん時の学芸会でも、確か」
「だから、煩いってばっ」
 平手で学ランの背中を思い切り叩く。
 予想外に派手な音がして自分でもちょっと焦ったくらいだったのに、まるで何事もなかったかのように肩をすくめると児島はニっと白い歯を見せて笑った。
「相変わらずの馬鹿力」
「…何だよ」
「だからさ、そうやっていつも威勢よくしてろよ。じゃないと俺、心配で東京になんか行けやしねーよ」
 白い花びらが児島の頬をかすめていく。
 風が吹くたびにそこかしこで吹き荒れる白い嵐。
 なんだろう…。
 おまえの声が遠いよ、児島。
「嘘つけ。俺がなんて云ったっておまえは結局行っちまうくせに」
 視線の先で形のいい唇が、笑みを結んだ。
「当ったり前だろ、夢のためなら俺は家族をも捨てる覚悟だぜ」
 冗談めかした台詞の裏に、児島の本音が見え隠れしてる。


 一言もそんなこと云わないけど、家ではずいぶん揉めたんだろう。
 そりゃ普通、せっかく受かった私立を蹴って息子が東京でプーになろうとしてたら家族総出で猛反対するよな。
 唇の端が切れてるのは親父さんか、テツ兄の鉄拳を受けたからだろう。
 でもおまえの夢なんて、周囲の誰もが耳にタコできるくらい聞かされ飽きてるんだぜ。それを本気で阻みたいヤツなんて一人もいねーよ。ただ皆、おまえが心配なだけなんだ。
 解ってるよな、そんなことくらい。
 俺だって、おまえに「行くな」なんて云えやしねーんだぜ。

「それで、いつ発つんだって」
「明日。荷物はもう全部、送っちまった」
「へーえ」
 気のない返事を返しながら、俺はいよいよ現実味を伴ってきた別離に心臓がキリキリと痛み出すのを感じていた。馬鹿デカイ万力で締め上げられてるみたいだ。
「また、急な話なんだな」
 俺とおまえの距離。
 いまは数10センチもないだろう。手を伸ばせば簡単に届く。
 直接、体温に触れることができる。
「まあ、決めたのはそう最近でもねーんだけどな」
「…そっか」
 の割にはずいぶん間際になるまで、俺には教えてくれなかったんだな。
 それがおまえの友達レベルってこと? 
 じゃあ、もしもあの時違う答えを返していたら…。
 俺はいま、こんな気持ちを味わわなくても済んだのだろうか。



 夏休み前。
 塾帰りの路上で、児島はいきなり「好きだ」と云った。
 ジョークでなんかとても返せないくらい真剣な瞳。
 電信柱の明かりの下で俺はバカみたいに、児島の目の中にいる自分を見つめてた。
 いわゆる幼馴染みというか、腐れ縁ってやつ。小さい頃からずっと一緒で、弱味も強味もすべて知り尽くしてるような児島に突然そんなことを云われて、俺は心の底から動揺していた。
 でも、ただ一つはっきりしてたのは、好きだとかどうとかいうよりも前に、俺は児島という存在をなくしたくなかった。たくさんの経験や思い出を分かち合ってきたこの存在が、自分から離れていくのが何より怖かった。

「この気持ちに嘘はないから。佐伯が好きだ、でも佐伯を困らせたいわけじゃないんだ。どっちを取るかはおまえが決めてくれよ、友情か恋愛か」

 ぶっちゃけた話、どっちでもいいと思ったんだよ。
 おまえと繋がっていられるんなら。
 でも、もしも恋愛を選んで、この先それが壊れてしまったら?
 俺たちは二度と、元のポジションには戻れないだろう。
 なぜなら、恋愛の終末はジ・エンドだからだ。
 でも友情だったらいくらでもコンティニューできる。そう思ったから俺は「友達」を選んだんだよ。
「解った」
 一瞬だけ、目を伏せた児島。
 でも次に視線を上げた時には、もういつもの児島になってた。
 前を進む背中も、かったるげに鞄を振る仕草も、ちょっとはにかんだように笑うクセも。
「明日さ、俺たぶん英語当たんだよね。佐伯さ、二限前に俺んとこノート持ってきてくんない?」
「またかよ。おっまえこないだもだろー」
 軽口に軽口で返しながら、辿る家路。
 五分前となんら変わりない風景。
 変わらないアイツがいて、変わらない俺がいて。ああ、これでいいんだと思った。おまえが隣りにいる。それだけで俺は安心できたから。

 なのに、おまえは俺から離れてく、って云うんだな。
 一っ言の相談もなしに電話で結果だけ聞かせて、あっさりサヨナラ。
 おまえにとっての「友達」ってこういうこと?
 それともこれは復讐なの?
 おまえの気持ちを踏みにじった俺への、念の入った意趣返しってわけ?


「向こうの住所も決まってんだろ?」
「ああ」
「……ふうん」
 教える気もないってのか。
 風が俺たちの間を通り抜けていく。
 じゃあさ、ココで俺が縋りついて「東京になんか行くな」って泣き喚いたら、おまえ行くのやめてくれる?
 それでやめてくれんだったら俺いくらでも云うし、どんなことだってするよ。
 でもきっと何をしたって、おまえは俺を捨てて先の未来へと進んでいくんだ。
 本当はおまえの夢なんてどうでもいいよ、そばにいてって云いたい。いろよって、強要したい。
 でも云えない。たとえこのプライドを俺が苦労して捨てても、おまえの意志は変わらないだろうから。そんなことを自ら再確認するほど、俺もバカじゃないし、マゾじゃないよ。でも。

 日に焼けた肌。少し小さく見える学ラン。
 卒業証書を片手に悠々と進んでいく背中は、もう俺の知ってる児島じゃないのかもしれない。
 進んでいく背中がどんどん小さくなっていく。
 吹き荒れる風に白い花びらが舞う。掻き消えそうな背中。


「児島ッ!」


 ゴウゴウと耳元で鳴る風の音。
 視界いっぱいに白い嵐が巻き起こった。
 何も見えなくて、必死に声だけを張り上げる。
「児島…ッ」
 もしかたら聞こえないかもしれない。
 それならそれでいい。こんな気持ち、いまさらおまえに聞かせてもしょうがない。
 それでも云ってやりたかった。
「俺、おまえのこと好きだからなッ」
 舞い散る花びら。ヒラヒラと頬を撫でては、そこかしこで渦を巻く白い風。
 聞こえてなくてもいい。おまえが俺のこと、もう嫌いだってんならそれもしょうがないし。
 でも俺の気持ちだけは伝えときたかった。
 鳴り止まぬ風の音。
「…………」
 返る声はない。
 花びらの向こうに児島はいない。
 たとえようのない空虚が俺の胸を支配する。


 こんなことならあの時、おまえの手をつかんでればよかったな。
 こんな風に終わるくらいなら…。





「ふざけんじゃねーよ」

 一瞬、息が止まったかと思った。背後から絡められ腕がきつく俺を抱きすくめてる。
「これじゃ俺、何のために東京行くのか解んねえじゃねーかよッ」
 風の音よりも近くで、あいつの声がした。
「夢の、ためなんだろ?」
「半分はなっ」
 腕に込められている力が徐々に強まっていく。
 密着した体が互いの体温を伝える。
「長期戦で行こうと思ったんだよ。これ以上おまえのそばにいると、何するか解んなかったから」
「友達でいるって云ったくせに…」
「しょうがねーだろ? 俺だって好きなやつ目の前にしていつまでも平静でいられるほど人間できてねんだよ、抱きたいとか、キスしたいとかすぐ考えちまうオトコなんだよっ」
「…苦しいよ、児島」
「少しジッとしてろ」
 身じろぎも許されないくらいきつく、きつく抱き締められた。
 風の音が遠くの方で鳴ってる。
 あたりを取り巻く白い花びら。


「佐伯…」
 耳元に押し付けられた唇が低く囁く。
 思わず背筋がゾクっとした。
「…いま体、ピクってなったぜ」
「お、おまえが変なトコで囁いたりするからっ」
「決めた。俺、今夜おまえのこと抱くワ」
「は? か、勝手に決めるなよッ」
「イヤだ、絶対抱く」
 性急な手が学ランの下に入り、白いシャツを抜く。
「バカっ、何考えてんだおまえは!」
「おまえの体中に俺のもんだって印をつけたいんだよ、じゃなきゃ心配で向こうになんか行けねーよ」
 はだけられた首筋にあいつの唇が落ちる。
 きつく吸われて、また体がビクンってなった。やばい、反応してる。
 どこからくるのか解らないエネルギーが足元から立ち上ってるみたいだ。体中をめぐったそれが次第に力を奪っていく。
 これ以上されたら俺、どうかなっちまいそう…。

 すべての花びらが地面へと着地する頃、俺はようやく解放された。
 遠くで騒いでた風の音も、いつのまにかそよ風のそれへと変わっている。
「こんなトコにつけんなよな…」
「色白だから映えるね、こーゆうの」
「バカっ」
 振りむきざま持ち上げた手を、宙でつかまれて引き寄せられる。
 さっきまでの強引さがまるで嘘みたいに、今度は優しく抱き締められた。
 サラサラと足元を花びらが流れていく。

「…東京なんて遠くねーよ」
「ああ、遠くない。俺も会いにくるしな」
 児島の声よりも心臓の音の方が近くに聞こえる。
 鼓動の裏に、ささやかな風の音。

 人は幸せ過ぎると涙を流す生き物だという。 
 昔、何かの本で読んだ覚えがある。あの時はバカらしいと思ったはずなのに…。


 俺の頬を滑った涙が、児島の学ランを濡らした。


end


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