天国の日々



 君がいま、隣りにいればいいのに。
 そう思わない日はないよ。


 いま僕のとなりにいるのが君だったら、君は何を思っただろうか。
 君の瞳にはいまこの瞬間、何が映っていただろうか。
 あの目映いばかりの波の飛沫が、沖合いに浮かぶ木の葉のような漁船が、カモメが空に描く緩やかな曲線が。
 君には僕と同じように見えただろうね。
 広い砂浜、切り立った断崖、散らばる貝殻
 あの日と何も変わらないのに、君だけがいない。
 僕の隣りに。
 キレイだねって僕が云っても、答えてくれる君がいない。
 君がいないんだ…。


 君はもうどこにもいない。
 この世のどこにも、存在しない。
 もう二度と会えない。
 何度もそう云い聞かせてるのに、僕の目は君を捜してしまうんだ。
 いま振り返ったら、僕の後ろにはにかんで照れくさそうに笑った君が。
 もしかしたら、あのボートの影に座りこんで口笛を吹いている君が。
 あんな所に蟹がいたよ、って岩場の方から歩いてくる君が。
 いまにも現れるんじゃないかって。
 無意識のうちに捜してしまう。
 君の姿を。


 松井は心配性だなぁ、って。
 俺も少しはその几帳面さを見習わないとね、って。
 まったくおまえには隠し事ができないよ、って。
 そう云ってくれる君の声が。
 君の声が欲しくてたまらないんだ。
 聴きたいのは君の声だけ。
 なのに僕の耳に聞こえてくるのは、寒々しい風の音と。
 悲しげに鳴くカモメの声だけ。


 君がいない。
 こんなにも長い幸福の不在が僕の元を訪れるなんて。
 二ヶ月前は思ってもみなかったよ。
 君がいて、僕がいて。
 それだけで満ち足りた空間。
 この時間は永遠に続くんだって思ってた。
 終わりなんて一生やってこないんだって信じてた。
 だから君も同じようにそう感じているんだって、僕は思ってたんだよ。
 けどそうじゃなかった。
 じゃなけりゃ君はあんな所から、飛び降りたりはしなかっただろう。



 どうして。
 なぜ、君は僕を置いて行ってしまったの。
 サヨナラの一言もなしに。
 あの日ここで別れた君が、その数時間後にあの断崖から飛び降りるなんて。
 夢にも思わないじゃないか。
 またねって。明日、学校でなって。宿題忘れんなよって、そう云ってたのに。
 いつもと変わらない別れ際。
 変わらない笑顔。
 宙にひらめかせた指先も、片手で肩に掲げたカバンも、白いシャツの中でピンと伸びた背筋も。
 何も変わらない。
 なのにこんなふうに、火が消えるように潰えてしまうのが平穏だって。
 誰もいままで教えてくれなかったんだよ。



「いくら待ったところで、アイツはココにゃ現れねーぜ」
「解ってるよ…」
 砕け散る波の音。
 いつのまにか広がりはじめた雲の灰色が、空の青を次第に侵食していく。
「そろそろ行こうぜ。なんか冷えてきた」
「ウン、ごめんね篠宮」
 差し出された手をつかみ防波堤に上がる。
 温かい掌。
 自分の手がどれだけ冷えていたのか、いまさらながら思い知る。
「云っとくけどな、俺は別に松井に謝ってほしくてやってるわけじゃないぜ」
「そうだね。アリガトウ、篠宮」
「…別に、礼を云われたいわけでもねーけどな」
 あっという間に雲に塗りつぶされた空がいまにも泣き出しはじめそうだ。
 光を失い、何万もの蛇がひしめいているかのように見える海。
 制服の隙間から入ってくる風が冷たい。
 夏の日々がこの浜辺にも訪れてたなんて、信じられないくらい寒々しい風景。
 君がいない。
 それだけで僕の心は冬の海のようなのに。


 変わらない笑顔。
 明るい口調。
 何もかもが前と同じ。
 ただ、それが僕に向けられないってだけの話で。
 目覚めた時、他の誰のことも覚えてたのに僕のことだけを忘れてしまってた君。
 誰? なんて。
 俺と君って知り合いだったっけ? なんて。
 冗談でも云われたくない台詞だよ。
 悪いけど全然覚えてないんだ。
 そんな、親友だったって云われてもね…。
 そう云って濁される言葉。


「何かのきっかけで思い出すこともありますよ」
 そんな楽観的な医者の言葉を、盲目的に信じてればいいの?
 いつかきっと。
 そう、いつかきっと君は僕を思い出して「松井」ってまた呼んでくれるんだ。
 なんでおまえのこと忘れてたんだろうなって。
 俺ってほんとバカだよな。
 ごめんな松井、ってすまなそうに謝る君。
 そしたら僕は笑って云うんだ。
 気にするなよって。
 思い出してくれただけでもいーんだから。
 まあ、それでも気に病むって云うんなら向こう一週間、僕の昼食代おまえ持ちね。どう?
 そしたら君は声を出して笑うだろうね。
 そして笑いながら、OKと云って僕の肩を叩くんだ。
 きっと。
 そう、いつかきっと…。


「駅前でなんか食ってかねぇ? 腹、減っちまった」
「篠宮って意外に大食漢だよね。なのにどうして太らないんだろう」
「そりゃ神サマの覚えが目出度いからだろ」
「よく云うよ」
 いま僕の隣りにいるのは篠宮だ。
 そして君の隣りにいるのは…。
「あ、神田だ」
 云ってからシマッタって顔を篠宮が浮かべる。
 アーケードの向こう。ゲーセンと薬屋のちょうど境目。
 神田の隣りで、楽しそうに笑ってる君がいる。
 笑いながら君が何か云って、ゲラゲラと神田が腹を抱える。
 楽しげな雰囲気。
 翳りのない子供みたいな笑顔。
 あの笑顔を曇らせるのは…。
 神田が何か云ってこちらに向けられる二つの視線。
 ほら、スゥーって君の笑顔が消えていくんだ。
「行こうぜ、松井」
「ウン」
 ばいばーいと素っ頓狂に明るい神田の声がアーケードの高い屋根に響く。
 それに軽く手を振り、僕らはそのまま横道にそれた。
 篠宮の手が僕の肩に乗せられる。
 体の震えを悟られただろうか。
「裏通りのパスタ屋行こうぜ」
「今月、僕ピンチなんだよね。篠宮の奢りなら考えるよ」
「ああ? …しゃーねーな。奢ったら」
「サンキュ」
 篠宮の指に力がこもる。
 肩が熱い。


 君の中で、僕はもういらないものになってるんだね。
 あの日々は戻らない。
 もう二度とこの掌の中には。


「忘れちまえよ、あんなヤツのことなんか」
「そう、簡単にはいかないでしょう」
「俺がおまえの隣りにいてもか」
「篠宮は大事な友人だよ」
 目を合わせなくても、篠宮の感情が指先から流れ出てくるようだ。
 知ってるよ篠宮。…解ってたよ。
 でもね、いまこの手を取ることはとても容易いことだけど、それはけして僕を、そして篠宮をも救うことのない事態を招くことになるんだよ。きっと。
 それともこれは、僕の強情な虚勢なんだろうか。
 篠宮の手が遠ざかっていく。
「…いまはそれで我慢しといてやるよ」
「アリガトウ、篠宮」
「俺が聞きたいのはそんな台詞じゃないんだけどね」
「僕が云える台詞は限られてるから」
「あーあー悪かったな。しょーがねェーから、デザートも奢ってやるよ。ジェラート好きだったよな?」
「ウン…」
 そういう無骨な気遣いがなにより嬉しくて、でも言葉にすることができない。
 ゴメンもアリガトウも篠宮を傷つけることにしかならないから。
 僕にできるのは素直に笑顔を浮かべることだけだ。
 ありがとう、篠宮。
 それからホントに、ごめんね…。


 こうして続く新しい日々を。
 僕はまたいつか、天国と呼べるようになるのだろうか。
 もう還らないあの日々のように。


end


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