白河夜船



「松下のクセに生意気なんだよ…!」


 急に聞こえてきた罵倒に眉を顰めると、ちょうど和泉が布団の上で寝返りを打つところだった。続いて言葉にもならないか細い呟きが赤い唇からいくつか零れる。
「寝言かよ…」
 つーか、いったい何の夢みてんだよ? スヤスヤスヤスヤ眠りこけやがって。こちとら新年明けてからロクに睡眠取ってないというのに、この急の招かれざる来訪者はさっきからもう5時間眠りっ放しだ。
「自分ちょっと松下だと思って…ッ」
「……だーから何の夢みてんだっつーの」
 そろそろ覚醒が近いだろうコトを察して、松下は読みかけの雑誌を床に落とすとリビングからキッチンへと素足のまま移動した。作り置いてあるお粥に火を入れる。カゼ薬はさっき珠チャン先輩に貰ったのがリビングのローテーブルに放ってあるから、後はこのバカの腹を膨らましてそれを飲ませるだけという首尾。…ったく、こんな状態で外になんか出てくるなよな。おかげでこっちはイイ迷惑だ。ローテーブルに白粥の皿と水の入ったコップとを置くと、皿の縁に乗せたスプーンがカチャンと小さく鳴った。それが引き金になったように「…ん」和泉の両目がうっすらと開く。
「起きたか?」
「……ここ、…ドコ?」
 まるで焦点の合わない瞳が天井を回ってフローリングに落ちて。それからようやく自分の上で像を結ぶ。
「俺ん家」
 傍らに胡坐をかいてガガガッとローテーブルを引き寄せると、その音に驚いたように和泉が小さく身を竦めた。カゼの所為か、もともとの頭の回転の所為か、まだ事態が把握し切れてないらしい声がボンヤリと呟く。
「……俺、まだ夢見てる…?」
「さあ、どーだかな」
 見返してきた視線が不安げに揺らめく。汗で濡れた前髪が額に張り付いて、それがいつになく白い肌を艶かしく見せていた。それと相反するように、無防備で子供のような表情。そのあどけない視線がまるで生まれたての雛のように、気付いたら一心に自分を見つめていた。
「何だよ」
「…松下が、いる」
「そりゃ家主だからな、当然いるよな」
「ねえ、松下は俺のこと好き?」
「は?」
 唐突な台詞に眉を顰めると「ね、好き?」と和泉が世にも可愛らしく小首を傾げてみせた。一瞬、その瞳に感じた引力を錯覚だと云い張って目を逸らす。こりゃだいぶ熱上がってんな、コイツ…。熱冷ましのクスリも別に貰っといた方がよかったかもしんねえ。いや、今更だけど。
「どうだろーな」
「……嘘。ちゃんと答えて。俺のコト好き?」
 それも熱のためなのか、しっとりと潤んだ両目がジッと真摯な眼差しを注いでくる。ある意味、絡み上戸より性質悪いよなコレ…。
 少し尖った赤い唇が「マツシタ…?」たどたどしい口調で名前を紡ぐ。
「…………」
 熱に浮かされた病人の相手なんて、やってらんねー。けっきょくバカを見るのはこっちの方なのだ。逸らしてた視線を端的に和泉の表面だけに戻すと、松下はその顔色からカゼの進行具合を窺った。昼過ぎよりは血色が良くなっている。とりあえず食わせる前に熱を測っておくか。「ほらよ」差し出した体温計を素直に受け取った和泉がソレを赤い唇に従順に咥える。このコワイぐらいの素直さ。熱を測る間もジッと見つめてくる視線の熱さは変わらない。誘うように揺れる瞳がたまに伏せてはまた自分を捉える。なんつーか、針のムシロに座らされた気分だよな…。
 三分後、鳴った体温計を取り上げてみると案の定、38.5度。デジタル数値が示したそれはケッコウな重病人のモノで。これじゃ無碍に追い出すわけにもいかない。…しゃーねえ、腹括るか。
「とりあえずメシ食えよ」
「食欲なんかな…」
「いーから食えよ。じゃなきゃクスリも飲めねーだろ」
「……ん」
 幼稚園児に云って聞かせるようにヤンワリ諭すと和泉がコクン、と殊勝に頷いてみせた。上体を起こしたままの和泉の膝に皿を乗せてやろうとしたところで。

     ヒュッ

 和泉の腕が空を切った。オイ、いまのは避けなければ確実に頭にヒットだったよな…?
「何、いまの」
「ああ、松下が痛がったら夢じゃないなぁって…」
「……コレならどうだ?」
 一口分すくったスプーンをグイっと口元に押し付けてやる。
「アッ、チ…!」
 唇に触れるか触れないかの時点で逸らしたスプーンを自分の口に放り込む。コイツが猫舌なのは知ってるから皿に盛った時点でそれほど熱くないのは確認済みだ。ったく、大げさなやつめ。それを見てた和泉が「あ…」一瞬、目を丸くするのを視界の端、捉えて。
 ああ、いまので一つ確信できたぞ…。
「ゆ、夢じゃないからって熱いとは…限らねーじゃん…?」
 よく解らない理屈で返ってきた台詞が何よりの証拠。
「ああ、そうだよな。夢かもしんねーもんな」
 一口分すくった白粥を改めてもう一度、和泉の口元まで持っていってやる。
「クチ開けてみ?」
「……熱いから冷ましてくんないと食えないよ」
「ワガママなやつ」
 スプーンに乗せた粥をこれみよがしに吹いて冷ましてから、もう一度薄く開いた唇にスプーン押し付けてやる。
「アーンしてみ?」
 僅かな逡巡。チロリ、と上がった視線が窺いを入れてくるのにシカトを通してると「…………」さらに少し間があってから和泉が恐る恐る唇を開いた。

 赤い唇がパクリとスプーンを食む。

 白い喉が間近でコクンと嚥下するのを見送ってから、もう一口分スプーンにすくったところで和泉が力ない風情で横に首を振った。
「…もういい。自分で食べれるから」
「遠慮するなよ。俺が食わせてやるからさ」
「いい、平気」
 和泉にも充分な悪意が伝わったらしい。熱に逆上せた演技が揺らいで、素のアイツが戸惑いを抱えているのがアリアリと見て取れた。ヒトを謀るんならもう少しそれ相応の技術を磨いておけよ。
 暴かれた魂胆、さてオマエはどう出るよ? スプーンに乗せた一口を自身の口に放り込んだところでまた和泉が眉を動かした。いちいち返ってくるその反応がおかしくてしょうがない。
「なんなら口移しで食わせてやろうか?」
 駄目押しとばかり不穏な台詞を突きつけてやると、和泉の細い肩がピクンと小さく揺れた。心持ち目元が赤く染まって見えるのは気のせいではないだろう。とりあえず熱があるのは確かな事実、これ以上病人を甚振るのはさすがに人道に反する気がしないでもない。ヒトを欺こうとしやがったのは何よりムカつくけどな…。安い挑発を反故にしようとクチを開きかけたところで。
「やれるもんなら…やってみろよ」
 返ってきた挑発返し。さっきまでのトロンとした眼差しが嘘のように、痛いぐらいの視線が松下の横顔に突き刺さった。コイツも大概アタマ悪いよな。そんなんじゃ引くに引けねーだろうが…。

「後悔、すんなよ?」

 交えた視線を外すことなく、スプーンを咥えると松下は少しずつ和泉に滲り寄って行った。和泉の長い睫毛が音を立てそうにバチバチっと二度瞬きしてから、ゆっくりと持ち上がる。かすかにソレが震えてるのが解ったのはそれだけ和泉に顔を近づけていたからだ。白く滑らかな喉がか細い呼吸を断続的に紡ぐ。赤い唇を舐めて濡らした舌先がおずおずと戸惑うように奥に引っ込んでいく。それを思わず追いたい衝動に駆られて苦笑交じり自分を律する。ココでハマったら向こうの思うツボだ。
 寝癖で跳ねた髪に指先をうずめて軽く固定する。間近で見つめた大きな瞳が泣きそうな風情でユラユラ揺れて見えた。薄く開いたまま微かに震える唇に自身のソレを重ねかけたところで。

「やっぱムリ…ッ!」

 ドンッ、と和泉の両手が俺の胸を叩いた。それを合図に口中にあった白粥を嚥下する。正直ここまで粘るとは思ってなかったので、自分でも予想外な瀬戸際まで追い詰められていたことを自嘲気味に顧みる。けれど和泉の心臓は自分の鼓動とは比較にならないほどの早鐘を打っていたんだろう。真っ赤になった顔を毛布で隠した和泉がゴロゴロとフローリングの端まで転がっていく。
「信じらんねー…!」
「先に仕掛けてきたのはそっちの方だろ?」
 腹立ちを隠すことなく壁に蹴りを入れる細身。いーけどね、隣りの有永さんいま正月帰省で留守宅だから。好きなだけ蹴ってろよ。つーかそれ以前に。
「だーからメシ食えって」
 ローテーブルに肘をつき待つこと三分、戻ってくる気配のない芋虫もどきをしょーがねえから捕獲しに近づいていくと「なあ…」毛布の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「なんだよ」
「……さっきの答えは?」
「さあな、オマエと同じかもしんねーぜ?」
「……ふうん。じゃあ大っ嫌いなんだ」
「そうそう」
 ガンっ、とまた壁が一際高く鳴る。いつもより感情表現が直接的なのはやはり熱の影響があるのかもしれない。何だかんだとバカに手間暇かけさせられた所為ですっかり冷め切ったお粥を温めて戻ると。
「勘弁してくれよ…」
 芋虫はいつの間にか白河夜船に乗っていた。
 軽く蹴っても動かない体。仕方ないので毛布に包まった肢体を両腕に抱えて布団の上に乗せる。クスリを飲ますのが先決か、睡眠を尊重するのがベターなのか。悩むうち、ドッと疲れが押し寄せてきた気がして。


 数分後には松下も和泉の隣りで、ゆっくり白河夜船を漕いでいた。


end


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