眠れる森



 耳元で呼ばれた名前。
 散乱した意識を収束させるとアイツが隣りで俺を覗き込んでた。
 水を湛えたような瞳の奥に、いまだ眠りから覚めやらない顔つきの自分がいる。
 シーツに頬を押し付けたまま何度か瞬きを繰り返すと、また静かに名前を呼ばれた。
 イズミ、そう呟かれた筈の唇はなぜかきつく結ばれたままで。
 アイツの声だけが何処かから鼓膜を震わせていた。


      おいで


 差し出された手に掌を重ねる。
 アイツは俺の手を引くと行くぞ、と何処か遠くを見てそう囁いた。
 左手で握り締めてたシーツがずるずると床を引き摺る。
 夜だった筈なのに扉を抜けるとそこは真昼の熱帯雨林で。
 裸足の足に苔生した石の感触がヒンヤリ冷たかった。
 囁く水音が背後で流れてる。
 遥か頭上で尾を引く鳥の声。
 振り仰いだ先、空に空はなくて。
 ただ真っ白い光が辺りを照らし出してた。


     ココは何処?


 自分の声が静かに上から降ってくる。
 声帯という器官はもはや声を紡ぐ機能を放棄してしまったのだろう。
 意志がそのまま声となり、どこからともなく零れ落ちてくる。
 よーく耳を澄ますと数多の囁きが光と共に降り注がれているのが解った。
 倒木を踏み越えて、手を引かれるまま何処とも知れない到達点を目指す。
 あ、呟きと共に手放したシーツが湿った地面を覆う。
 待って、先を行くアイツを引き止めて慌てて振り返る。
 けれどそこにはもう何もなくて。
 そうして無くしたものがいままでどれだけあったろうか。
 行くぞ、促されるまままた歩き始める。
 足の裏で踏みしめる冷たい地面がなぜかひどく懐かしくて。
 気付いたら頬が冷たく濡れてた。
 もうどれぐらい泣いてるんだろう。


     着いたぞ


 気がつくと俺たちは白い棺の前に立っていた。
 少し蓋のずれたソレを、幾分小高い位置から並んで見下ろす。
 誰の、なんて聞かなくても解ったから。
 俺はただアイツの冷たい手を握り締めてた。
 棺の周りにだけ敷き詰められた白い花弁。
 よく見るとその中には白いプラスチックやマグカップ。
 使いかけの白い絵具や貝殻の破片なんかも混じってて。
 その中で何かがキラキラ光ってた。


     庭師鳥は勤勉だな


 淡々とした呟きが空を覆う。
 湿った黒土と灰色の枯葉とが足の裏でサクサクと小さな音を立てる。
 何処かで鳥がまた囀りの尾を引いた。
 白いプラスチックのスプーンが空から降ってくる。
 花弁の上に落ちたソレが乾いた音を立てた。
 その横に転がってる薄汚れた白いテディベア。
 胸に縫い付けられた「KONRAD」のアルファベット、それが俺の涙腺を壊した。
 ヒトは忘れなければ生きてはいけない動物だから。
 ふとした拍子に引き出される記憶の断片。
 それすら美化された偽りのメモリー。
 コンラッドと名付けたソレを抱き締めて眠った夜。
 あの夜の興奮も歓喜も、いまはもうリアルに思い出すことが出来ない。
 嬉しかったはずなのに。
 あんなに喜んだはずなのに。
 手の届かない感慨。
 アイツの手が俺の涙を拭った。
 この指のくれた熱さえ思い出せないなんて。
 俺が生きてきたことに果たしてどれだけの価値があるんだろう。
 こんな風に忘れてしまうのであれば。
 ゴトン、と棺の蓋が外れた。
 折り重なるようにして並ぶ二つの死体。


     オマエと此処にくるのは二度目だな


 アイツがそう云って、俺は何も云わずその胸に顔を埋めた。
 眠れる森の奥深く。
 孵らない卵の孵化を待つように。
 羽化しない蝶の飛び立ちを待つように。
 還れない場所を思い返しながら、いつしか朽ち果てていくのだろう。
 こうして二人、手を繋ぎながら。
 冷えた手を温める術はもうどこにもないのだから。



 ★ ★ ★



「ってゆう、夢を見た」
「何だソリャ…俺もオマエも死んでんじゃねーか」
「あ、やっぱそう思う?」
「なんか心中クサイのがすげーイヤなんだけど。冗談じゃない」
 トールグラスの中で崩れた氷が、カラン…と涼しげな音を立てる。ストローで掻き回すと炭酸の弾ける音が鼓膜を擽った。残り二口でフォークを置いたケーキ皿は五分前からそのまま。手をつけてない。
「でも、なんか夢って感じしなくてサ。起きてからしばらくボーッとしちゃった」
「ボーッとしてんのはいつものことだろ?」
「…ちぇ、夢ン中じゃあんなに優しかったくせに」
「アホ。そこまで責任持てるかよ」
 二十分前に頼んだケーキもソーダもまだ残っているというのに、五分前にきたばかりのアイスコーヒーが真っ先にテーブルから消えた。ガムシロもミルクも入らないコーヒーはひたすら黒くて何処までも苦そうで。こんなモノ飲むヤツの正気が知れないっていつもそう思う。
「早く食えよ。次の急行は二十四分だ」
「解ってるってば」
 待ち合わせに遅れてきたのは自分のくせに、なんて態度がデカいんだろう。約束の時間に松下が現れなかった時点でケーキを追加したのは妥当な判断だったと思える。本当はベルビーニョフレーズとかデリスとか高価いヤツ追加してやろうと思ってたけど、今日はパリ・ブレストとノワゼットで勘弁してやる。だって今日はアレも買ってもらう約束だったから。
「こんなのが出てきたからそんな夢見るんじゃねーの?」
「たぶんね」
 ノワゼットの最後の一口を含んだところで、松下の手が向かいから伸びてきて俺のカバンから顔を覗かせてたクマの頭をガシリと掴んだ。懐かしいものが出てきたから、と昨日母親から宅急便で送られてきた白いテディベア。それはもはや白なんて呼べる色合いじゃなくて。あの五歳の誕生日の夜から、今年で齢十八年のコンラッド。それだけの年月を感じさせるには充分な汚れ具合だと云えよう。とっくに捨てられたと思ってたのに、どこかに紛れ込んでたんだな。俺がソーダを飲み干した時点で松下が立ち上がる。伝票を手に無言でレジへと向かう背中はなかなか潔い。フムフム。しばらくはこの付近での仕事が続くと云ってたから、またこのテでケーキが食べられるかもしれないな。そう思うと自然、頬の筋肉が緩んだ。
「で、ドレを買うって?」
「クマ、白いクマのケーキ!」
 ココでの待ち合わせが決定した時点でほとんど無理やりに近く、昨日取り付けた約束。それを松下がちゃんと覚えてて、しかも自分から云い出してくれたコトが途方もなく嬉しい、なんてことはモチロン顔には出さない。ピロートークなんていちいち覚えてないって、いつも口癖みたいに云ってるから本当は少し不安だったんだ。朝、起きた時点ですでに隣りは蛻の殻だったし。
「行くぞ」
 ケーキの箱を提げた松下に続いて店を出る。冷えた風が頬を撫ぜていった。もう夏も終わりなんだな…。そう思うとなんだか少し寂しいような、悲しいような心地がしてくる。耳の奥で庭師鳥の声が聞こえたような気がした。
「ほらよ」
「サンキュ」
 渡されたケーキの箱を左手に持ち替える。空いた右手に一瞬触れた、熱い指先の感触。この指のくれる全てを覚えてることは出来ないかもしれないけれど。でも繋いだ手の温かさを、喩え頭が忘れてしまったとしても。この熱を体が忘れることはないだろう。結んだ手の熱さは九月にはまだちょっと早い気もしたけど。俺もアイツも振り解くことなく。
 左手ではデフェール・ベアがゆらゆらと揺れてた。


end


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