ユージュアル・サスペクツ



 騙して、騙されて。駆け引きの関係。
 張り巡らした罠と、気転と計算。最後に笑うのは俺かおまえか。
 敗北は誰を指差すのだろう?


「アホか、こいつは」
 エンディングを前にして本格的に眠り込んでしまった和泉の背中を見て、俺は深い嘆息を禁じ得なかった。最後まで観なけりゃこの映画は何のイミもねーんだよ。映画が2時間あるとすれば1時間55分はワケの解らない退屈な犯罪映画なのだ。だが、この最後の五分が恐ろしく壮快。例えればいままでずっと友人だと思いそう信じて疑いもしなかったものをヒョイと横からすくわれて「これ、電動なんだよ」とあっさり教えられるような。ストンと最後に観客を落としてくれる。この五分を観ないでこの映画を観るイミなんか一ミリだってないというのに。
 俺はリモコンの停止ボタンを押すとそのまま電源を切った。もともとコイツには荷の勝ちすぎることだったのかもしれない。そもそもコイツにこの映画を見せたこと自体が過ちだったのだ。
「オイ、起きろよ和泉。起きて帰りやがれ」
 PM11:00。ひそめることもなく、標準トーンで声をかけつつフローリングに転がったカラダを軽く蹴ってみる。タヌキ寝入りなら見破る自信があったが…。コイツ、完全に熟睡してやがる。
 少しは大人しくなるかとビデオのスイッチを入れたのだが、それが裏目に出た。確かにヒマだ、ヒマだと横で際限なく騒がれるよりはずっとマシだが、これで連泊は決定したようなものだ。どうも帰る気のさらさらないコイツにしたらそれこそ、このシメタ展開を提供してしまったのは不本意ながらも俺自身ということになる。しくじった。
「おい、和泉。……ったく」
 揺さぶってもまるで起きる気配のない和泉を諦め、俺は仕方なくヘッドホンを外しコンポの前を離れた。このままコイツを床に転がしておくわけにもいかない。健康的な寝息とは対照的に、ほんの少しやつれた風情の白い頬。何もしなくてもいつも赤く色づいている唇が少し開いて呼吸をくりかえしている。戯れにソコに指をあててみる。ふんわりしていて、しっとりとした感触。横顔にかかった前髪をはらうと、柔らかい猫っ毛がするすると指先を滑った。寝てるからこそできるコト。コイツが起きてたら、間違ってもこんなに大人しく触らせるわけがない。
 少女と見紛うばかりの容貌。黙ってれば99%女の子だと思われることだろう。それも可憐な少女、とでも呼びたい雰囲気だ。色白でそこだけ絵具を落としたかのように赤い唇。砂糖菓子みたいに甘くて、小悪魔のように奔放なロリータ。中身はそれと似ても似つかないクソガキだというのに。加えて自分で自身の容姿を自覚してるだけによけい性質が悪い。19年間、最大限それを活用して生きてきたのだろう。ちやほやとお姫さま待遇を受けながら、歳月をかけてこの我侭な性格を育んできたようだ。そのくせヘンなところで妙に素直だったり、世間に疎かったり。危なっかしくて見ていられない。世話を見る義理も義務もないのに、つい手を出し、口を出してしまう。こんなつもりじゃなかったのに。
 腕にかかえて抱き上げる。見た目通り、華奢で細いだけあって体重も軽い。五十キロあるのか、コイツ? 疑いたくなるほどだ。
 昼間どっかのバカが布団一式にマミーなんか零しやがったおかげで、和泉どころか俺の寝床さえ今夜は確保できない状態だ。布団が帰ってくるのは早くても明日以降。俺だけならどうにでもなるがコイツはそうもいかない。昨夜も何度か咳き込んでいたのを知っている。憔悴した横顔。仕方ない。やむを得ない。何度も自分にそう云い聞かせる。和泉を腕に俺は隣室に繋がった扉に手をかけた。


 ここを開けるのはいつぐらいぶりだろうか。ルームメイトが出てってからは、中に不要物を収納したきり入ることもなかった。入ると嫌でも目につくものがたくさん置いてあるから。
 暗い室内に灯りを点すと、壁際のソファーに和泉を横たえる。その隣りでは持ち主を失ったピアノが途方に暮れたように蛍光灯の明かりを反射していた。前住人の好みのおかげで緑色に統一された狭い部屋。置き忘れられた楽譜があちこちに散っている。床に落ちてた一枚を拾うとその束の上に重ねた。何も感じないといったら嘘になるが、思ったよりも傷跡は疼かなかった。切り捨てた時に膿んだ傷口もかなり癒えたようだ。しかし、こうして見るとえらく久しぶりに楽譜なんてものを目にした気がする。意識してそのテのことを避けたつもりはないが、無意識中にも働く何かがあったのだろうか。挫折感を嫌って?
 自分と違って大雑把なあの人は、楽譜がばらばらになろうと紛失しようとまるで頓着しない性格だった。あの日電話一本でここを出てった時のまま。この部屋にはほとんど手をつけていない。と云ってもあるのはピアノとソファーくらいでクローゼットの中にも数着の服がかかってるだけだ。大事なもんは全部、胸の中にしまっとくもんよ。口癖のようによく云っていた。部屋の隅に丸めて放られていた毛布を広げると、懐かしい匂いがした。
「いまごろ何やってるんだか…」
 口に出した呟きは意外に大きく、部屋に響いた。小さく身じろいだ和泉に萌黄色の毛布をかける。
 何やってんだ、は自分の方だ…。癒えたと思っても、完治までの道程にはほど遠いということか。中澤はどんな気持ちでいまを過ごしているのだろう。同じ道を切り捨てた人間として。 


「…さ…ゥ…」
 和泉が唇だけで何かを呟いた。声にならない声。涙が一滴、頬を下ってソファーに弾かれる。 
 コイツも何を抱えてるんだか。何かから逃げるために日に何度も微眠むのだろうが、そのたびにその何かの夢をみるのだろう。昨夜は、うなされて子供のように泣きじゃくり始めた背中を思わず抱き締めてしまった。だが腕を回した途端、俺は失敗したことに気付いた。暖かい感触。恐ろしいくらい収まりのいいカラダ。離したくなくなる。鼻をくすぐる和泉の匂い。そして結局、腕を解けないまま朝を迎えてしまった。
 なんでコイツ泣くんだよ…。両腕が和泉の感触を覚えている。カラダが和泉の重さを覚えている。あの温もりが恋しいと心が云う。ソレが欲しいと暴走を始める執着心。
 征服してしまえ。すべてを支配しろ。壊せ、壊して造り替えて。自分好みに調教してしまえ。飼い慣らして。飼い殺しにして服従を誓わせたい。嫌がるカラダを無理やり押さえつけて。醜悪な欲望の餌食にしてやりたい。剥き出しの欲望の捌け口にしてしまいたい。どす黒い欲望。焼き尽くされる本能。
 視界にゆっくりとフェードインした手が和泉へと伸びていく。それをただ見送る。触れた指先にヒヤリと濡れた頬の感触。途端、黒く塗り潰された胸に雪が降るように。白くなる心象。浄化されていく。
「チクショウ…」
 白い肌。長い睫毛を彩るように、涙が丸く粒になって纏わりついている。優しく抱き締めてしまいたい。壊れないようにそっと腕に抱いて。その温もりに酔いたい。何人もこの眠りを侵せないように、何人もこのカラダを奪えないように。そのためなら一生、番人でもいい。永遠の処女性を。この掌で覆い隠してしまいたい。
 まったく…。どうしてこんなにも俺を掻き乱すのだろう。コイツだけが俺を惑わせる。俺を狂わせる。涙一つで。
 俺にとってコイツって何なんだろうか。もしかしたら、俺はとんでもないジョーカーを引き当ててしまったのかもしれない。一度手にしてしまったら二度と手放せない。致命的な弱点にして、同時に最大のワイルドカード。
 一度始めてしまったゲームを、こちらから終わらせる手立てはどこにもない。終わらせる気もさらさらなかった。このまま流されてしまえ。この欲望の淵にあるものが何なのか、この目で見極めてやる。


 どこかで、何かが鳴っている。
 携帯? 和音が奏でるG線上のアリア。急激に現実へと引き戻される。
「ああ…。久しぶりにかけてきたな」
 思い浮かぶ顔。二度ほどリピートしてからバッハが途絶える。笑えるハナシだ。ほんの数分前の感慨など気付けばまるで忘れてしまっていた。この曲を繰り返し弾き続けた日々さえも色褪せて感じる。コイツに出会ってからか? 傷の痛みを気にしないでいられるようになったのは。自ら、進んで認めたい事実ではないが…。簡単な優先順位。思い知らされた気がした。 
「くだんねーな」
 そう云いながらも、唇の片端が上がるのを止められなかった。ソファーでは和泉がすーすーと寝息をたてている。その鼻を軽くつまんでみる。五秒もつまんでると驚いたようにパチリと和泉の両目が開いた。
「…てっ、テメェ何してやがる」
「ああ、なんだ生きてたのか。死んでるのかと思ってつい、な」
「ふざけんなよ、てめェ!」
 口から次々飛び出す悪口雑言。起きてみれば先ほどまでの色気など欠片もない、ただのクソガキだ。だから夜中に騒ぐなっての。近所迷惑もいいところだ。ギャーギャーとうるさい顎をつかまえて無理やり唇を塞いだ。途端に辺りが静かになる。今度の休みにでもこの部屋を片そう。閉めっ放しだったカーテンを開けて何ヶ月かぶりに光を入れよう。砂時計をもう一度引っくり返してみる。


 重ねた唇を外すと、借りてきた猫のように大人しくなった和泉が俺を見つめていた。その目がくるりと悪戯そうに回る。何やら云いたげに開かれた唇。強かに何かを画策してる瞳。計略。工作。仕掛けた罠とそれにかけるための手口と手管。さあどうするよ、和泉。おまえはどう出る?
 タイミングを計る目線。視線の駆け引き。一瞬の油断も許されない。
 この瞬間がたまらない。騙し騙されて、うまく陥れては陥れられて。勝利と敗北を行ったり来たりする。己の名誉とプライドにかけて。


 負けられない勝負はまだまだ続く…。


end


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