銀冠の星の下
暗闇の中にざわざわと揺らめく人波。
その流れに呑み込まれてから、もうどれくらいが経つのだろう。
見上げた堤防沿いにはその倍もの人影が流れてて、見てるだけで気分が悪くなってくる。夜になって涼しくなったとはいえ、これだけの人が溢れていればイヤでも体感温度は上昇する。
このクソ暑い中、何を好き好んでこんな暗闇に人が犇いてるかってゆーと。
その理由は夜空にあった。
ドン、と腹部に響く重低音。パラパラと音を立てて散る色とりどりの火花たち。仕掛け花火と打ち上げ花火の宴もたけなわ。ワイドスターマインが夜空に鮮やかなラインを描いてた。
観客の間から絶え間なく沸き起こる拍手と歓声。
そりゃ花火を見たい、と騒きたてたのは俺だけどさ…。何も一人で見たかったわけじゃない。
認めたくはないが年甲斐もなく迷子になって数十分。混雑の所為か携帯もまるで使い物にならず、さすがに途方に暮れかけてた俺に救いの手を差し伸べてきたのは。
「よう、嬢ちゃん」
常日頃からウサン臭いと思っていた、あのヒゲ面のオッサンだった。
無精ひげは本日も健在なようだ。
「…嬢ちゃんとか云ってんなよ」
「ならそっちも、ヒゲ面のオッサンとか呼ぶなよな」
フワフワと軽く頭を撫でられる。その正面切った子供扱いがムカつくってんだよっ。
見た目年齢三十路のくせに! これでホントに俺とタメ? ぜってー嘘だね。年齢詐称間違いなし。どっからどう見たって立派なオッサンじゃねーか。
「うるせーんだよ、オッサンっ」
「まったく、強情っぱりなお嬢ちゃんですねー」
人のいい笑みをさらに深めて近江が笑う。だからその子供扱いをやめれっつーの!
パッ…と、夜空に咲く閃光の花。
その光が近江の顔を一瞬、明るく照らし出した。
少し遅れて重低音が響く。
お、お? つーかさ、アンタ一回ヒゲ剃ってみれば? それさえなけりゃ少しはマシな顔になるって。せめて二十代前半くらいには見えるはず…。
「う、わっ」
急にグイっと抱き寄せられて、俺は思わず全身を硬直させた。
くだらない事に気を取られてるうちに近江の腕がしっかり俺の腰に回されていた。
「ふ、ふざけんなよ、このエロじじい!」
「そのエロじじいの前で油断する方が悪い」
きっぱり云い切った近江がさらに体を寄せてこようとする。
「はっ、離せよっ」
「ダーイジョウブだって。俺と嬢ちゃんなら、ちゃんとカップルに見えっから」
「そういう問題じゃねえ!」
長身、無精ひげと並んで、素知らぬ顔で悪意を実行に移してくるトコもこの男のイヤな特徴の一つだった。いままでに何度、胆の冷える思いをさせられてきたことか。
「じゃあ、どういう問題?」
軽口を叩きながらも、容赦なく迫り来ようとする体を必死に押し返す。だが見かけによらず分厚い胸板はビクともしなかった。勘弁しろよ、この馬鹿力!
「やめっ、ろよッ」
「うーん、必死な顔がまた可愛い」
「このド変態!」
絶え間ない閃光と重低音の中、ほぼ全力で抵抗してると急に片頬に冷たいモノを押し当てられた。篭ってた熱が一瞬で退いていく。途端に体中の力が抜けた。
「そのぐらいにしとけよ」
「なんだ、やっときたのか」
「無闇に騒いでんなよ、周りに迷惑だろーが」
頬に押し付けられたカキ氷のプラスチックカップ。肌の奥がキン、と冷えて痺れた。
甘いシロップの匂いが鼻をくすぐる。
「そーら、嬢ちゃんお迎えがきたぞーう」
松下がきた途端、近江は大人しく両腕の拘束を解いた。
俺は慌てて長身のそばを離れると、とりあえず松下の背後に回った。近江がクスリと口元を歪ませる。
「なんだ、せっかく保護者を呼んでやったのに礼の一つもなしか?」
「何が保護者だよっ」
「最も、迷子の嬢ちゃんを見殺しにしてた張本人はコイツだぜ」
「見殺し?」
「ホント鈍いねェ、このお嬢ちゃんは」
近江が指で何かを指し示す。見ると俺の腰に電飾で光る安っぽい夜店のオモチャがぶら下がっていた。不規則な明滅を繰り返す塩ビの金魚。いつのまにこんなモノを…。
「さっき嬢ちゃんがカキ氷買い行く前、このオトコが括りつけたんだよ。迷子防止にって」
「は?」
ってことは何か。俺がどこにいるかなんてのは、おまえらにはずっとお見通しだったってことか? つーか、それ以前に…。
「迷子前提って何だよ、オイっ」
思わず松下に掴みかかる。だが、アイツは涼しい顔で肩を竦めただけだった。
「文句あんのかよ。見事に役立ったじゃねーか」
「だったらもっと早くにこいよッ」
「まさか、この年でホントに迷子になってるとは思わねーじゃん」
「う、うるさッ」
「ほらよ」
渡されたカップを反射的に受け取る。
毒々しいまでに赤く染まった氷がこんもりとカップに山積みされていた。
「…ブルーハワイのがよかった」
「一人で屋台も見つけられないヤツが文句云うな」
「ぐっ」
そろそろ花火も佳境に入ったのか。立て続けに重低音が鳴り響く。
また流れはじめた人波に呑まれないよう、俺は松下のシャツをぎゅっと握り締めた。
「移動すんぞ」
「ん」
歩きはじめた松下について鉄橋をくぐる。と、急に重低音が間近になった。
震動で内臓が小刻みに揺れる。
喉を下る氷の冷たさとも相俟り、爪先から頭までを一気に震えが駆け抜けていった。
川面と空とで同時に咲き誇る大輪の花。
尾を引いて散った花びらが水面で上下、交じり合う。
ハレーションの海と音の洪水。
太陽が昇ったかのように辺りが明るくなって、くっきりと浮かび上がった水辺の草がサラサラと風になびいているのが見えた。
揺れる黒髪。
風を孕んで膨らんだシャツ。
真摯な眼差しを空に向ける立ち姿。
なぜだか急に、その視線をこちらに向けたくなった。
「松下」
だが名前を呼んでも、まるで気付く気配のない横顔。
「なあ、松下ってば」
光と音の渦で自分の声さえもがよく聞こえない。スターマインの号砲が夜空を埋め尽くす。ああ、そうか今なら。今なら云っちゃってもいいのかもしれない。
そう思いついた時にはもう口が滑ってた。
「俺さ、おまえのことずっと…」
最後まで一気に云い切った途端、夜空に銀色の星が弾けた。
「なんだよ」
さっきは呼んでも気付かなかったくせに、今度は呼んでもいないのにいきなり松下がこっちを振り返った。
「き、聞こえてたのか、いまの…」
動揺した俺の手からストローが転がり落ちる。う、わ。まだ半分しか食べてないのに…。カップごと落とさなかったのがせめてもの救いか。
「何が?」
「だ、だからいまの…」
沸き立つ歓声。
ひときわ辺りが明るくなった。フィナーレの銀冠スターマインだ。
「あぁ? 何云ってんのか、全然聞こえねーよ!」
「だからァ、…あーもう…ッ!」
掴んだシャツを思い切り引っぱる。
背伸びして絡め取った首筋に体重をかけて、近づいてきた頬に俺はそっと唇を押し当てた。氷で冷えた唇に熱い肌の感触。
すぐに火照った掌が俺の両頬を包み込んできた。
「ん…っ」
頬の上で弾けた閃光と共に。
熱い舌が俺の口の中に滑り込んでくる。
たぶん、この夏がいけないんだよな。
もしくはこの夜の所為だ。
むせるような夜気とか、眩暈わせるスパンコールとか、意識を混濁させるあの重低音とか…。いや、もしかしたらあの星がいけないんだろうか?
銀冠が空を覆っているから?
だったらせめて、あの星が墜ちるまではこの腕の中に溺れてても許されるだろうか。
って、何云ってんだよな、俺も。
あーあ。
けっきょく銀星が水面に潰えるまで、俺は松下の腕の中にいた。
だから、すべてはあの星の所為なんだってば…。夏ってやつはホント魔性の季節だと思うよ。
「帰っぞ」
「おう」
翻ったシャツの裾をつかまえて歩く。
目蓋の裏にはまだあのハレーション。目を閉じればすぐそこに銀冠が輝いている。
たぶん俺は一生、この夏を忘れないんだろうな…。
end
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