ロマンス
降りしきる蝉時雨を頭から浴びながら。
鬱蒼とした並木道を通り抜けると、緩やかな坂道がその先に続く。
緑深い公園を一歩踏み出せばそこは灼熱の世界だ。
「あっつ…」
さすがの松下もこの暑さには閉口していた。焦げきったアスファルトから立ち上る熱気が目に見える。
確か先週の日曜も、こんな殺人的な快晴じゃなかっただろうか。
うだるような坂道を上りきり、見知った家の門をくぐると庭先で遊んでいた犬たちがすぐにこちらへと駆けつけてきた。慣れた手つきでそれをあやしながら、松下は玄関には向かわず、リビングに面した中庭の方へと脚を向けた。
午後の散水の時間なのだろう。白い帽子を被った律子が先を圧し潰したホースで丹念に庭木に水をまいている。
飛沫の向こうに一瞬だけ鮮やかな七色がのぞく。
その眩しさに思わず手を翳すと、サラサラとした光の粒子がするりと指先をすり抜けていった。
「きたわね」
弟の姿に気がつくと律子は散水をやめ、柔らかな芝にミュールを埋めながらリビングへ続く敷石に向かった。
二匹の犬がその足元に無邪気に纏わりつく。それを片手で宥めながら、律子はフフと口元だけで笑ういつもの笑みを見せた。顔立ちは間違いなく母親似なのに、そうやって笑うクセだけは父親そっくりだ。最も松下も、父親似の顔で母親譲りのため息をつくクセは昔から変わらないのだが。お互い様か。
「もう。あんたが来るの遅かったから、このコたちの散歩時間になっちゃったわよ」
「そりゃ悪かったな」
「あとで責任持って、散歩に連れてってあげてよね」
「ハイハイ」
姉にしてはずいぶん見え透いたウソだ。
この炎天下の中、犬を外に連れ出すなんて虐待行為に等しい。
真夏の日中に犬を散歩させるほど、律子は犬に慣れていないわけじゃない。
どうにかして自分をこの場に引きとめようとするこの強引さは、あの母親譲りのものだろう。だがそれも悪い気はしなかった。
「それで? 今日は何をご所望ですかね、姉君は」
「美しきロスマリンがいいわ」
「了解」
勝手知ったる気安さで松下は庭からリビングへ上がると、脱ぎ捨てたバッシュをステップにそろえた。冷たいフローリングを踏みしめる。いったん廊下に出て器楽室に入ると、手入れの行き届いた愛器を手に松下は再びリビングへと戻った。グランドピアノの向こうで猫さながらにソファーに寝そべった律子が口元を笑みで歪ませる。
ゆったりとした深呼吸。
ややして、静かなリビング内に美しきロスマリンが響きはじめた。
家を出てから、こうして日曜ごとに姉の家を訪れては望むままの曲を聴かせるのが松下の習慣になっていた。
部屋を貸す代わりの条件、として提示されたのがコレだったのである。
毎日飽きるほど弾いていた頃とは違う。
思うように弾けない歯痒さ、動かない指への腹立たしさ。
そんな葛藤がいまだ自分の内にあることに毎週のように驚いてしまう。自分から不要だと切り捨てた世界なのに。
「続けて、愛の喜び。愛の悲しみ」
「はいはい」
云われるままにポジションを取り、ひんやりとした空気にメロディを乗せていく。
今日は心なしか調子がいいようだった。
思い描くよりも滑らかな旋律が室内をゆっくり流れていく。
愛の喜びで溢れ出すようなメロディが部屋の隅々にまで行き渡ると、愛の悲しみで堪えきれない感情が四隅でわだかまる。情景が目に見えるようだった。
弾き終えてソファーの方を見やると、妙に考え深げに律子が腕を組んでいた。
「ふうん」
「なんだよ」
「別に。じゃあ次はシューベルトのアヴェ・マリアね」
云いながら立ち上がった律子がピアノの前に座る。めずらしいコトもあるもんだな。いつもは寝転がって聞いてるだけなのに、今日はどういう風の吹き回しだ?
静かにはじまった旋律にあわせてポジションを構える。
重なり合う音。
広がりを見せるメロディ。
誰かとこうして合わせるのなんていつ以来だろう。久しく記憶になかった。
高二の学内コンクール以来? あの時はピアノ科の佐川と組んだんだっけ。アイツ、いま頃どうしてるんだろう。
わりと天才肌のヤツで、あの頃は持って生まれた感性にまだ技術の追いつかない面があったけど、あれからもう二年だ。不毛なジレンマからも解放されたことだろう。学校のヤツなんていままで思い出しもしなかったのにな。
「チャイコフスキー、感傷的なワルツ」
顔の印象が不鮮明なヤツでも、ソイツの出す音ならアリアリと思い浮かべることが出来る。研ぎ澄まされた切っ先でサディスティックにその場を掻き乱してた原島。どうしようもなく弛んだ線を面白いまでに引き伸ばして見せた横江。どこまでも穏やかで凪いだ海のように滑らかな芹沢。トリッキーでアクロバティックな絶技を持つ庄司。甘く鳴かせた音色の裏で、獰猛な野性を飼い慣らしてた西条。
いまはどんな音を出しているんだろうか。
「ペルゴレージ、アンダンティーノ」
やめたことに後悔はない。
そう云い切れるようになったのは最近なのかもしれない。
当たり前のように弾いていたヴァィオリンにはじめて疑問を抱いた瞬間。それは確かに祖父の死がきっかけだった。このまま弾き続けることにどれだけの意味があるのか、まるきり見出せなくなっていた、あの時。
「手遅れになる前に目が覚めて良かったな」
祖父の死を悼み敬意を表する言葉が、そんな一言であっていいわけがなかった。
「大丈夫だ、いまからでも遅くない。私の云う通りに弾けばいいんだ」
あんたの云う通りに弾けば何が見えるって?
栄光? 名声?
そんなものにどれだけの意味があるっていうんだ。
他人の下す評価に取り縋って生きて、いったい何を誇りに思えって?
黒を白と云い、白を黒だと云わされる人生なんて。
真っ平ゴメンだ。望まない人生を強いられるくらいなら、死んだ方がマシ。
「頼む、おまえの才能をみすみす無駄にはしたくないんだ」
ああ、その通りだよな。
あんたが惜しんでるのは才能であって、俺自身じゃないんだ。
俺という息子じゃない。それなら息子なんていらないだろ。あんたが目を向けるべき、耳を傾けるべき才能なんてゴマンといる、そう云ってたじゃないか。
俺はあんたの楽器じゃない。
高三の冬、松下は進学先を都内の写真専門学校に決めた。
「グノー、アヴェ・マリア」
逃げるのか、と罵られた。
負け犬が、と嘲笑われた。
所詮、それまでの腕ってことでしょ? 哀れみと蔑みの視線。
べつに痛くも痒くもなかった。
ただ罪のない音楽を、反旗の犠牲にした罪悪感だけがどこかに残っていた。
その罪悪感が傷になったことに、気が付いたのはいつ頃だったろうか。
埋められない穴が胸に開いていた。
塞げない傷が血を噴き出していた。
流れる血潮に指を染め、眠れない夜に意識を削った。
思えばそんな頃もあったんだな。
いまはただ懐かしい。
ようやくそう思えるだけになった。
「次はヴュータンのロマンス」
「っておい、まだ弾かせる気かよ…」
「これが最後よ」
反論する間もなく、律子の指が鍵盤の上を滑りはじめる。
やれやれ、云い出したら利かない人だからな…。
一呼吸置いてから。松下もすぐにポジションに構えた。
最初はどうでもいいと思ってた。本当に。
うるさくてウザイ姫体質。ちょっと、鼻っ柱へし折ってやろうと思った。それだけだったのに。一進一退、駆け引きの関係。
気が付いたら日々に色が付いてた。
苛めに苛め抜いて泣かせてみたいとか。優しく、甘やかして崇めてみたいとか。
相反する感情。コントロールの利かない自分を生まれて初めて知った。
理性と本能を飼い殺しにする快感。
たかがキスにすべてを賭けてもいいと思ったんだ。
「ずいぶん情熱的なロマンスね」
室内の余韻が落ち着いたのを見計らって、律子が先に口を開いた。
「何が云いたい」
「べつに。ストイックが売りだったアンタが、いつのまにそんな甘い音出せるようになったのかしらね、って話よ」
「さあ」
「恋でもしてるの、アンタ?」
冷房で必要以上に冷え切った室内に、まだメロディの切れ端が落っこちているような気がする。今日は久しぶりに弾いてて気分がよかった。
「ご想像にお任せするよ」
ピアノの前で目を丸くしている律子に肩をすくめて見せると、松下はリビングを出てそのまま器楽室に向かった。
「まったく、そういう秘密主義なところ父親そっくりなんだから」
こんなことを本人たちに云おうものなら、お互い眉間に深いシワを寄せるのだろうがそれは紛れもなく事実なのだ。もしかしたら本人たちが、一番それをよく解ってるのかもしれないけれど。
まだ日は高い。散歩の前に午後のティータイムと致しますか。
ちょうど午前中に焼いたスコーンがたくさん残っている。
「お茶いれるわ。レピシエのオルフェでいい?」
「甘くなければ何でもいいよ」
「張り合いないわねェ」
廊下から返ってきた声に眉を顰めながら、律子は慣れた手つきでアフタヌーンティーの準備をはじめた。
end
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