右側に気をつけろ
「ザケンナよ…」
パチンと閉じた携帯画面。その液晶に浮かんでた六文字を、もう何度見返したか解らない。
つーかイツだよ、コレきたの? こっちから送るメールはすべて一方通行、返ってくることはなくて。「悪い、遅れる」…でオマエは何時に着くんだっての?
そうして途方に暮れたまま堅い犬の銅像を見守り続けて、もうどれぐらいになるだろう。約束の時間はもう二十分も前だ。メールが届いたのはさらにそれより二十分前。いーかげん着いてもいいんじゃねーの? 何度も試みた発信がアイツに繋がることはなくて、五回も連続で留守電に切り替えられたところでこっちからの連絡は全て諦めた。よっぽど帰ってやろうかとも思ったけど、ここまで待って帰るってのはあまりに癪だ。わざわざココまで出向いた労力を無にするのも悔しいし。
「あのクソオトコめ…」
だいたい、なんでこんなベタなトコで待ち合わせなんだよ? 入れ代わり立ち代わり、駅から交差点から人がやってきてはまた何処かへと流れていく。その繰り返し。日が傾くにつれ、辺りの人口密度はジワジワと増してきていた。あーも、ウザイ! オマエら全員どっか違うトコで待ち合わせしろよ! 周囲に群れる人波を蹴散らかしたくてしょうがない。八月も終わり夏の名残りは残暑という厳しさで括られるのが例年だったけど、今日はそれほどでもないのがせめてもの救い。
事の起こりはといえば、一昨日のメンテの時のことだった。十時で上がりだった店長が着替えながら云った何気ないヒトコト。それが発端。
「そーだ、映画のペア券もらったんだけどいる?」
明後日までなんだけどさー、僕こういうの興味ないから。そう云ってアッサリと投げ出されたペア券にめずらしく興味を持ったのがアイツで。
「へえ、ゴダールじゃないですか」
「あー、そんな感じのタイトルだったっけ? 僕、古い映画には興味ないからさー」
「タイトルじゃなくて監督名ですよ。店長が観たんじゃ五分で熟睡かな」
「だっろー? 僕なんかはさー、ハリウッド映画で充分なんだよねー」
「ですね」
つーか、何気にアンタいま貶されてるんだぜ? だが店長の笑顔を見る限り、言葉の棘にはまったく気付いてないようで。幸いと云うべきか、不幸にもと云うべきか。このヒトもたいがい抜けてるよな…。そんな遣り取りを横からボンヤリ眺めてると、急にアイツの目がカチリと俺の上に焦点を結んだ。その時、アイツの瞳の奥にはっきりと書いてあった失礼極まりない侮辱の言葉。
すぐに逸らされた視線がソレをさらに裏付けてるような気がして。頭の隅にチリッと僅かな火が点る。なら解んねーかどうか、観てみようじゃねーかよ。テーブルに置いてあったチケットを素早くかすめ取ると、俺はそれを両手で背中に回した。松下の眉間が訝しげに顰まる。
「なに」
「これ、俺行きたい」
「オマエが行ってどうすんだよ」
「観たいの!」
「つーか、ゴダール知ってンのか?」
「バカにすんなよ! 勝手にしやがれとか撮ったヒトだろ?」
「…なんだ知ってんじゃん」
思い切り睨み返してやった瞳の奥、俺をバカにして止まなかった揶揄の色がゆっくりと奥底へと沁み込んでいった。やたっ。高校時代の映画好き友達に感謝! 沢見、オマエのおかげで俺いま、少しだけアイツを見返すことができたみたい!
「一人じゃ心配だから、ボディガード連れて行っといで」
「はい!」
「…子守とどう違うんですか、ソレ」
「和泉くんに何かあったら松下、オマエの責任だからな?」
「ハイハイ、了解しましたよ…」
「俺、明日はダメだから明後日ね!」
「オマエの都合かよ」
「明日は無理なんだからしょーがないじゃん」
「…俺は学校帰りだから夕方過ぎに待ち合わせだな」
かくしてメンテ後に、俺たちは場所と時間を決めて、そして初めて携帯のナンバーとアドレスとを交換した。
「ウザイ、消えて」
ただボーっと突っ立ってると下らないナンパが笑えるぐらいに後を絶たない。いちいちあしらうのも面倒になってきていくつかの声をシカトするうち、その中からやけにシツッコイ奴が一人現れた。頭の軽そうな女なら他にいっぱいいるじゃねーかよ、ソッチ引っ掛けろよ? たいがいのヤツは俺がオトコだと解ると離れてくのに、この目の前のバカは「わー、見えないねぇ」なんて云いながら隙あらば体に触れてこようとしてくる。うーわキモイ、まじキモイこいつ。自分の顔がいいのを鼻にかけまくった声、態度。勘違いにも程があるっつーの。こーいうヤツって見てるだけで腹が立つのに。
「キミさっきからいるじゃん? つーか、ぶっちゃけスッポカされたんでしょ?」
俺が薄々考え始めてた可能性をあっさり提起しやがってコノヤロウ。グラグラと滾るような殺意を感じる。人が黙ってりゃいー気になりやがって…。その薄汚い手で俺に触んじゃねーよ! 伸びてきた手を叩き落そうとした瞬間。
「コイツに用なら俺が聞くけど?」
ぐるり、と背後から回された腕。俺の右肩に少し尖った顎が乗せられた。奇しくも嗅ぎ慣れたこの匂い。怒りで上がりかけてたテンションが一気に違うベクトルへと引き摺り込まれる。
心臓が壊れるんじゃないかと思った。覆いかぶさるように後ろから抱きつかれて、松下の体重のいくらかが俺の上に乗る。怯んで浮いた手と引き攣った笑顔、それがそのまま相手の不利さ加減を物語っていた。それだけ誰かの威嚇が効果的だったのだろう。勘違いヤロウが唇の端を引き攣らせたまま慌てたように踵を返す。そのまま雑踏へと小走りに消えていく背中を見送って。
「行ったな」
「…行ったよ」
背後からピッタリと密着した体。松下の呼吸が背中を通して伝わってくる。同じように自分のこの速い鼓動も気付かれてしまうのではないか。そう思うと気が気じゃなかった。声が思わず震えそうになるのを、なけなしの意地を掻き集めてどうにか堪える。
「オイ…」
「悪い、だいぶ遅れたな」
「つーか離れろよ…」
「あ? …ああ」
松下が喋るたび、鼓膜と背中と右肩とが震動で揺れる。心臓に限界があるとすれば、それはたぶんもう数秒後…。やばいって…心臓壊れるって…! 最後にズッシリ体重をかけてから、アイツはようやく俺の体を解放した。振り向いた先、少し汗ばんだ額を指先で拭いながら、口元に自嘲を浮かべてる松下が立っていた。
「少し休ませろよ、こちとら一駅分走ってきたんだ」
「何いきなり体育会系になってんの?」
「アーホ。さっきから駅でアナウンスしてるだろ?」
蝉の声に、雑踏のざわめき、それに混じってそういえばさっきから聞こえてる構内放送。信号機故障による電車の運行が一時停止…云々カンヌン。
「わ、初耳」
「……だろうとは思った」
「なら、そう連絡すりゃいーじゃん!」
「復旧の見込みがないからヤメにしようって?」
「それは…ヤだけどさー…」
「オマエ放置して何かあったら俺の首が飛ぶんでね」
「…どうせなら飛んじゃえばヨカッタんだよ」
「おい、助けてやった恩がソレかよ」
そう云って笑った顔が、実はイチバン心臓破りで。…死ぬかと思った。そんなこと云わないし、絶対に悟らせたりもしてやんないけど。
あーも、悔しいったらない…!
「夕方のは始まっちまったな。夜の回までメシでも食い行くか?」
「奢りでしょ」
「…しょーがねえからな」
とりあえず行こうぜ、促されるまま赤信号の交差点を目指す。なんかまだ心臓がドキドキいってるみたいで、体のどこかがちゃんと機能してないって感じ。地面にちゃんと足が着いてないみたい。漂うような浮遊感を足元に感じていると案の定、青になった途端、動き始めた人波に弾かれて。
「わ…っ」
「バーカ、気をつけろよ」
すかさず松下の手が横から伸びてきた。深く、重い、溜め息一つ。内心バカにしやがったな、いま…。保護者よろしく、俺がきちんと二本足で立ったのを確認すると伸びてきた時と同じくらい素早く離れていく腕。つーかさ、オマエは事もなげに俺に触れるけど、少しはそっちもドキドキしてたりすんの? 並んで歩きながら窺った横顔はいつもとまるで変わらなくて。ふと思いついた出来心、悪巧み。
「…おい」
「何?」
「暑苦しーんだけど」
「先に暑苦しいことしてきたのはそっちの方じゃん?」
絡めた指をきちんと握り締めて隣を歩く。俗に云う恋人繋ぎに少しは怯むかと思った表情にそれほどの変化はなくて。でも一瞬、驚いたように見開いた目の中に、僅か見えた動揺の色。それはいままでに見たことのないものだったから。たぶん、内心はあの百倍ぐらいは驚いてたはず。とりあえずコレで右側にだけは気をつけなくて済むってハナシだね。フワフワ浮いてる足でも、もう飛ばされるコトはないだろう。
「俺が迷子になったらオマエの首、スパンッと飛ぶンだぜ?」
「あーあー、解った解った…」
多分のイヤミと嫌がらせとを込めて。
その後しばらくの間、俺は松下の手を離さなかった。
end
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