intlo
Q
「珠チャン先輩、聞いてくださいよォ」
閉店間近の店内で。カウンターにもたれながら、コーヒーメーカーを洗う水嶋先輩に和泉がゴロゴロと懐いている。
中澤らと同期になる水島珠枝は「珠チャン先輩」の愛称でみんなに親しまれる、とてもほんわかした雰囲気の持ち主だ。しかしその外見によらずオープンからメンテまで、どの時間帯をもこなすことのできるタフな人でもある。
「どうしたの?」
一緒にいる人を和ませる雰囲気と、天然的な性格とで常連客の中にもファンは多い。
「俺二つ上の姉貴がいるんですよ。去年嫁いでウチ出てったんですケド。それが昨日いきなり出戻ってきて、俺の部屋占領してんですよー」
捨てられた子犬のような雰囲気を全身に醸し出して、和泉が珠チャン先輩の同情をひこうとしている。
シフト入ってもいないくせにこんな時間までウロウロしてるのはそういう理由か?
今日は給料日後の金曜日とあってか、12時までの混み方が尋常ではなかった。
和泉がいて早くなる仕事なんて一つもない。さっさと帰ってくれた方がこちらとしては有り難いのだが、和泉はかれこれ一時間近くこうして仕事のジャマをしている。迷惑も甚だしいことこの上ない。
ペースを乱されるのが嫌で俺は徹頭徹尾の無視を敢行していた。
セッター台の上を片し下の冷蔵庫の補充具合を確認する。足りなかった素材を数え、後ろの冷蔵庫から取り出したそれぞれを新しいバットに充分量補充していく。
「和泉くんの二つ上ってことは私と同い年だねー」
「珠チャン先輩ウチの養女になりません? 姉貴とトレードしましょうよ、まじで」
カウンターにうな垂れてた頭を上げて、和泉が哀願口調で珠チャン先輩に訴えかける。そんな和泉を見ながら少しズレ落ちた眼鏡の向こうで丸い目をくるりと動かして、珠チャン先輩がふんわりと笑った。だが、その手先はテキパキと仕事をこなしている。あの駄々っ子のような和泉をあやしながらも仕事のペースは全く落ちない。さすがはマネージャー候補である。そして、うだうだとゴネ続けながら。
和泉は結局、閉店まで店内に居座りやがった。
「てめェ、少しは人の迷惑も考えやがれ」
レジ金を数えながら、ついには口を挟まずにはいられなくなってしまった。
無視の効果はまるで見られない。つーか、無視してたことにさえ気付いてない?
和泉は物憂げにこちらを向くと、じっと俺の目を見据えてきた。こちらも視線を外さずにいると、今日は珍しいことに向こうから折れてきた。
ふいと視線を逸らす。
「俺は、珠チャン先輩と話しにきたの。松下にゃ関係ねーだろ」
「バーカ、自分が持て余されてんのくらい気付けよ。ボケ」
手伝うでもなくカウンターに腕を組み身を伏せる和泉の姿は、いつになくその細身を頼りなげに見せていた。
いつでも強い光を放っている瞳も、今日はどこか翳りが見える。
つんと拗ねたように尖る唇を腕に押し充てて。云い返してくる声にもあまり力がない。
なんなんだ、コイツは。
俺は面倒になってそれ以上の追撃をやめた。これ見よがしにヘコむ姿は罠か否か。
そんな駆け引きができるほどコイツの頭は上等じゃない筈だ。
「厭きた。松下、有線変えて」
「てめェで勝手に変えろ」
「…そこまで起きてくのメンドイ」
そのまま再び無視すると、のそのそと起きあがった体がレジカウンター内に入ってきた。リモコンでいくつかチャンネルを変えた後、最新国内ポップスをかけると和泉はくるりとこちらに向き直った。
「イントロする?」
「しねェーよ」
「あ、そ」
イントロは、たまに二人でメンテに入ってる時にやる曲当てクイズだ。
どちらが先にその曲を当てられるか。当てた曲数の多い方が帰りのコンビニで夜食を奢ることになる。
「ジャマだからさっさと帰れよ」
そう云ってそのまま作業に没頭していると、和泉の小声がぼそりと聞こえてきた。
「…帰れるもんなら帰ってる、っちゅーの」
思わず和泉の方を振り向く。
妙に線の細い背中。触ったら壊れてしまいそうな首筋。白いうなじ。
「…………」
思わず目を奪われる。
「よう」
そう云いながら入ってきた人影に、俺は軽く舌打ちした。
厄介なヤツが現れやがった…。
整った男前にモノトーンでまとめた服装がよく似合う。艶のあるくせのない黒髪と漆黒の瞳。独特の色気が漂うオトコだ。けして悪い人柄ではないが、悪ノリするのと治らない悪癖とが要注意な人物である。
「なんだ、行くあてないなら俺の家にくるか」
「まじっすか」
案の定の申し出に、和泉が何の疑いも持たずに明るい声を上げる。
バーカ。一晩で人生変えられんぜ。俺がそうだったように。
だがそれを「イイクスリだ」と見過ごすには、俺は和泉に執着しすぎている。腹立たしいことにも、だ。
なんでこんなヤツに…。何度そう思ったか知れない。だが感情は理屈じゃない。ホントに。何度それを思い知らされたことか。
「マネージャー、同棲中じゃなかったでしたっけ?」
牽制に、先日よそから聞いた話を持ち出してみる。
節操のなさに加えて、バイセクシャルを自称するだけあって中澤の周囲は男女取り混ぜて常に忙しない。
「え? いないよ、そんなコ」
しかし中澤はケロリとそう云い放ち、軽く身をかわしてきた。
「あれ、じゃあこないだ一緒に帰ってったモデルみたいなヒトは違うんですか」
「あーアレはね、姉貴」
思いきりウソくさい嘘をついて中澤が悪戯っぽく笑う。
「和泉くん、シェイク食べるー?」
下らない押し問答を、のんびりと響く珠チャン先輩の声が断ち切ってくれた。
嬉々として和泉が厨房内に入っていく。レジ前に二人取り残されて、その状況に中澤が吹き出した。
「ずいぶんガード、堅いんだなぁ」
「こんな時間に何か用でも?」
すげなく返すと中澤は楽しそうに笑ったまま「さあね」と小首を傾げた。
この時間だ、酒が入ってないと考える方がおかしいだろう。
酔っ払いの相手をするほど、こちとらヒマじゃねんだよ。
さっさと清算、終わらしちまおう。コインカウンター片手にドロアーを開ける。
最近よく聞く曲が有線から流れ始めた。
アップテンポな冒頭。そのタイトルを思わず口の中で呟く。
「それ。やろうぜ」
中澤が客席のイスを一つ引き、その背を前にして逆向きに腰掛けた。
「イントロ。勝った方が今晩、和泉を泊める」
「下んねー」
「俺の不戦勝、か」
見え見えの挑発にも関わらず、中澤が浮かべた余裕の笑顔にチリチリとプライドを刺激される。
どうしてこのヒトは、こう俺を挑発するんだろう。いつもいつも…。
「いいですよ、付き合いましょうか。どちらかが二曲以上差をつけた時点で終了で」
口車に乗ってみせると、中澤がカウンターに放ってあったリモコンをこちらに投げて寄越した。
「ジャンルはおまえに任せる」
中澤のその自信がまた競争心に火をつける。
「フェアにいきましょうか」
リモコンでチャンネルを設定する。
なんでこんなことをするハメに陥ったのやら…。
だがいまさら後に退けるほど安いプライドは持ち合わせていない。
深く吸った息をゆっくりと吐き出す。
スピーカーから、曲の合間の中途半端な節が流れ出した。
★ ★ ★
「なに、コレ?」
突然、店内にクラシックが響き始めた。ワケが解らず、作りかけのストロベリーシェイクを片手にレジカウンターまで戻る。松下が夏目漱石を数えながら俺が聞いたこともないような曲名を口に上らせるところだった。
「気ィ、遣わせたな」
中澤が楽しそうに笑う。
その目が意外に真剣なのに気付いて、俺は挟みかけた口を思わず噤んだ。
「お互いさまでしょう。まずは俺の一勝」
そう云いつつも視線はドロアー内の売上げから外さない。松下までもが真剣な顔をしている。何が始まったのか皆目解らず、俺はただひたすらその様子を眺めていた。
「面白いコト始めたのねぇ」
珠チャン先輩が厨房内をホウキで掃きながら、くるくると目を輝かせて笑った。
「二人とも昔取った杵柄だから、簡単には退けないでしょ」
昔取った杵柄? 松下とクラシックに何の関係があるというんだ。
そう顔に書いてあったのか、珠チャン先輩が「あのね」と声を潜めて説明してくれた。
「松下くんちって音楽一家なのよ。父親はコンダクター、母親はピアニスト。彼自身も祖父についてヴァイオリンやってたんだって、高校までね。いまはすっかりそーゆうのやめちゃったみたいだけど」
「へーえ」
初耳だった。
松下とヴァイオリン。似合うような似合わないような。
ふと、誰もいない音楽室でヴァイオリンを弾いてる松下の姿を想像してしまって。
不覚にもドキッとしてしまった。うわ、すげーヤバイ感じ…。
「中澤くんちも似たような感じでね、彼はピアノやってたんだよ」
「つーか、珠チャン先輩やけに詳しい…」
「だって中澤くんとは幼馴染だもん。ココも彼の紹介だしね」
なんとも意外な繋がりを聞かされて、俺は思わず感心してしまった。
「中澤くんと松下くんは高校が同じだったらしいね。最も、中澤くんは途中で中退しちゃったんだけど」
松下が答えると、次の曲には間髪入れずに中澤が正解する。
くり返される一進一退。
二人の間に静かに張り詰める空気の隙間を、清澄な調べが通り過ぎていく。
こんな真剣な松下の顔、初めて見るかもしれない。
いや、気の所為でなく初めてだ。いつもの、のらりくらりと全てを受け流す、飄々とした松下はどこにもいなかった。すでに勝負は何を賭けてるか、ではなくなってるようだ。互いの意地の張り合い。二人の間にどんな意地があるのかは解らないけど。
互いに負けられない勝負。
それがどこまで続くのか。
少し離れたカウンターに伏せて、俺は柔らかいピアノに耳を済ました。
そうしていると母親のヒステリックな金切り声も、父親の怒声も思い出さずにいられた。永遠なんてどこにもないと知っていながら。
どこかにはあると信じていたい気持ち。その狭間で自分の愚かな、子供じみた期待とが揺れている。報われることのないこの気持ち。
自分の中で真実は一つしかない。けれど、家族の中においては人数分だけの真実が存在する。それを認めなければならない。それぞれに正しい真実を。
痛みの伴う真実を。
それがどんなに辛いことでも…。
気がついたら、松下が俺の隣りに座っていた。
時計を見るともう三時を回っている。ぼんやりと宙を見てた松下の視線が、俺が起きたことに気付いてはっきりと焦点を結んだ。
「帰んぞ、オラ」
促されて立ち上がったところで、俺は二人きりになってることに気が付いた。
「マネージャーは?」
「中澤なら、珠チャン先輩送ってったよ」
「ふうん。そっか…」
眠い目をこすりつつ、俺は最終チェックを行う松下の背中を眺めていた。
助かった。これでどうにか今晩は、家に帰らなくて済みそうだ。明日のことは、また明日考えよう。松下について店を後にする。コンビニで夜食を買って、そのまま松下の家に行った。
あれから何かあったのだろうか。
アイツは何も喋らない。俺も何も喋らない。
相変わらず簡素な部屋に入ると松下は無言のままバスルームへと消えた。シャワーの水音が聞こえてくる。
俺はキッチンで顔だけ洗うとそのまま敷きっ放しのアイツの布団に潜り込んだ。
松下の匂いがする。なんかすごく安心感があった。たぶん正月の一件の所為だろう。急に降り始めたのか、激しい雨音が窓ガラスを叩き始めた。
そのザーッという音に包まれながら、俺はすぐに深い眠りに引き込まれていった。
夜中に一度目が覚めた時。
俺は横から回された片腕に抱き締められていた。暖かい感触。
でも松下がそんなことするワケないと思って、俺はへんな夢を見てるなぁと思った。
なんて滑稽で暖かい、幸せな夢なんだろう。
これが夢じゃなければいいのに。
そう思いながら、俺はまた眠りの中に墜ちていった…。
end
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