ヒューゴ・プール



「よそ見してんじゃねーよ」


 云った途端に、和泉の痩身がバランスを崩す。一瞬、持ち堪えたように見えた体がスローモーションで水色の床へと叩きつけられる。豪快な水音。
「いっ…てぇ」
 白いパーカーがあっという間に水浸しだ。
 足首が隠れる程度にまで溜まってきてた水が、見るも無残に和泉をグショ濡れにしていた。
 赤茶けた髪の色が濡れたせいで普段よりもずいぶん色濃く見える。
「注意はしたぜ」
「もっと早く云えよッ」
 プールの底にみっともなく座り込みながら、和泉が両手で水飛沫をバシャバシャと投げつけてくる。
 その他愛無い悪意を軽々とよけながら、松下はデッキブラシを片手にプールサイドを磨くことに専念していた。
 照りつける太陽の日差しはけして生半可なものではない。
 別に日焼けしたいわけでも、日焼けしたくないわけでもないが。
 みっともないTシャツ焼けだけは勘弁したいところだ。
 早々に脱ぎ捨てたTシャツは出入り口付近のポーチに放ってある。
 なってみると意外にこの開放感は爽快だった。
 和泉は"らしい"というか。
 日に当たっても赤くなるだけで焼けることはないのだという。
 用心にと白い長袖こそ纏っているが、日に晒されること自体けして嫌いなわけではないのだろう。
 いままでの、あのはしゃぎっぷりを見る限りでは。


 シーズン前のプール掃除の仕事。氷室の紹介で、このバイトを引きうけることになったのがつい一昨日のことだ。
 いったい、どんな経由でそのハナシがこいつにいったのかは知らない。
 当日になってきてみたら、現場にはこの使えない助手一人しかいなかったのだ。
 ほくそ笑む氷室の顔が目に浮かぶようだ。
 ただ一つありがたかったのは、今日がプール清掃の2日目だったということだ。
 イチバン面倒くさい水槽掃除は前日組が片付けておいてくれた。
 今日はプールサイドの掃除に設備の整頓。
 あとはプールに水を張れば任務完了だ。


 うるさいくらいに鳴き咽ぶセミの声が鼓膜近くで反響を繰り返す。
 タイルの向こうでゆらゆらと流れてる逃げ水が、暑さをよけいに倍増させてるようだった。ブラシを持つ手を止めるとふいにセミが鳴き止んだ。
 やけに静かだ。
 思い出したようにプールの方を振り返ると、2コースのラインに沿って和泉が仰向けに横になっているのが見えた。
「オイ。いつまでサボってる気だ」
 微動だにしない体。
 少しずつ増していく水嵩が和泉の髪を水中に躍らせていた。
 ホントに手のかかる助手だよな…。
 仕方なく底に飛び降りて、飛沫を蹴りあげながら白いパーカーに近づいていく。
 ややして水面に和泉の顔が浮き上がってきた。
 ザザーっと水流を派手に乱してその場に上半身を起こす。
「なあなあ、水の底から見る空ってユメみたいにキレイなのな」
「ア、そう」
 どうせ、そんなこったろうと思ってたけどな。
 ジーンズ濡らして損した気分だ。
「何、心配してくれた?」
「オマエに何かあったら俺の監督不行き届きになるだろーが」
「じゃあ、何かやらかそうか」
「入水自殺なら俺のいないとこでやってくれよ」
 水嵩がずいぶん増してきている。すでに膝を越えた水面がキラキラと目の前で乱反射を繰り返している。
 和泉の髪を滴り落ちる水滴。
 その一滴にもその光は宿っている。
 ほんの一瞬、気を抜いた隙に。
「わ…ッ」
 細い手の策略によって、松下は水の中に引き摺り倒されていた。
 水飛沫。もがいたおかげで頭から水を被るはめになった。
 全身で浸かってみると思っていたよりも水は冷たい。
「日頃の恨みだ、思い知ったか!」
「…待てよ、コラ」
 安い挑発に乗り、逃げようとしてた白い脚を思わずつかんで引き寄せていた。
 脚を取られた和泉が水中で転び、また飛沫が上がる。
 さらに引き寄せる。
 気がついたら、通常の何倍も軽くなっている体重があっさりと自身の腕の中に収まっていた。
 自分よりも長く水に浸かっていたせいで和泉の体はかなり冷たい。
 冷えた肌の感触。
 打ち寄せる水音と、妙に研ぎ澄まされて聞こえる呼吸音。
 セミの声が遠く感じられた。
 冷たい水の中で、直に肌の触れ合っている部分がジンワリと温かくなっていく。
 視線の駆け引き。


 どうすんだよ、と和泉の目が語り。
 どうにかして欲しいのか、と松下の視線が問い掛ける。


「…汚ねーよ、おまえ」
「何がだよ」
 返事の代わりに和泉の両腕が松下の首に絡められる。
 噛み付くようなキス。
 重なり合う体。
 繰り返されるキスの分だけ、いつしか冷たい水の中で。
 徐々に体が熱を帯びていく。


 ……まったく、とんだプール掃除になったものだ。


end


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