pink elephant



 深夜、突然インターホンが鳴った。


 今日は飲み会で遅くなるとか云ってたから、たぶん松下だろうとは思うけど…。
 でも、だったらなんで自分でカギ開けないんだ?
 もしかして知らないヒト…?

 恐る恐るドアの向こうを窺うと、そこには見慣れた人物が立っていた。真夜中だというのに派手なサングラスをかけて、薄い色の髪をワックスで逆立たせている。氷室だ。
 真夜中の訪問者が知人であることに安堵は覚えたものの、だが不審であるという点ではまるで変わりない。この夜中にいったい何の用だよ?
 ガチャガチャとチェーンを外しドアを開けると、和泉はその隙間を細く固定して外を窺った。そのごくごく細い隙間から疑念に満ちた声を投げかける。
「…何の用だよ」
「また、ずいぶん警戒されたもんだな」
 和泉の真っ向から疑わしげな台詞に肩をすくめつつも、氷室はまるで気にした風もなくニヤリと口元を歪めてみせた。
「それとも松下の躾がなってきたのかな?」
「だから、何の用だって聞いてんだろっ」
 業を煮やして思わず声を荒げると、氷室が口元に人差し指を当てて「シー」と囁いた。
「近所迷惑だよ、そんな声出したら」
 出させてんのはアンタだろーがっ。
 反射的に返しかけた反論を喉に押し込む。確かに、居候の身でご近所と揉め事を起こすわけにはいかない。素直に和泉が押し黙ったのを確認してから、氷室はおもむろに親指で通路の先を示した。
「お届けものだよ」
 云いながら氷室が大きく扉を外に引き開けた。釣られてバランスを失った和泉が通路に踏み出す。と、その肩を力強く支える腕があった。
「じゃあ、とりあえず送り届けたからね」
 用は済んだとばかりに氷室が踵を返す。その背を目で追いながら、和泉は眉間に深くシワを寄せた。

 ……オイ、これはどういう状況だよ。

 和泉の体を支えているのは松下の腕だった。
 いや、むしろ支えているというよりは抱き締めている?
 両腕をきつく絡められながら、和泉は必死に氷室に助けを求めた。
「なんなんだよ、この酔っ払い!」
「悪いな。ジン飲ませると悪酔いすんの忘れててさ」
 氷室の靴音がカンカンカン…と階段を下りていく。それを追いかけて事態を収拾させようにも、和泉を抱き締める腕に緩む気配はなかった。それどころか身じろけば身じろぐほどきつく食い込んでくる。
「ちょっと待てって!」
「叫んだりしたら近所迷惑だよー」
 楽しげな氷室の声を最後に、車の発進音が聞こえた。遠ざかるタイヤの音。
 やがて通路を占めているのは困惑と静寂だけになっていた。



「マジかよ…」
 和泉の呟きが押し付けられた松下の胸で低くくぐもる。
 とりあえずこんな所でいつまでも抱き合っているわけにはいかない。早いとこコイツを部屋に入れて、正気に戻さなければ…。
「おい、松下」
 小さく呼びかけると、閉じられていた松下の視線がピタリと和泉に照準を当てた。
 顔色も表情も普段とまるで変わらないのに…。
 恐ろしいことに言動の方は180度違う。
「なんだ?」
 云いながら落ちてきた唇を慌ててよける。
 だがよけた顎を指先にとらえられて、和泉はあえなく松下の唇に捕まった。
 こんな所、誰かに見られたらどうするんだよっ。
「んん、…ッン」
 優しく、丁寧なキスを受けながら、和泉は必死に松下の体を押し返した。苦労の甲斐あってか、二人の間に少しだけ距離が開く。松下の腕の力が少しだけ緩んだ。
「こんなトコで、キスなんかするなよ…っ」
 何度もきつく絡め取られて、痺れたようになってる舌先をどうにか動かして文句を云う。すると松下は薄く笑って和泉の顎の先をくすぐった。
「なら、ベッドでしてやろうか?」
 やばいっ。こいつ、マジで酔ってる!
 事態のさらなる悪化を恐れて、逃げようとした体を松下の腕が軽々と抱え上げた。
「わっ」
「逃がすかよ」
 扉の閉まる音。
「バカ、やめろって!」
 キッチンを通り過ぎ、松下の居住区を超えて。
「やだっ、離せってばッ」
 和泉がこのところずっと独占している奥の小さな部屋に連れ込まれる。
「はい、到着」
 途中どんなにもがいても足掻いても許されず、和泉は端に置いてあったソファーベッドの上にひょいと座らされた。その真ん前に膝を着いた松下が優しく和泉の顔を覗き込んでくる。
「それで姫はどんなプレイをご所望?」
 パチン、と軽く頬を叩く。
 松下の目が一瞬、驚いたように丸くなった。
「目ェ覚ませ、このバカ」
 他にもいくつか、聞き取れないほどの小声で悪態をつく。羞恥や憤り、その他色んな思いが胸の中で荒れ狂い、和泉の頬は真っ赤に紅潮していた。

 酔った勢いでこんなコトしてんじゃねーよッ。
 どうせ後んなったら覚えてねーんだろ?
 そんな状態で許してたまるかっつの、冗談じゃない!

「とにかく俺に触んなっ」
 和泉の絶え間ない文句を無言で受けとめ切ると、松下は優しく、だが不敵に唇の端を歪めた。和泉の柔らかな頬にそっと手をあて、顔を近づける。
「ひどくされるのがスキなのか?」
「な…っ」
 言葉を失った和泉を面白そうに眺めながら、松下が笑う。
 それはもはや優しそうなんてもんじゃなくて…。
 どうしようもなく速まる鼓動に、呼吸が乱れる。体が痺れたように動かなかった。
 猫の喉元を撫でるような仕草で、松下の手が首筋を這い回る。
 すぐそばで自分を見つめてる黒い瞳。薄闇の中で艶やかな光を放ちながら揺れるソレ。吸い込まれそう…。
「なら望み通りにしてやるよ」
「や…っ」
「なんだイヤなのか? じゃあ、どっちがいいんだよ」
 そのままぎりぎりまで近づいてきた唇が耳元にそっと押し当てられる。
 密やかな吐息。
「ん…っ」
 全身に電気が走ったかと思った。
 小さな震えが体のあちこちに走り抜ける。クスリと笑われて、その息にさえも体がピクンと反応してしまう。たったそれだけでもこんなに辛いのに。それなのに。
「優しくされたい? 意地悪されたい?」
「あ、ァ…っ」
 吐息とともに囁かれた言葉に、和泉は一気に眩暈を起こした。
 もう気が遠くなりそう…。
 心臓のドキドキがじわじわと下半身の方へと落っこちていく。それを察したかのように、松下の空いた手が和泉の細い腰に回された。
「こっちも可愛がってやろうか」
 鼓動が喉に詰まったみたいに声が出てこない。
 どうしよう、このままじゃされちゃうかも俺…。
 意外に逞しい松下の腕が和泉の腰をぐっと抱き締めた。
 和泉の開いた脚の間に、膝立ちした松下の体が密着する。耳元から首筋へと移動する唇。きつく吸われて、引き攣った悲鳴が口の中でわだかまった。
 どうしよう、本当にこのままじゃ俺…。
 さっきまでとは違い、和泉の色白の肌を赤く染めているのはたまらない羞恥と高揚感だった。触れられて敏感になった肌には、他愛無い唇の愛撫でさえきつい。
「バカ、やめ…」
「なんだ、まだ抵抗するのか?」
 耳元を舐められながら、低音で囁かれる。
 食まれた耳朶を甘く舐る舌。
「…っく」
 濡れた言葉がダイレクトに体に響いた。
 もうダメ、絶対ヤバイ…。
 和泉の理性が焼き切れそうになった、まさにその時。


「あ、あれ…?」


 ガクンと、急に松下の体が重くなった。
 和泉の肩に頭を預けたまま微動だにしない体。
「まさか…」
 そんなベタオチねーよな? だが恐る恐る窺った松下の横顔は、和泉の肩口で健やかな寝息を立てていた。
 おいおい、勘弁しろよこのクソオトコ…。
 急に静かになった部屋に、時計の秒針だけがやけにうるさく響いてた。
 緩やかな呼吸が松下の体を上下させている。
「…ったく」
 さっきまでの展開がまるでユメだったかのように、穏やかな空気。

 ホント、冗談じゃねーっつうの!
 てめーの気紛れなんかで抱かれてたまるかよっ。
 バカにするにもほどがあんだろッ?

 胸の中では悪態を吐きつつも、実際の心中は複雑だった。
 半分はふざけんなという、憤懣やるかたない憤りだが。
 もう半分は…。
 松下の重みを全身で受け止めながら、和泉はおずおずとその背に腕を回した。見かけよりも厚い体。少し体をずらすと、ズルズルと長めの黒髪が和泉の胸元を滑り落ちていった。変則膝枕とでも呼ぶべきか、松下の頭が和泉の腿に引っかかって止まる。
 あどけない表情。いつも思うけど、松下の寝顔って子供みたいだよな。
「この、バカ」
 小声で呟きながら、和泉は松下の鼻を軽くつまんだ。
 眉間に僅かにシワが寄る。
 さっきまでのドキドキの名残りがまだどこかに引っかかっているようだ。

 だって本当は思っちゃったんだ…。
 松下の声に言葉に責められながら、羞恥に耐えられないような意地悪をされてみたいとか。あの丁寧なキスのように、優しく触れられて、甘い快楽の波に攫われてみたいとか。心の底ではそう思ってた自分がいるのだ。確かに。
 でもだからと云って今日のアレは反則過ぎる。どうせ朝になったらキレイさっぱり忘れちまってんだろ? この際、瀬戸際まで追い詰められてたことは棚上げだ。
「俺はそんなに安くねーんだよっ」
 とか云いつつ、この損したような気分は何なんだよ…。
 遣り切れない思いを胸に抱えたまま、和泉は深く溜め息をついた。


end


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