needle



 例えるなら、それは甘い針のような。


「またこんな所でサボってる」
 まるで猫のように、見慣れた細い背中がカウチの上に寝そべっている。
 声に反応してゆっくりと和泉の体が反転した。
「遅かったね、沢見」
 熟睡一歩手前だったのだろう。
 表情のそこかしこに眠気の切れ端が纏わりついている。
「竹芝が校内中捜し回ってたよ。会議がぜんぜん進まないってさ」
「ふーん?」
「確か、放送もかかってたはずだけど」
「そうだっけ…」
 朝っぱらからあんなにも「今日は放課後、委員会だからな」と云われ続けていたにもかかわらず、和泉は軽く眉をしかめて考える素振りをしている。
 別に忘れていたわけじゃないんだろう。
 元から覚える気がまるでないってだけの話で。
「やる気がないならないで、代役を立てるぐらいの機転を利かせれば?」
「うーん」
 それでもなお他人事のように、空々しい相槌を打つばかりの和泉に沢見は諦めに似た溜め息をついた。
「聞いてないだろ、人の話」
「ウン。だってそれはもう、沢見がどうにかしてきてくれちゃったんでしょう?」
「…まったく」
 悪びれる様子もなく、あっけらかんと続けられた台詞に、沢見は苦笑しながら実習室の扉を閉めた。斜向かいの実習室から聞こえていたフルートの音が、扉に阻まれ唐突に聞こえなくなる。
 適温の室内。静かな環境。見た目のわりには寝心地のいいカウチ。
 確かに放課後の実習室は仮眠にはもってこいの場所だ。
「和泉の甘えたは全然治る気配がないね」
「そりゃ誰かが甘やかすからだろ」
「うん、耳が痛いよ」
 笑いながらカウチの横に自分のカバンを置く。
「とりあえず委員会にはフクを行かせといた。渋ってたから多少のフォローは入れといた方が賢明かもね」
「ヤダよ、だいたいフクが悪いんじゃん。アイツが俺なんか委員に推薦するから、こーゆうことになったわけで…」
「うん、目に見えた結果だよね。深読みしなかったフクにも責任はある」
 カバンの上にコートとマフラーを置くと、沢見はラックから取り出したエプロンの名札を確認して手早く身につけた。
「それ、俺がロクデナシだって云ってない?」
「そう聞こえたなら謝っておこうか」
 とりあえずニッコリ笑顔で否定しておく。和泉の眉間にはますますシワが寄ったが、多少引っかかりを感じつつも和泉はこの先の面倒が一つ減ったことを心から喜んでいるようだった。このまま済崩し的にフクが委員を務めていく姿が目に浮かぶようだ。
 当然、クラスメイトを煽った責任はきちんと取ってもらわなければならない。もちろん悪ノリしたクラスメイトにも非はあるが。
「でも沢見があそこで窘めてたら、誰も苦労しなかったんじゃない?」
「一度ね、和泉にも皆にも懲りて欲しかったんだよ」
「ちぇ」
 プゥッと片頬を膨らませて絵に描いたように和泉が拗ねる。そんな表情さえもが愛らしくて、沢見は思わず目を細めた。
 一見するとまるで少女のように、可憐で華やかに整った顔立ち。それがくるくると表情を変えて、見てる者を次々に魅了していくのだ。息つく暇もないほどに。そして気づいた時にはもう、目が離せなくなっている。
 もっと笑顔を見てみたいとか。
 この顔を涙で歪ませてみたいとか。
 そんな欲望に囚われながら花の周りを飛ぶしか能のない虫たち。
 その忙しない羽音を和泉自身がどう思っているのか。
 知る者は恐らくいないだろう。
「和泉もいい加減、自立心を養わないとね。この先やっていけないよ」
「いいよ、俺には沢見がいるもん」
「俺は和泉の保護者じゃないんだけどな」
 苦笑しながら続けた台詞に、和泉が一瞬虚をつかれたような顔になる。
「ナニソレ」
 それがふいに和らいだ。風に揺れる花のように。
 そして熟し切る前の果実のように、淡く色づいた唇が笑みを形取る。
 計算も、打算もない和泉の笑顔。
 あどけなく、無防備で、警戒心のカケラもないこの微笑みを知っているのは自分だけだと沢見は自負していた。他の誰も知らない、自分だけのモノ。
「だいたい和泉は俺を何だと思ってるの?」
「シンユ…、めちゃめちゃ仲いい友達なんじゃん?」
 親友と云いかけた口を、和泉が慌てて照れたように云い直す。
 その様を見て沢見は思わず本音を口に滑らせていた。
「友人だったら、俺はこんなに甘やかさないよ」
「え? じゃあ沢見は俺を何だと思ってるの?」
「手のかかるコドモ」
「やっぱり保護者なんじゃん!」
「…不本意ながら、ね」
 立場的には確かに「保護者」が一番近いポジションだと思う。
 だが望んで手に入れたポジションでもない。やむを得ず買って出るはめになったというか。和泉に言質を取られるとは不覚だったが、かといって悔しいわけでもない。
「早く俺の手を離れてって欲しいよ」
「ホントは寂しいく・せ・に」
 和泉がゴロリと寝返りを打つ。品のいい猫が目の前で寛いでいるような眺めだ。
 意味のない優越感。赤味を帯びた柔らかい髪がカウチの布地に広がった。
「親離れしたくないのはそっちの方じゃないの」
「よっく云うぜ」
 窓際の棚にいくつも置かれた銅版の中から自分のものを捜し出す。
 白いカーテンの向こうで夕日がチラチラと揺れていた。
「なあ。それってあと、どれくらいで仕上がりそう?」
「二、三回ってところかな」
「じゃあ、ココで昼寝できるのもあと少しかァ」
「それにしてもよく入れたね」
「沢見と待ち合わせてるって云ったら、あっさり開けてくれたよ」
「甘いなァ、先生も」
 卒業課題のおかげで沢見は最近、この実習室にこもることが多かった。それに便乗するように和泉もこの部屋にすっかり入り浸っているのだ。もちろん和泉の場合は仮眠室として専ら重宝しているのだが。
 グランドの削れた部分に指を滑らせる。思っていたよりもこないだの線が浅い。腐蝕が足らなかったのかもしれない。そういえば一昨日は、冬物の帽子を見に行きたいという和泉に急かされて早めに切り上げたんだっけか。
「それってさ、面白いの?」
「面白いよ」
 今日はまだまだ時間がある。どうせならもう少し描き込んでから腐蝕液に浸しても遅くはないだろう。何本かあるニードルのうち適当なものを選び出すと、沢見は作業台の定位置に腰かけた。
「俺には何やってるんだかサッパリ」
「これはエッチングって云ってね。銅板の表面に傷をつけてそこを腐蝕させてへこみをつくるんだ。そこにインクを入れて紙に刷るってわけ」
「傷口腐らせてインク擦り込むの? なんかサディスティックな作業ー。サドの沢見にはピッタリだね」
「そうだね、マゾの和泉には向かないかもね」
 またぞろ和泉が頬を膨らませる。だがそれはすぐに、猫のような欠伸に取って替わられた。
「眠い…、帰るちょっと前になったら起こして」
「了解」
 沢見としても下手に動き回られるよりは寝ていてもらった方が安心だ。室内には危険な薬品も少なくない。最も以前ニードルを指に突き刺して以来、かなり懲りてはいるんだろうけど。視界の隅で和泉が微睡みはじめる。

 チクチク…という秒針の音だけが室内を支配する。
 細い針先でグランドを傷つけていくだけの単純作業。
 重なり合う傷と傷。
 そうして出来上がったいくつもの傷を腐蝕液で銅に刻み込むのだ。
 二度と消えない傷口として。



 そう、例えるならば甘い針のような痛み。



 秒針の音もいつのまにか聞こえなくなっていた。すっかり眠り込んでしまった和泉の静かな寝息だけが規則正しく部屋に響いている。
 和泉ってニードルによく似ている。
 眠り込んだ横顔にそっと唇を落とす。柔らかい頬の感触。
 それは「友情」と云うには甘過ぎて、けれど「恋愛」と呼ぶにはあまりに過ぎた痛みだった。花の蜜を貪ろうとする、さもしい憐れな虫。あるいは自分もそのうちの一匹なのだろう。だが、この思いを和泉に告げることはきっと一生叶わない。
 好きだと云われるたび。
 カワイイと誉められるたびに、傷つく和泉を自分は知っているから。

「なあ、この針で俺の顔ズタズタにしても、あいつらまだ寄ってくると思う?」

 笑うでもなく、悲しむでもなく。
 あの日、ニードルを持ったまま呟かれた和泉の台詞。
 和泉が自身を嫌い続ける限り、自分に和泉を裏切ることはできない。
 自分だけは。


 これは、恋じゃない。
 恋なんかじゃない。


 子供のように丸くなって眠る和泉にコートをかけると沢見は自分の作業に戻った。
 チャイムがどこか遠い世界の音のように聞こえる。
 終わりの見えた安息の日々。
「子離れしたくないのは俺の方だな…」


 沢見の呟きは声にはならず、密やかな吐息となって宙に掻き消えた。


end


back #