HMV



「マジかよ…」


 駅の階段を下り終えたところで、松下は読み終えたメールをパチンと閉じた。
 4限休講。来るだけ無駄。
 氷室のメールはいつでも簡潔で解りやすい。
 喧騒に満ちた改札を抜けると、松下は右に曲がるべき道筋を左に折れた。
 やってらんねー。何のためにこんなとこまできたんだか。
 駅ビルに入り、エスカレーターのステップをニューバランスで踏みしめる。
 斜めに進んでく景色。窓ガラスの向こう、箱庭の世界にミニチュアの人々が住んでるのが見える。ちまちま、ちまちまよく動くもんだ。上れば上るほどその勤勉なヒトたちが蟻に見えてくる。
 やべー、寝不足で思考がシュールんなってるな…。
 今日のために徹夜で仕上げた課題がカバンの中でカサコソと音を立てる。こんなもん、いっそ電車ん中に忘れてきちまえばよかったな。
所詮、自分の中じゃその程度だってことか?
 自問しても返ってくるのは疲れた冷笑だ。下らねー。
 エレベーターミュージックに満ち溢れたフロアに脚を踏み入れる。特に当てがあるわけでもない。ただ、頭の中に音を流したかっただけだ。
 ニューヨークの溜め息、ヘレン・メリルも悪くない。だが、いまはどちらかといえばカーメン・マクレエの気分だった。いつだったかマウントフジで聞いたあのキャラバンが忘れられない。サントラコーナーを抜けてジャズブースに入る。
 ああ? 見慣れた背中がヴォーカルの棚を見回っていた。
 黒いジャケットに皮のハンチング。右手の古ぼけたトランクには今日も変わらずロクなものが入ってないんだろう。引き締まった横顔に今日は無精ヒゲが目立っている。
「休講だってな」
 隣りに並ぶと近江の方から話しかけてきた。
「ああ。さっき知った」
「おまえ顔色悪くねえ?」
「あのクソ課題の所為で寝てねーんだよ…」
「そりゃ、ご愁傷さま」
 油断すると視界に極彩色の花が飛びそうになる。
 眉間に指をあてソレを散らすと松下は思い出したようにトン、とCDの背を叩いた。近江の意識がこちらに向けられる。
「こないだ貸したCD、どうしたよ」
「ああ悪りィ、まだ焼いてねーんだ」
「別に催促じゃねーよ。済んだら次、白木に渡しといて」
「オッケ」
 頭の上、数十センチを流れてくピアノの旋律。
 ああ、チック・コリアってのも悪くないな。そのままヴォーカルコーナーを離れると、ふいに試聴セレクトの中の一枚が目に飛び込んできた。
目を引くジャケット。
 サイケにアレンジされたkouei hashizakiのクレジット。
 ふうん、コウエイさん新作出したんだな。
 そういえば律子がそんなことを云ってたっけか。
「なあ」
「何だよ」
「光栄さんのアルバム、律子さんスジから手に入んねえ?」
 青いジャケットを元通り棚に戻すと、松下はその下の一枚を今度は手に取った。
 もともと詳しい分野ではないが、姉の旦那の影響で最近はそうでもなくなってきた。コレも確か、こないだコウエイさんがメールで薦めてたヤツだよな。
 ジャケット的には好みだが。
「それぐらい自分で買えよ。金持ってんだろ?」
「つーか、橋崎光栄に会いたいって感じ」
「ああ、会いに行けよ、ライヴでもどこでもな」
 試聴機に貼り付けられた「ただいま故障中」の紙が空調の風でヒラヒラとはためく。
 これじゃ試聴セレクトの意味がねえじゃねーか。
 まあ、今度会った時にでも借りればいいか。次に遠征から帰ってくるのは一週間後だったか、二週間後だったか。またメールがくるだろう。
「あー、久しぶりに律子サンの手料理が食いてェ」
「ほう。いつから宗旨替えしたんだ、ロリコン」
「相変わらずの重症ぶりか、シスコン」
 ハンチングの下の視線は休むことなくCDの背を追っている。
「お互いさまだろ」
 一通り物色し終えると、松下は近江と共にジャズブースを後にした。
 いま帰って寝たらバイトまでに起きられない自信がある。
 あと四時間テキトウに潰して、バイト入って子守してメンテ終えて、少なくとも寝るのはその後だ。問題はあのガキが大人しくしててくれるかどうかだが。
 当のガキはいまだ部屋で眠りコケていることだろう。一日の半分は確実に寝てると断言することができる。
 例え起きてたとしても、布団にマミー零したり、三食プリン食わそうとしたり、呆れるほどロクなことしねーんだけどな。あのガキは。
「それで」
「ああ?」
「最近、なんか面白いモノ飼ってるって聞いたけど」
「…氷室か」
「他にいるかよ」
 ロクなことしない点では和泉と氷室はよく似ている。
 だが、底が浅いだけ和泉の方が数段もマシだ。
「俺には見してくんねーの?」
「セーラー服の彼女はどうしたんだよ」
「あれ、云わなかったか? ついこないだ別れたよ。面白かったけどもう飽きたってさ」
「いつものパターンか」
「ああ。性の不一致ってやつだな」
「性癖の不一致だろ?」
 ロリコンのフェチズムに付き合わされる方も大変だったろうよ。
 こないだ写真を見せてもらったが、近江の元カノは顔だけで云えばかなりカワイイ女の子だった。小作りの顔にパッチリとした目。真っ直ぐな黒髪に赤い小さな唇。加えて現役中学生だ。どこであんなコを見つけてくるんだか。
「まあ、初潮がきたっつってたから潮時だとは思ってたけど」
「クサレ外道」
 実感を込めてそう呼んでやると近江はホントだよな、と深く頷いた。
「新聞の三面記事にだけは載んなよ」
「大丈夫。世の中には必ずアンダーグラウンドってもんがあんだよ」
 ジャの道は蛇か。
 連れ立って歩いてると向こうからもう一人、ヘンタイがやってきた。
 大方、考えることは同じってところか。
「よう」
 白い髪を撫でつけて、今日はインテリ風の眼鏡をかけている。
 ヘンプの葉型を基調にしたノーマル迷彩のプリントシャツ。首元には紫のショールを何重にも巻きつけている。相変わらず悪目立ちするヤツだ。
「よう、ヘンタイ」
「やあ、ロリコン。失恋の痛手は癒えたって?」
「おかげさまでね。いまはフリーの身分を満喫してるよ」
 欠伸を一つ噛み殺す。
 寝不足で瞼に錘がついてるかのようだ。黒いタートルを引き上げて口元を隠す。
 そういえば父親の新譜が出てるとか、そういう話もあったな。買う気も聞く気もまるでないが。
「松下」
 氷室の声に、飛びかけてた意識をゆっくり呼び戻す。
「おまえ、ポケットに何入れてんの?」
「ああ?」
 云われてはじめて、自分のジャケットのポケットが無様に膨らんでいたことに気づいた。右手を差し入れると中から黄色い箱が出てくる。
 レギュラーサイズのカロリーメイト。しかもチョコ味じゃねーかよ、よりによって…。
「へえ、カワイイことすんじゃん」
「食えねーよ、チョコなんか」
「心配してんだろ、食ってやれば?」
 ここんとこあの課題にかかりっきりでロクな食事を取った覚えがない。こんなもの、いつの間に入れたんだアイツ。どう考えても、半分は確実に嫌がらせだが。
「何の話だよ」
「だから松下ん家の…」
 割り込むワルキューレ。いいタイミングで氷室の携帯が鳴った。
 声の調子から通話が長引きそうなのが解る。
 なんで年始に近江じゃなく、おまえを呼んだと思ってんだよ。ヘンタイに云うだけ無駄なのは解ってるが、このロリコンは中でもとりわけ性質が悪い。
 二人を置いて通路を進むと、すぐに後ろから近江が追いついてきた。
「で、何の話だよ。気になるじゃねーか」
「気にするまでもねーよ」
 だがハンチングの下の目は引き下がらない。
「ずいぶん予防線、張るんだな」
「プライベートに踏み込まれて喜ぶヤツがいるかよ?」
「少なくとも俺は楽しいぞ」
「おまえを楽しくしてどうすんだよ」
「それで、何の話?」
 埒が明かない。下手に隠し立てして嗅ぎ回られるよりは、ここで食いつかせておいた方が得策かもな。
「アレ」
 入り口近くにあるでっかいロゴマーク。
 松下の指が真っ直ぐにその三文字を指した。
「アレが何の略だか解ったら、教えてやるよ」
「HMV?」
 近江の意識が半分以上、そちらの方に移る。
 氷室の電話はまだ終わりそうにない。
「店員に聞くなよ」
「解ってるって」
 意外に男らしい眉間にシワを寄せて、細い目をさらに細めて近江が首を傾げる。
 しばらく一人で悩んでろよ。その横で窓ガラスに手をあてながら、松下は見るともなしに階下に広がる世界を眺めた。


different view


 青すぎるほどに済んだ冬空。
 見たこともない景色が眼前に広がっている。
 青い空を隠し切れずに漫然としている遠くのビル群。人々の服装にはいちいち極彩色の花が咲いていた。目の前を通り過ぎていく北風にさえ色がついているようだ。
 ミニチュアの世界の、いまなら自分が王だと云える。
 ……やべーな。こりゃ相当アタマがとんでるぜ。
 寝不足の所為で頭が重い。昔は完徹くらいわけなかったのにな…。
 ゴツゴツと体に当たる箱の感触。
 どうせならチーズを入れろってんだよ。引き開けたパッケージからチョコレート色の欠片を取り出す。しばしの逡巡の後、松下はそれを口の中に放り込んだ。
 想像していたよりは甘くない。
「…腹、減ったな」
 急激な空腹感。そういえばここ二日ではじめて口にする食べ物かもしれない。
「メシでも食い行くか?」
「答え解ったのかよ」
「解んねーよ」
「制限時間、あと5秒な」
「おいおい、ヒントもねーのにか?」
 氷室の電話もようやく終わったようだ。
 エレベーターの下降ボタンを押す。
「his master's voice」
「おまえが正解してどうすんだよ」
 追いついてきた白い髪に裏拳をかますと、うまいこと避けた氷室がくるりと近江の方に向き直った。
「こないだの時事音楽論でやったんだよ。爆睡してなきゃ答えられたのにな」
「ちぇ」
 上ってきたエレベーターに三人で乗り込む。
 今度は近江の携帯が鳴った。
 眠気という綿を詰め込まれたみたいに、クインシー・ジョーンズが遠く聞こえる。
 こりゃ一時間でも寝た方がいいのかもしんねーな…。
「電話でもしてやれば」
 氷室がごく小さな声で呟いた。
「何でだよ」
「飼い犬に主人の声でも聞かせてやればって話」
「アホくさ…」
 だが、一階につくと同時に。
 松下のポケットが振動で震えはじめた。
「あー…もしもし」
 横断歩道のど真ん中。
 にぎやかな騒音に紛れることなく、高い声が松下の耳をくすぐる。
「メシ? これから食うところだよ。…ああ、食ったよ食った、あのマズイのな」
 自然に浮かびかけた笑みを意識して引っ込める。
「ああ…その後、一回そっち帰っから」
 和泉に帰りの時間を告げると、松下はパチンと携帯を閉じた。
 溜め息と共に吐き出した息が空に融けていく。まあ、こんな日もアリってことだ。


 歩道の消えそうな白い線を、ニューバランスが踏みしめた。


end


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